聖騎士団と歪な関係
夕暮れの砦は、不穏な静けさに包まれていた。
昼間に飛び込んできた報せ――帝国軍前衛部隊、城壁より五キロ地点到達。
その情報は砦全体へ重く沈殿している。
誰もが口数を減らし、誰もが次の総攻撃を予感していた。
風が吹くたび、遠方から硝煙の臭いが漂ってくる。
⸻
「おい! ジン!」
声に振り返る。
戦塵に塗れたルシャがこちらへ歩いてきていた。
紅髪は泥と煤で乱れ、右腕には新しい包帯が巻かれている。鎧にも深い裂傷痕が残っていた。
「お疲れ様です!」
反射的に敬礼しようとしたジンの手を、ルシャが軽く払い落とす。
「堅苦しいのはいい」
ぶっきらぼうに言いながらも、その黄玉色の瞳は真っ直ぐ少年を見ていた。
「怪我はないか?」
低い声音。
だがそこに滲むのは、明らかな心配だった。
「大丈夫です」
ジンはいつものように笑う。
「今日は重傷者を何人か後送しただけなので」
「……そうか」
ルシャは小さく息を吐いた。
そして無意識のように、少年の肩を軽く叩く。
「だがな。無理はするな」
真剣な声。
「お前はまだ戦場に慣れきってない。自分で思ってる以上に、心は削られてる」
「わかってます」
素直に頷くジン。
だが、その脳裏には昼間の光景が焼き付いていた。
泥の中で泣き叫ぶ負傷兵。
脚を失った若い騎士。
止血の間に合わなかった少女兵。
そして――助けられなかった者達。
(守りたいのに……)
胸の奥が鈍く痛んだ。
⸻
その夜。
ジンは副官室へ呼び出されていた。
石造りの小部屋。
燭台の炎だけが机上を照らしている。
「今日の件だが……」
副官の冷たい声。
机に置かれた羊皮紙には、整然とした筆跡で任務内容が記されていた。
『第二連絡通路巡回』
『負傷兵移送補助』
そして最下段。
乱雑な走り書き。
『第四宿泊棟 二十三時半』
ジンの瞳が僅かに揺れる。
だが少年は何も言わなかった。
「……承知しました」
静かに頭を下げる。
その意味を、もう理解してしまっているからだ。
⸻
巡回任務を終えた帰路。
共同湯浴み場の前を通りかかった時だった。
「ジンくーん!」
明るい声。
湯気の向こうからアリアが顔を出していた。
水色の毛並みが湯気でしっとり濡れている。
「一緒に入る?」
無邪気な笑顔。
その奥ではミーナが泡遊びをしており、ベリアリアは湯舟の端で眠そうに目を細めていた。
一瞬だけ。
“普通”の空気がそこにあった。
戦争を忘れられるような、穏やかな時間。
「今日は遠慮しておきます」
ジンは小さく微笑む。
「えぇー、残念」
アリアが頬を膨らませる。
だが次の瞬間、その瞳が曇った。
「……でもさ」
湯気越しに真っ直ぐ見つめてくる。
「戻ってきた時、すごく疲れた顔してたよ?」
「……」
言葉が詰まる。
実際、ジンは第四宿泊棟で心を壊しかけた騎士達の相手をしてきたばかりだった。
悪夢に魘される者。
泣き続ける者。
錯乱する者。
そして――。
人肌を求めるように、少年へ縋り付いてくる者達。
「変なこと……されてないよね?」
アリアの声が少し低くなる。
鋭い勘だった。
「ち、違います!」
ジンは慌てて首を振る。
「普通に話を聞いてただけです!」
嘘だった。
抱き締められることもあった。
泣きながら爪を立てられることもあった。
戦場で壊れた心の捌け口として求められることも。
だがジンは、それを“必要な役目”だと思い込もうとしていた。
「……本当に?」
アリアの瞳が揺れる。
納得していない顔だった。
「おやすみなさい!」
耐えきれず、ジンは逃げるようにその場を去った。
背後から届く声。
「ちゃんと休んでよ……?」
優しい声音だった。
だからこそ、胸が痛んだ。
⸻
自室。
窓際へ立つ。
遠方には帝国軍陣地の松明が無数に灯っていた。
