優しさの軍事利用
薄曇りの朝だった。
聖王国第七砦――その食堂には、勝利の翌日とは思えない妙な空気が漂っていた。
食器の触れ合う音。
薄い笑い声。
焼きたての黒パンの匂い。
表面上は、いつも通りの朝だ。
だが。
(おかしい……)
鳥獣人の記録係フィリスは、銀縁眼鏡の奥で静かに目を細めた。
昨夜まで、聖騎士団は帝国軍相手に大戦果を挙げていたはずだった。
北方戦線を押し返し、死傷者も比較的少ない。
本来なら、もっと空気は軽いはずなのだ。
それなのに。
誰もが落ち着かない。
まるで何かに飢えているようだった。
「ルシャさん、今日も早起きですね」
フィリスが声をかける。
食堂の隅。
紅髪の狼獣人ルシャは、冷めたスープを前にぼんやり座っていた。
「ああ……」
返事は短い。
彼女の視線は会話中も絶えず食堂入口へ向いていた。
誰かを待っている。
そんな目だった。
(視線誘導が不自然……)
フィリスは無意識に手帳へ記録する。
《ルシャ副隊長、集中力低下。外部対象への執着傾向》
その時。
食堂扉が開いた。
「……!」
ルシャの耳がぴくりと動く。
入ってきたのは黒髪の少年――ジンだった。
瞬間。
ルシャの表情が僅かに和らぐ。
その変化は本当に一瞬だった。
だが、観察に長けたフィリスは見逃さなかった。
(今のは……)
まるで。
禁断症状が緩和された患者みたいだった。
「おはようございます」
ジンはいつものように穏やかに頭を下げる。
だがその首筋には、包帯が巻かれていた。
制服の襟元から覗く肌にも赤い痕が見える。
フィリスの瞳が細くなる。
(また怪我……?)
いや。
戦傷ではない。
傷の位置が妙だった。
まるで獣に噛まれたような痕。
しかも新しい。
その時だった。
「あっ……」
奥の席にいたアリアが立ち上がる。
水色の猫耳がぴくぴく震えていた。
彼女は数秒だけジンを見つめ――すぐ視線を逸らした。
頬が赤い。
だが、その表情には昨夜の祝勝会の高揚とは別種の熱があった。
「今日は……来るといいわね……」
誰に言うでもなく呟く。
そして食事も半分残したまま食堂を出て行ってしまった。
(……来る?)
フィリスは眉を寄せる。
アリアの歩調は速かった。
どこか焦燥感に駆られている。
その後ろ姿を見送りながら、フィリスはゆっくり理解し始めていた。
この騎士団では、何かがおかしくなっている。
しかも。
その中心には、間違いなくジンがいる。
⸻
昼過ぎ。
記録提出のため訪れた団長執務室。
重厚な木扉を閉めた瞬間、フィリスは単刀直入に切り込んだ。
「最近の騎士たちの行動変化について、ご存知でしょうか」
老騎士ハインリヒは、書類から目を離さないまま答えた。
「ああ」
短い返答。
「皆、落ち着きがなくなった」
金縁眼鏡が鈍く光る。
「戦闘の高揚感が抜けきらんのだ。特に前線組はな」
「それだけではありません」
フィリスの声は冷静だった。
「ルシャ副隊長、アリア隊員、その他複数名に共通した依存傾向が見られます」
ハインリヒの筆が止まる。
沈黙。
部屋の空気が僅かに重くなった。
「……気づいたようだな」
低い声だった。
フィリスの背筋に冷たいものが走る。
「原因は、ジンですか?」
「そうだ」
団長は否定しなかった。
窓際へ歩み寄る。
遠くでは兵士たちが城壁補修を行っている。
「彼の持つ“特性”に、我々は頼りすぎた」
「特性……?」
フィリスは眉を寄せた。
ハインリヒはしばらく黙った後、静かに語り始める。
「ジンはな」
「この聖騎士団で育った」
「記憶も家族もないまま、“ここ”だけを居場所として生きてきた」
淡々とした声音。
だがそこには微かな罪悪感が滲んでいた。
「だから、誰も拒まない」
「誰が縋っても受け入れる」
「泣く者がいれば抱き締め、狂う者がいれば寄り添い、自責に潰れた者には“お前は悪くない”と言う」
フィリスは息を呑む。
脳裏に浮かぶ。
夜の宿舎。
様々な部屋から出入りするジンの姿。
疲れ切った顔。
それでも笑う姿。
「まさか……」
「そうだ」
ハインリヒは振り返る。
「上層部は、彼を利用することにした」
その瞬間。
フィリスの全身に嫌悪感が走った。
「利用……?」
「心理療法兼慰安係だ」
冷酷な現実。
「前線兵の精神崩壊が限界に達していた。睡眠障害、発狂、自傷、逃亡未遂……」
「そこで分かったのだ」
「ジンと接触した兵士は、短期間だが精神状態が安定する」
フィリスは拳を握り締める。
「だから……あの子を皆の部屋へ?」
「必要だった」
ハインリヒは苦しげに答える。
