紫紅の魔石
聖王国首都――。
高さ三十メートルにも及ぶ白亜の城壁。その最上部へ登ったジンは、冷たい風を受けながら息を呑んだ。
眼下に広がる大平原。その景色は、もはや“戦場”という言葉だけでは足りなかった。
黒煙。
焼け焦げた投石機。
無数の屍。
泥と血が混ざり合った赤黒い大地。
そして、その果てまで埋め尽くす帝国軍の漆黒の軍旗。
「ここにまで……」
呟きは風に攫われた。
黒髪が揺れる。
その瞬間、脳裏に断片的な光景が走った。
炎。
崩れ落ちる家屋。
誰かの悲鳴。
焼ける匂い。
――幼い頃の記憶。
だが輪郭を掴む前に、それらは霧のように消えていく。
「……まただ」
額を押さえる。
記憶は戻らない。
それでも、胸の奥だけが焼け付くように痛んでいた。
⸻
夕刻。
聖騎士団本営に、突然の召集がかかった。
重苦しい空気の中、団長ハインリヒは静かに告げる。
「明朝、北東の森奥に存在する旧王朝時代の祠へ向かえ」
低く響く声。
「はい」
即座に返答したジンだったが、続く命令に僅かに目を見開く。
「単独任務だ」
「……え?」
空気が張り詰める。
「ですが、あの周辺は既に敵支配領域では――」
「だからこそだ」
ハインリヒの瞳は妙に冷たかった。
「今回の任務は秘匿性を最優先とする。目立つな。誰にも知られるな」
それ以上の説明はなかった。
まるで“何か”を隠しているような、不自然な沈黙だけが残る。
⸻
司令室を出た直後。
石廊下の柱陰から紅い影が現れた。
「……妙だな」
ルシャだった。
紅髪を乱暴に掻き上げながら眉を顰めている。
「あの森は今、一番激戦が酷い区域だ。そんな場所へ単独潜入なんて正気じゃない」
黄玉色の瞳が鋭く細められる。
「私も行く」
即断だった。
「一人で行かせられるか」
「でも団長命令ですよ?」
困ったように苦笑するジン。
だがルシャは一歩も引かない。
「だから怪しいと言っている」
低く唸るような声音。
「……最近の上層部は何かを隠している。特に、お前に関してな」
その言葉に、ジンの胸が僅かにざわついた。
だが問い返す前に、ルシャはふっと表情を緩める。
「まぁいい。死ぬなよ、弟分」
乱暴に頭を撫でる仕草。
それが別れ際の不安を誤魔化す行為だと、ジンはもう理解できるようになっていた。
⸻
夜明け前。
薄霧に包まれた城壁外縁。
隠し脱出口から外へ滑り出したジンは、そのまま北東の森林地帯へ身を投じた。
遠くでは帝国軍の行軍音が地鳴りのように響いている。
黒鉄の鎧。
無数の槍。
魔導砲車列。
正面街道は既に敵兵で埋め尽くされていた。
「見つかるな……」
呼吸を殺しながら獣道を進む。
湿った土の匂い。
杉林の冷気。
鳥の声すら存在しない死んだ森。
その静寂を切り裂いたのは――
「待て! 誰だ!」
帝国斥候隊だった。
直後、詠唱音。
光矢が雨のように降り注ぐ。
「っ!」
反射的に大樹の陰へ滑り込む。
幹を抉る閃光。
木片が頬を裂く。
「そこだ!」
兵士達の怒号。
ジンは地面すれすれまで姿勢を落とすと、一気に加速した。
東方短剣を抜刀。
銀閃。
「ハッ!」
回転しながら放たれた斬撃が、先頭兵の喉笛を切り裂く。
血飛沫が朝靄へ溶けた。
「敵襲――!」
叫びが最後まで続くことはなかった。
次の瞬間にはジンの身体が木々の間を駆け抜けている。
訓練で叩き込まれた森林戦技。
気配遮断。
重心移動。
短距離跳躍。
