切断準備
― 深夜 ―
第七砦・医務室前廊下
宴はまだ続いていた。
遠くから笑い声が聞こえる。
酒樽を叩く音。
酔った騎士達の歌声。
けれど医務棟付近だけは異様に静かだった。
窓の外では雪が降り続いている。
白い雪明かりが石廊下をぼんやり照らしていた。
その静寂の中。
ベリアリアは、一人立ち尽くしていた。
両手には湯気の立つ木製カップ。
中には温めた蜂蜜ミルク。
そして――睡眠薬。
透明な液体は完全に溶け切り、もう見分けはつかない。
「……っ」
喉が震える。
何度も引き返そうと思った。
今から全部捨ててしまえば。
ハインリヒに逆らえば。
そう考える度に、“数万の民”という言葉が頭をよぎる。
グングニル。
首都防衛線。
帝国軍百万。
戦争。
正しさが分からなくなる。
「……ジン」
小さく名前を呼ぶ。
返事はまだ無い。
部屋の向こうでは、少年が着替えている音がした。
ガチャ。
扉が開く。
「ベリアリアさん?」
黒髪の少年が顔を出した。
少し酒が入っているのか、頬がほんのり赤い。
「どうしたんですか、こんな時間に」
その笑顔を見た瞬間。
胸が潰れそうになった。
「あ……その……」
言葉が出ない。
手が震える。
カップの中のミルクが小さく波打った。
「……?」
ジンが不思議そうに首を傾げる。
「顔色悪いですよ?」
優しい声。
心配している。
騙される側なのに。
「眠れるようにと思って……」
ようやく絞り出した声。
「温かい飲み物を……持ってきました」
「あ、ありがとうございます」
ジンが自然に笑った。
何の疑いもなく。
それが余計に苦しかった。
部屋へ入る。
小さな個室。
机には読みかけの戦術書。
壁には槍。
整えられた寝台。
質素だが、妙に生活感があった。
「今日、皆楽しそうでしたね」
ジンが椅子へ腰掛けながら言う。
「久々に笑ってる顔いっぱい見れました」
ベリアリアは答えられない。
少年は続ける。
「最近ずっと辛そうだったから」
「アリアさんも」
「ルシャさんも」
「皆、少し元気になってきた気がします」
その言葉に、ベリアリアの喉が詰まる。
――違う。
皆、壊れかけている。
お前を失う未来を知ってしまったから。
「ベリアリアさん?」
ジンが心配そうに覗き込む。
「本当に大丈夫ですか?」
限界だった。
ベリアリアは顔を逸らした。
涙が零れそうになる。
「……大丈夫、です」
震える声。
「今日は、ちゃんと眠ってくださいね」
「はい」
ジンが素直に頷く。
そして。
迷いなくカップへ口をつけた。
「――ッ」
ベリアリアの指先が震える。
止めたかった。
今すぐ奪い取ってしまいたかった。
けれど。
もう遅い。
「美味しいです」
ジンが少し笑う。
「甘くて落ち着く……」
その言葉が胸へ刺さる。
ベリアリアは耐えきれず俯いた。
長い沈黙。
やがて。
「……ベリアリアさん」
眠気混じりの声。
「はい……」
「いつもありがとうございます」
優しい声だった。
「僕、ここに来て良かったって思ってます」
「皆に会えたから」
視界が滲む。
「……っ」
「だから」
ジンが眠そうに目を細める。
「もし戦争終わったら……皆でどこか行きましょうね」
「温泉とか」
「ミーナさん喜びそうだし……」
そこで言葉が途切れた。
薬が効き始めている。
「……ジン?」
呼びかける。
返事は無い。
黒髪の少年は、そのまま静かに眠りへ落ちていった。
穏やかな寝息。
まるで安心しきった子供みたいだった。
「……ごめんなさい」
ベリアリアの声が崩れる。
ぽたり。
涙がジンの手へ落ちた。
「ごめんなさい……!」
嗚咽を堪えながら、彼女は眠る少年の手を強く握り締めた。
その左腕が。
数時間後には失われるとも知らずに。
― 三日目・深夜 ―
第七砦・医務棟中央処置室
雪が降っていた。
窓の外を白が埋め尽くしている。