「戦況悪化の一因は士気低下だった。騎士団が崩壊すれば、聖王国は終わる」
「だから少年一人を犠牲にしたと?」
鋭い声。
団長は否定しない。
「非人道的です」
フィリスの拳が机を叩いた。
羽毛が逆立つ。
「ジンは道具ではない!」
「分かっている!!」
初めてハインリヒが怒鳴った。
老騎士の声が部屋を震わせる。
「だが戦争なのだ!」
「毎日何十人も死ぬ!」
「心が壊れた騎士から順番に戦線は崩れる!」
荒い呼吸。
そして。
疲れ切った声。
「……ジン自身が拒まなかった」
その言葉が、フィリスの胸を刺した。
拒まない。
違う。
拒み方を知らないのだ。
この騎士団しか知らない少年は、“必要とされること”を断れない。
「君も感じたはずだ」
ハインリヒが静かに言う。
「ジンの傍にいると、不思議と安らぐ」
「……」
フィリスは答えなかった。
だが否定もできなかった。
記録係として彼と話す時。
確かに、胸のざわつきが静まる瞬間があった。
あの穏やかな声。
受け止めるような眼差し。
誰も拒絶しない優しさ。
「あれは才能だ」
「そして呪いでもある」
団長の言葉に、フィリスは目を伏せた。
窓の外。
中庭では、ジンが負傷兵に包帯を巻いていた。
疲れているはずなのに。
少年は笑っていた。
まるで、自分が削られていることにすら気づいていないみたいに。
ハインリヒは窓の外を見つめたまま、低く呟いた。
「それに彼は……」
言葉が途切れる。
老騎士の横顔に、一瞬だけ迷いが走った。
「……いや」
小さく首を振る。
「まだ末端に知らせるには早いか」
その言い回しに、フィリスの眉がぴくりと動いた。
「末端……?」
静かな問い。
だがその声には、記録係特有の鋭さが滲んでいた。
ハインリヒは答えない。
執務机へ戻り、無意味に書類を整え始める。
明らかな誤魔化しだった。
(隠している)
フィリスは確信する。
しかも。
単なる軍事機密ではない。
ジン本人に関する、もっと根本的な何かだ。
「団長」
フィリスが一歩踏み込む。
「以前から気になっていました」
「ジンだけ扱いが異常です」
「記憶喪失の孤児にしては、あまりにも」
ハインリヒの指先が止まる。
「戦闘訓練」
「前線投入時期」
「回復速度」
「東方武術への異常適応」
「そして今回の……慰安係としての運用」
一つずつ積み上げるように言葉を並べる。
「まるで最初から、“そう使う前提”で育成されていたみたいです」
沈黙。
部屋の空気が冷える。
ハインリヒはゆっくり眼鏡を外した。
深い疲労の刻まれた瞳が現れる。
「君は優秀だな、フィリス」
それは褒め言葉ではなかった。
むしろ、“気づきすぎた”者への警告に近い。
「ですが事実です」
フィリスは怯まない。
黒い羽毛を揺らしながら真っ直ぐ団長を見据える。
「ジンは何者なんですか?」
老騎士は答えない。
ただ窓の外を見る。
中庭では、ジンが負傷兵の子どもに笑いかけていた。
擦り切れた包帯姿のまま。
自分自身が傷だらけなのに。
「……あの子は優しすぎる」
ぽつり、とハインリヒが呟く。
「だから壊れる」
「我々のような戦争屋に囲まれて育ったにも関わらず、憎しみではなく“守る”を選んでしまった」
その声には、奇妙な後悔が滲んでいた。
「本来なら、もっと冷酷な兵士になるはずだった」
フィリスの瞳が揺れる。
“なるはずだった”。
その言い方。
まるで。
誰かが意図して作ろうとしていたみたいだった。
「団長……まさか」
ハインリヒはそこで初めて、鋭い目を向けた。
「それ以上は聞くな」
低い声。
軍人としての圧力が部屋を満たす。
「今の君に知識は必要ない」
「だが一つだけ忠告しておく」
フィリスは黙って続きを待つ。
「ジンに必要以上に情を移すな」
「……」
「皆、最初は“守ってやりたい”と思う」
「だが最後には、逆に自分が彼へ依存していく」
重い言葉だった。
ルシャ。
ベリアリア。
アリア。
彼女達の異常な執着を思い出し、フィリスの背筋に冷たいものが走る。
「それほど危険な存在だと?」
「危険、というより……」
ハインリヒは僅かに目を伏せた。
「空っぽなのだ、あの子は」
「空っぽ……?」
「記憶も、欲望も、自我すら曖昧だ」
「だから他人の感情を際限なく受け入れてしまう」
フィリスの胸がざわつく。
まるで器だ。
誰かの悲しみを。
狂気を。
依存を。
何もかも飲み込むための。
「……そんなの」
フィリスは思わず呟いた。
「壊れるに決まってるじゃないですか」
ハインリヒは否定しなかった。
その沈黙こそが答えだった。




