傷
アリアとの狂乱の一夜が明けた翌朝――。
薄いカーテンの隙間から差し込む朝日が、静かな寝室を淡く照らしていた。
昨夜の熱気だけがまだ部屋の中に残っている。
乱れた寝台。
床へ落ちた衣服。
破れたシーツ。
そして微かに漂う、涙と汗と血の混ざった匂い。
「……っ!?」
ジンは鋭い痛みで目を覚ました。
身体を起こそうとした瞬間、背中から肩にかけて焼けるような痛みが走る。
「ぅ……!」
思わず息が漏れた。
ゆっくり視線を落とす。
胸元には赤い爪痕。
肩には深い噛み跡。
腹部や腕にも、昨夜つけられた痣が無数に残っていた。
まるで獣に襲われたみたいだった。
「……」
ジンはしばらく呆然と、自分の身体を見つめていた。
昨夜の記憶が断片的に蘇る。
泣きながら叫ぶアリア。
震える指。
壊れたみたいに何度も「ごめん」と繰り返していた声。
そして。
自分を抱き締めながら泣いていた少女の温度。
「ごめん……私……」
掠れた声が聞こえた。
ベッド脇にはアリアが座り込んでいた。
水色の髪は乱れ、猫耳はぺたりと伏せられている。
目は真っ赤だった。
おそらく、一睡もしていない。
彼女の震える指先が、そっとジンの背中へ触れる。
その瞬間、ジンの肩がびくりと揺れた。
「っ……」
「ご、ごめん……!」
慌てて手を引っ込めるアリア。
「こんな乱暴にするつもりじゃなかったのに……」
声が震える。
「本当に……ごめんなさい……」
昨夜、自分がどれほど取り乱していたのかを思い出しているのだろう。
猫獣人特有の鋭い爪。
強い顎。
興奮状態になると高まる獣性。
本来なら戦場で敵を裂くためのそれを、彼女は最も大切にしたかった相手へ向けてしまった。
「……うん」
ジンは苦しそうに頷く。
身体中が重かった。
少し動くだけでも痛みが走る。
特に肩口の噛み跡は熱を持っていた。
だが。
目の前で泣き崩れそうになっているアリアを見ると、不思議と怒る気にはなれなかった。
「でも……痛いよ?」
冗談めかして言ったつもりだった。
けれど。
「当たり前でしょ……!」
アリアは泣きながら叫んだ。
その声にジンが目を丸くする。
アリアは自分の手を見つめていた。
細く白い指。
その先端から伸びる猫の爪。
昨夜、その爪が何度もジンの肌を裂いた。
「私……何やってるんだろ……」
ぽつり、と呟く。
「好きな人を傷つけて……最低だよ……」
声が震える。
「本当は、優しくしたかったのに……」
涙がぽろぽろ零れ落ちた。
「ずっと我慢してたの……」
ジンは黙って聞いていた。
アリアの言葉は、堰を切ったように溢れ出していく。
「最初はね、ジンくんが皆に可愛がられてるの、嬉しかったんだよ?」
小さく笑う。
「弟分みたいで……頑張り屋で……危なっかしくて……」
震える声。
「でも、途中から違った」
猫耳が小さく揺れる。
「夜になると、いろんな人の部屋へ呼ばれるようになって」
「戻ってくる時、いつも疲れた顔してて」
「なのに“平気です”って笑うから……」
アリアは唇を噛んだ。
「気づいた時には、怖くなってた」
「怖い……?」
「ジンくんが壊れちゃいそうで」
その一言に、ジンの胸が僅かに痛んだ。
アリアはずっと見ていたのだ。
彼が“慰安係”として扱われ始めていく過程を。
戦争で壊れた騎士たちが、彼へ依存していく様子を。
そして。
誰よりも優しい少年が、それを拒まないことを。
「ルシャさんも……ベリアリアさんも……皆、ジンくんに救われてた」
アリアは涙を拭う。
「でも、それって変だよ……」
震える声。
「なんでジンくんばっかり、皆の痛み背負わなきゃいけないの?」
答えられなかった。
ジン自身、その問いの答えを知らない。
ただ。
必要とされることが嬉しかった。
記憶のない自分でも、“ここにいていい”と思えたから。
「私ね」
アリアが俯いたまま続ける。
「最初は嫉妬してるだけだと思ってた」
「ルシャさんにも、ベリアリアさんにも」
「でも違ったの……」
涙声。
「苦しかった」
「ジンくんが、“慣れてる顔”して笑うのが、一番苦しかった……」
ジンは何も言えなかった。
その通りだったからだ。
いつの間にか、自分は痛みに慣れていた。
誰かに必要とされるなら。
誰かが壊れずに済むなら。
それでいいと思ってしまっていた。
「だから昨日……」
アリアの肩が震える。
「褒賞権の紙を見た瞬間、頭おかしくなりそうだった」
『対象:ジン』
その文字を見た時。
アリアは理解してしまったのだ。
騎士団上層部ですら、もう彼を“一人の少年”として扱っていないことを。
「皆がジンくんを使うなら……私も欲しいって思っちゃった」
涙がぽたりと落ちる。
「最低だよね……」
ジンはしばらく黙っていた。
やがて。
ゆっくりと手を伸ばす。
痛みで腕が震える。
それでも、彼はアリアの頭をそっと撫でた。
「大丈夫だよ」
「……っ」
「これくらいで、嫌いになったりしないから」
その瞬間。
アリアの涙が再び溢れた。
「そんな優しくしないでよ……」
泣き声。
「もっと怒ってよ……!」
ジンは苦笑する。
「怒れないよ」
「どうして……」
「だってアリアも、苦しかったんでしょ?」
その言葉に、アリアは完全に泣き崩れた。
まるで子どもみたいに。
ジンの胸へ顔を埋め、震えながら嗚咽する。
「ごめんなさい……」
「ごめんね……」
謝罪だけが繰り返される。
ジンはそんな彼女の背中を静かに抱き締めた。
窓の外では、勝利の翌朝らしく兵士たちの笑い声が響いている。
だが。
この部屋だけは違った。
戦争の歪み。
壊れていく心。
依存と孤独。
その全てが静かに沈殿している。
そしてジンは、胸の奥で理解し始めていた。
自分はもう、“普通の少年”ではいられないのだと。
誰かを救うたび。
誰かの痛みを受け止めるたび。
少しずつ、この騎士団に呑み込まれていく。
昨夜アリアにつけられた無数の傷痕は、その証明のように思えた。