その静寂とは裏腹に、医務棟の空気は異様な緊張に包まれていた。
中央処置室。
普段は重傷兵の手術に使われる広い空間。
今夜、その中央には――眠るジンがいた。
深い眠りの中。
静かな寝息。
まるで子供みたいに穏やかな表情だった。
その周囲を、第七砦所属の聖騎士団員達が取り囲んでいる。
第四大隊だけではない。
切断計画を知らされていなかった団員達まで、深夜にも関わらず全員招集されていた。
「な、何が始まるんですか……?」
若い女騎士の一人が不安げに呟く。
「なんでジンくんが……」
別の騎士も青ざめた顔で少年を見ていた。
誰も事情を知らない。
だが、異常だけは理解できた。
その時。
カツ――
カツ――
重い靴音が響く。
全員が振り返った。
医務室の扉が開く。
現れたのは、白銀の長髪を揺らす女性。
蒼い瞳。
冷たい美貌。
聖王国女王。
アストレア・グランデール。
その瞬間。
全騎士が一斉に跪いた。
「陛下……!」
女王は誰にも視線を向けない。
ただ真っ直ぐ、眠るジンへ歩み寄る。
その後ろには黒衣の側近達。
無機質な顔。
感情の無い足取り。
女王は処置台の前で立ち止まった。
眠る少年を見下ろす。
「……これが対象か」
静かな声。
その蒼い瞳が、ジンの左腕へ向けられる。
しばしの沈黙。
やがて。
女王は淡々と命じた。
「拘束せよ」
空気が止まる。
「……え?」
若い騎士が顔を上げた。
だが次の瞬間、側近達が無言で革拘束具を机へ並べ始める。
金属音。
冷たい音だった。
「り、陛下……?」
誰かの声が震える。
「ジンくんを拘束って……」
「早くしろ」
女王の声。
感情は一切無い。
「対象は深度睡眠状態にある」
「抵抗は無い」
「――拘束せよ」
命令。
絶対命令だった。
誰も動けない。
その沈黙を破ったのはハインリヒだった。
「……従え」
掠れた声。
老騎士は目を伏せていた。
「これは王命だ」
ルシャの牙が剥き出しになる。
アリアは震えていた。
ベリアリアは今にも倒れそうな顔をしている。
だが。
結局。
誰も逆らえなかった。
「……ごめん」
最初に動いたのはリオーネだった。
震える手で、ジンの右腕へ拘束具を嵌める。
革ベルトが締まる音。
ガチャ。
その音が妙に大きく響いた。
「っ……」
アリアが唇を押さえる。
次にルシャが左肩側を固定する。
狼獣人の指先が震えていた。
「クソッ……」
低い唸り声。
まるで自分自身を殺したいみたいな声だった。
ベリアリアは泣きながら足元を固定している。
「ごめんなさい……」
「ごめんなさい……!」
何度も。
何度も。
眠る少年へ謝り続ける。
それでも。
ジンは起きない。
薬が深く効いている。
穏やかな寝息だけが続いていた。
全拘束完了。
両腕。
両足。
胸部固定。
完全拘束。
その姿は、まるで罪人だった。
その時。
女王の側近が前へ出た。
黒布に包まれた長物を机へ置く。
布が外される。
現れたのは――巨大な処刑斧。
鈍く光る刃。
医療器具ではない。
完全に“切断”のためだけの武器だった。
ざわり、と空気が揺れる。
「な……」
若い女騎士が顔を青くする。
「え、ちょっと待って……」
「なにする気なの……?」
側近が無言で斧を持ち上げた。
そして。
聖騎士団員達へ向ける。
「対象左腕切除を開始する」
冷たい声。
「担当者は前へ」
誰も動かなかった。
当然だった。
空気が凍り付く。
皆、理解してしまったから。
これは治療ではない。
処刑に近い。
「……嘘だろ」
ルシャが掠れた声を漏らす。
アリアの瞳から涙が零れ落ちた。
「やだ……」
「やだよ……こんなの……」
ベリアリアは完全に崩れ落ちていた。
その中で。
眠るジンだけが、穏やかな顔をしている。
何も知らずに。
自分を“家族”だと言っていた人達に、これから腕を切り落とされるとも知らずに。