夜の平原に浮かぶ赤い光。
まるで獣の眼だ。
「あと何日……持ちこたえられるんだろう」
ぽつりと零れる本音。
その時だった。
コンコン――。
控えめなノック音。
「……入ってもいい?」
聞こえてきたのはアリアの声だった。
⸻
扉を開ける。
そこに立っていたアリアは、既に湯浴みを終えていた。
濡れた水色毛並み。
薄い寝衣。
不安げに揺れる猫耳。
「どうしたんですか?」
驚くジン。
アリアは少し視線を逸らした。
「ごめん……どうしても気になって」
小さな声。
「さっきのジンくん、嘘ついてる顔だったから」
鋭い言葉だった。
ジンは返せない。
沈黙が落ちる。
やがてアリアがぽつりと呟いた。
「……最初はね、私の気のせいだと思ってた」
「え?」
「でも最近、夜に呼び出された後のジンくん……変なんだもん」
ジンの肩が小さく揺れた。
アリアは続ける。
「戦場から戻った時より疲れた顔してる」
「それは……」
「服も乱れてる時あるし、手首に跡ついてたこともあった」
思わずジンが左手を隠す。
その反応だけで、アリアの表情が曇った。
「やっぱり……」
小さな呟き。
「ねぇジンくん」
震える声。
「誰かに、“優しい子だから大丈夫”って扱われてない?」
その言葉に、ジンは息を呑んだ。
アリアは責めているわけじゃない。
怒っているわけでもない。
ただ――悲しそうだった。
「ジンくんってさ」
アリアが俯く。
「誰かが苦しんでたら、自分を削ってでも助けようとするじゃん」
沈黙。
窓の外では、帝国軍陣地の炎が赤く揺れている。
「だから怖いの」
アリアが顔を上げる。
瞳が濡れていた。
「皆が少しずつ、ジンくんに甘えてる気がして」
その一言が、胸に深く刺さる。
ジンは何も言えなかった。
否定できなかった。
自分でも、もう分からなくなっていたからだ。
“必要とされる”ことと、
“消耗させられる”ことの境界が。
「ジン、こっち来て!」
紅髪のルシャが手招きしている。団長不在の今夜は特別に寛いで良いとの沙汰があり、大広間では騎士たちが宴を繰り広げていた。
「お疲れ様です!」
少年が駆け寄ると紅髪の狼獣人が満面の笑みで杯を掲げる。
「今日は頑張ったな。ほら一杯やりなよ」
「ありがとうございます」
恭しく受け取るジン。葡萄酒が喉を潤す。
「そういえば聞いたか?」
ミーナが隣に座りながら口を開く。白い毛並みがランプの光を浴びて柔らかく輝く。
「南側城壁の修理状況なんですが……」
「ああ!それなら……」
熱心に討論が始まった。若い騎士たちにとっては日々の生存がかかっている課題だ。
「最近変わったことがない?」
ふとアリアが核心を突く質問をした。猫耳をピクピクさせながら水色の瞳が探るような視線を送る。
「特に何も」
ジンが無邪気な笑顔で答える。
(嘘……)内心で自分自身に言い聞かせる。(団長の命令で色々やらされてるけど……これは大事な任務なんだ)
「そっか……」
アリアの表情が曇る。彼女は少年の目をじっと見つめながら立ち上がった。
「少し風に当たりに行ってくるね」
庭園へ消える背中を見送りながら、ルシャがそっと囁いた。
「アリアの奴……なんか勘づいてるみたいだな」
「え?」
戸惑うジン。
「お前が夜間巡回以外に呼ばれてること」
紅髪が微かに揺れる。「私だって見てるんだ。あちこちの宿舎から出てくるお前を」
「それは……」言葉に詰まる少年。
「言わなくていい」ルシャが遮った。「戦争が長引けば組織が歪むのは必然だ。だがな……」
一瞬だけ獣人の野生が垣間見える鋭い目付きになる。
「大切な弟分を弄ばせるつもりはないからな」
その言葉にジンの胸が熱くなった。初めて「守る側」ではなく「守られる側」の居心地良さを感じた瞬間だった