記憶はなくとも、肉体だけが“殺し方”を知っていた。
⸻
どれほど走っただろうか。
やがて森が途切れた先で、ジンは足を止める。
そこにあったのは――古代の祠だった。
石造りの巨大建築。
風化した階段。
崩れかけた柱。
入口へ刻まれた古代聖王国文字。
まるで世界から忘れ去られた遺跡。
「……ここか」
息を整えながら内部へ入る。
空気は異様に冷たい。
湿気。
硫黄臭。
そして何より――濃密すぎる魔力。
奥へ進むにつれ、心臓が不気味に脈打ち始める。
まるで“何か”が呼んでいるようだった。
やがて中央祭壇へ辿り着く。
そこにあったのは、拳大の魔石。
紫。
そして深紅。
二色の光が混ざり合い、生き物のように脈動している。
「これが……」
近づいた瞬間。
魔石が、脈打った。
ドクン――。
「……っ?」
左腕が熱い。
否。
熱いなどという次元ではない。
「がっ……!?」
突如、魔石が液体のように崩れ、左腕へ侵食し始めた。
肉の内側へ潜り込んでくる。
血管を。
神経を。
骨髄を。
「ぐぁぁぁぁぁっ!!」
絶叫。
床へ転がり、のたうち回る。
左腕が紫色に発光する。
脳裏へ流れ込む無数の断片。
炎。
死体。
東方の村。
誰かの声。
泣いている少女。
そして――
「ぁ……ぁ……」
視界が崩壊していく。
ジンの意識は、完全に闇へ沈んだ。
◇
「おい! しっかりしろジン!」
遠くから怒鳴り声が聞こえる。
霞む視界。
焼け付くような左腕。
脳髄を掻き回されるような激痛。
「……ぅ……」
重い瞼を開いた瞬間、耳を劈く金属音が飛び込んできた。
祠の入口。
そこで、紅髪の騎士が敵兵の群れと斬り結んでいた。
「ルシャさん……!?」
思わず声が漏れる。
狼獣人の巨躯が暴風のように舞っている。
紅蓮の髪を振り乱しながら、大剣を横薙ぎに振るうたび、帝国重装兵がまとめて吹き飛ばされる。
「この馬鹿弟分が!」
怒号。
「だから一人で行くなって言っただろうがぁぁ!!」
黄玉色の瞳が怒りと焦燥で燃えていた。
その直後。
シュンッ――!
鋭い風切り音。
祠の外縁から放たれた投擲矢が、曲芸じみた軌道で敵兵の鎧の隙間を貫いた。
「ジンくん! 起きた!?」
水色毛並みの猫獣人――アリアだ。
跳躍しながら次々と短矢を投げ放っている。
雷光を纏った矢が敵兵の膝や喉を正確に撃ち抜き、戦列を崩壊させていく。
「ったく……心配したんだからね!」
怒っているのか泣きそうなのか分からない声だった。
その時。
「お前たち、下がれ!」
凛とした声が戦場を貫いた。
蒼髪の騎士――リオーネ。
長剣を掲げた瞬間、刀身から蒼白い光が迸る。
次の瞬間。
扇状に放たれた斬撃波が前方の帝国兵をまとめて吹き飛ばした。
鎧ごと裂断された兵士達が泥の上へ崩れ落ちる。
「ジン!」
瑠璃色の瞳がこちらを射抜く。
「早く魔石を持ち出せ!」
「は、はい!」
ジンは慌てて祭壇へ振り返った。
だが――。
「……あれ?」
祭壇の上には何もない。
先ほどまで脈打っていた紫紅の魔石が、完全に消失していた。
「どこに……」
周囲を見回す。
床。
祭壇。
砕けた石片。
どこにも存在しない。
その瞬間。
左腕がズキリと疼いた。
「っ……!」
反射的に左手を見る。
だが、そこには何もない。
傷も。
魔石も。
痣すらも。
ただ、掌の奥底で何かが脈打っている感覚だけが残っていた。
(まさか……)
