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欠けた少年の帰る場所  作者: 羽衣月
聖騎士団
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切断三日後

― 切断から三日後 ―

第七砦・医務棟隔離室


朝だった。


窓の外では、灰色の雪空が第七砦を静かに覆っている。


隔離室の中は薄暗い。


灯火の揺れる音と、時折鳴る医療器具の金属音だけが、静寂を細く裂いていた。


カチャ――


その小さな音が鳴った瞬間。


びくっ、と。


寝台の上のジンの肩が大きく跳ねた。


呼吸が止まる。


瞳が怯えたように扉へ向く。


「……っ」


右手が反射的に左肩を庇った。


そこには、もう何も無い。


だが身体だけは、まだ“腕がある”前提で動いてしまう。


セレナが薬瓶を置く手を止めた。


その反応を、もう何度も見ていたからだ。


三日前に比べれば、確かに錯乱は減った。


絶叫して暴れることも少なくなった。


だが。


それは落ち着いた訳ではない。


恐怖で、もう身体が擦り切れ始めているだけだった。


「……ごめん」


セレナが小さく呟く。


金属音を立てないよう、そっと器具を置き直した。


ジンは何も答えない。


ただ、浅い呼吸を繰り返していた。


目の下には濃い隈。


ほとんど眠れていない。


眠れば夢を見るからだ。


斧。


血。


骨が砕ける音。


泣きながら自分を押さえていた皆の顔。


何度も。


何度も。


夢の中で左腕を切り落とされ続けている。


「ぁ……」


小さな呻き。


右手が、シーツを強く掴んだ。


幻肢痛だ。


存在しない左手の指先が、今も焼けるように痛む。


時折、肘を曲げようとするみたいに肩が痙攣する。


その度にジンの呼吸が乱れた。


コン、コン。


小さなノック。


その瞬間。


ジンの身体が強張った。


視線が反射的に扉へ固定される。


瞳孔が開く。


まるで、また何かされるとでも思ったみたいに。


「……入るよ」


扉が少し開く。


アリアだった。


両手で食器盆を抱えている。


温かいスープ。


柔らかいパン。


食欲が落ちているジンの為に、ミーナが朝から作ったものだった。


アリアは部屋へ入る前に、腰の短剣を外して廊下の棚へ置く。


金属音すら立てないように。


その仕草が、今のジンへの恐怖を理解している証だった。


「……朝ごはん、持ってきた」


声が小さい。


以前みたいな快活さはもう無かった。


ジンは何も答えない。


ただ、アリアの動きを警戒するように見ている。


その視線だけで、アリアの胸が締め付けられた。


以前なら。


この子は自分を見るだけで笑ってくれていたのに。


「ここ、置いとくね」


ゆっくり机へ食器盆を置く。


その時。


廊下側から、別の足音が近づいてきた。


食事当番の若い女騎士だった。


以前、夜番明けによくジンを自室へ呼んでいた騎士の一人。


疲弊した精神を落ち着かせる為に。


眠れない夜を越える為に。


ジンの優しさへ甘えていた側の人間だった。


彼女は扉の前で立ち止まる。


そして。


寝台の上のジンを見た瞬間、顔色を変えた。


「……っ」


細くなった肩。


青白い顔。


左腕の無い姿。


その現実が、まともに胸へ刺さる。


ジンの視線が彼女へ向いた。


瞬間。


女騎士の呼吸が止まる。


その目だ。


怯えている。


以前みたいな信頼の色が、もう無い。


「ご、ごめんなさい……」


思わず零れた声。


ジンはびくりと肩を震わせた。


その反応だけで、女騎士の顔がさらに歪む。


「私……私も……」


涙声。


「あなたを利用してた……」


隔離室が静まり返る。


アリアも何も言えない。


誰も否定できないからだ。


皆、ジンへ甘えていた。


優しいから。


拒まないから。


抱え込んでくれるから。


その結果。


この少年を壊した。


「……大丈夫、です」


ぽつり、と。


ジンが小さく言った。


反射みたいな敬語だった。


その瞬間。


女騎士が崩れる。


「大丈夫じゃないでしょう……!」


泣き声。


「左腕、無くなったのに……!」


ジンは黙る。


返事が出来ない。


すると。


右手が無意識に左肩へ触れた。


何かを探すみたいに。


そこには、もう何も無いのに。


ぴくり、とジンの呼吸が乱れる。


「……っ」


幻肢痛。


存在しない指先が、また焼けるように痛み始める。


ジンは小さく身体を丸めた。


それを見たアリアが、反射的に一歩踏み出す。


だが。


その瞬間。


ジンの身体がびくりと強張った。


怯えた目。


アリアの足が止まる。


「……ごめん」


掠れた声。


それ以上、近づけなかった。


以前みたいに頭を撫でることも。


抱き締めることも。


今はもう、出来なかった。


隔離室を出た後も、誰もしばらく動けなかった。


廊下には重たい沈黙だけが残っている。


遠くで聞こえるのは、砦外壁を叩く風の音だけだった。


若い女騎士は壁へ背を預けたまま、顔を覆って泣いていた。


「……私、あの子に……」


声が震える。


「“ありがとう”って言われたこと、あるんです……」


誰も返事をしない。


出来なかった。


彼女だけではない。


この場にいる誰もが、一度はジンへ救われている。


眠れない夜。


戦場帰りの震える身体。


血と死の臭いが頭から離れなくなった時。


ジンはいつも、黙って隣に居た。


だからこそ。


今の姿が、余計に苦しかった。


アリアは唇を噛み締める。


扉の向こう。


ジンはまだ小さく身体を丸めているのだろう。


誰かが近づくだけで怯えながら。


「……っ」


胸が潰れそうになる。


その時だった。


廊下の奥から、静かな足音が近づいてくる。


フィリスだった。


灰色の羽毛を揺らしながら、記録束を抱えて歩いてくる。


だが、その足取りはどこか重い。


「……様子は」


静かな声。


アリアは俯いたまま答える。


「まだ……怖がってる」


その一言で、フィリスは全てを察した。


数秒、沈黙。


やがて彼女は小さく息を吐く。


「当然です」


責める声音ではなかった。


ただ、事実を確認するみたいな声。


フィリスは静かに隔離室の扉を見る。


その向こうにいる少年を想像する。


三日前。


泣き叫びながら助けを求めていた姿。


そして今。


恐怖を押し殺し始めた目。


「……記録を書いていました」


ぽつり、とフィリスが呟く。


「公式記録です」


誰も口を挟まない。


「対象・暁ジン」


「左上肢切除後、生存――」


そこで言葉が止まる。


フィリスの嘴が、微かに震えた。


「……書けませんでした」


掠れた声。


「“対象”なんて」


アリアが顔を上げる。


フィリスは記録束を抱えたまま、強く目を閉じた。


「私は記録係です」


「戦死者も、虐殺も、処刑も見てきました」


「どれだけ悲惨でも、記録だけは残してきた」


その声は静かだった。


だが。


今にも壊れそうだった。


「でも……今回は駄目でした」


長い沈黙。


廊下の空気が重く沈む。


そしてフィリスは、ゆっくり目を開いた。


「私達は、“戦争”をしたんじゃない」


静かな声。


「家族を、一人壊したんです」


その言葉に。


誰も反論できなかった。


扉の向こうでは、時折小さな物音がする。


ジンだ。


恐らくまた、幻肢痛に耐えている。


存在しない左腕を庇うように、身体を丸めながら。


フィリスは扉へ視線を向けたまま、小さく呟く。


「……あの子は、もう私達を信じられないでしょうね」


その声だけが。


冷え切った廊下へ、静かに落ちていった。

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