嫌な汗が背筋を流れる。
だが今は考えている余裕などなかった。
「撤退するぞ!」
ルシャが敵兵を蹴散らしながら叫ぶ。
「囲まれる前に離脱だ!」
⸻
数時間後――。
聖騎士団団長の執務室の空気は、まるで鉛のように重かった。
重厚な樫机。
壁に掛けられた古い聖騎士鎧。
燭台の炎だけが静かに揺れている。
ジンはその中央で背筋を伸ばしていた。
濡れた黒髪が頬へ張り付き、祠での戦闘の疲労が未だ身体に残っている。
「ハインリヒ団長……本当に申し訳ありません」
俯き加減に謝罪する少年。
祠で起きた一連の出来事――そして魔石消失について、つい先ほど全て報告し終えたばかりだった。
「顔を上げろ」
低く厳しい声音。
ハインリヒが金縁眼鏡を押し上げる微かな音だけが響く。
「……魔石に触れた時のことだ。もう一度説明しろ」
「はい」
ジンは小さく息を呑んだ。
「祭壇中央にあった紫色の魔石へ左手で触れた瞬間、急激な痛みが走りました。その後……石が腕へ入り込むような感覚がして……」
言葉を探しながら続ける。
「気づいた時には、魔石は消えていました」
「左手……か」
ハインリヒの声音が僅かに低くなる。
「右手ではなく?」
「間違いありません。この左手です」
差し出した掌。
だが、その左手に変化は何一つ無かった。
火傷も。
変色もない。
ただ戦場を生き抜いてきた少年らしい、小さな擦り傷があるだけだ。
ハインリヒは無言のまま、その掌を凝視する。
長い沈黙。
執務室の燭火が揺れる音すら大きく聞こえる。
やがて老騎士はゆっくりと椅子へ背を預けた。
その瞳には、何かを“計算”するような冷たい光が宿っている。
「……なるほど」
短い呟き。
だがその声音には、わずかな確信が混ざっていた。
「よかろう。もう下がれ」
「……え?」
拍子抜けするほど、あっさりとした返答だった。
もっと叱責されると思っていた。
あるいは魔石紛失の責任を追及されるのでは、と。
だがハインリヒは既に書類へ視線を戻している。
「失礼します……」
困惑しながらも踵を返すジン。
扉へ手を掛けた、その時だった。
「――期待以上の結果かもしれん」
低い声。
思わず振り返る。
燭火に照らされたハインリヒの口元が、僅かに緩んでいた。
それは戦場で幾千もの死を見てきた老騎士が、初めて見せる“満足”の表情だった。
「団長……?」
だが返答はない。
ただ、その双眸だけがジンの左腕を静かに見つめている。
まるで――。
“成功作”を見るような目だった。
背筋に冷たいものが走る。
記憶喪失の少年には理解できない。
何故、自分が祠へ送られたのか。
何故、あの魔石だったのか。
何故、団長は失敗ではなく“成果”を見るような顔をしているのか。
執務室を出たジンは、静まり返った石廊下を歩く。
左手を見下ろえる。
だが、そこには何の変化も無い。
いつもの、自分の手だった。
それでも何故か、掌の奥底に微かな熱だけが残っている気がした。
遠くで戦時警鐘が鳴る。
そしてその頃――。
執務室に独り残ったハインリヒは、机の引き出しから古びた羊皮紙を取り出していた。
そこに記されていたのは、既に抹消されたはずの古代計画名。
――《魔族因子適合実験》
――《非検体〇一号》
――《第二段階》
老騎士は静かに目を閉じる。
「……始まってしまったか」
誰にも届かぬ独白だけが、薄暗い執務室へ静かに落ちた。




