慟哭
その日の戦闘は悪夢だった。
空は鉛色に沈み、降り続く雨は血と硝煙を溶かし込み、湿地帯そのものを腐臭の沼へ変えていた。泥濘には無数の死体が折り重なり、踏み込む度に鉄臭い水飛沫が跳ねる。
その只中で、ジンは槍を振るっていた。
黒髪は雨に張り付き、呼吸は白く荒い。それでも東方短剣を握る手だけは一切迷わない。敵兵の鎖帷子を裂くたび、鮮血が頬を染め、泥と混ざり合って黒い筋となって流れ落ちる。
「ジン! 左斜め四十度!」
アリアの叫び声が雨音を切り裂いた。
反射的に身体が動く。
半歩沈み込み、腰を捻る。回転の勢いそのままに振り抜いた短剣が帝国兵の喉笛を断ち切った。
「ありがと――っ!」
返事を終える前に、重装歩兵の盾が眼前へ迫る。
鈍い衝撃。
ジンの身体が泥濘へ吹き飛ぶ。肺から空気が抜け、視界が白く染まった。だが地面を転がる勢いを殺さず、そのまま膝立ちで着地する。
(守る……)
泥水を蹴り上げる。
(皆んなを守る……!)
跳躍。
空中で抜き放った投げナイフが一直線に飛翔し、敵将校の兜へ突き刺さった。
「ぐおっ!?」
よろめいた巨体。その肩を踏み台にして、ジンはさらに高く跳ぶ。
落下。
黒い影が雨の帳を裂き、短剣の連続刺突が密集した槍衾へ叩き込まれる。螺旋状に放たれる斬撃が隊列を引き裂き、泥と血飛沫を巻き上げた。
「今だァ!!」
そこへ突撃してきたのはルシャだった。
紅髪を暴風のように靡かせ、狼獣人の牙を剥き出しにしている。その瞳には理性ではなく、焼け爛れた復讐心だけが燃えていた。
「ライラを返せぇぇぇぇッ!!」
咆哮。
亡き偵察兵の名を叫びながら、長剣が敵兵をまとめて薙ぎ払う。
――その瞬間だった。
「ルシャさん!!」
ジンの警告は、あまりにも遅い。
泥濘の下。
伏せていた帝国兵が跳ね起きる。鈍銀の短剣が、雨粒を裂いてルシャの脇腹へ深々と潜り込んだ。
「がぁっ……!」
苦悶。
それでもルシャは倒れなかった。
血走った瞳のまま敵兵の首を掴み、そのまま力任せに刎ね飛ばす。鮮血が雨に混ざり、狼獣人の頬を赤黒く染め上げた。
だが、その背中はもう限界寸前だった。
⸻
悪夢の帰還
野営地へ戻ったルシャは、別人のようだった。
戦塵に塗れた甲冑。血で固まった紅髪。狼の耳は力なく横へ倒れ、呼吸は獣の唸りのように荒い。
だが何より恐ろしかったのは――その瞳だった。
焦点が合っていない。
まるで、まだ戦場の真ん中に立っているかのように。
「あれ……? ルシャ隊長、どこへ――」
新米従卒の言葉が途中で止まる。
「お゛おぉぉぉぉぉぉッ!!」
獣の慟哭。
天幕そのものが震えた。
ルシャは泥の地面へ爪を突き立て、顔を伏せたまま咆哮していた。血と雨と涙が混ざり、もはや何が流れているのか分からない。
「やめろルシャ!!」
副官が慌てて抱き起こそうとする。
だが次の瞬間、振り払われた腕が吹き飛び、副官は泥の中へ転がった。
「放せぇ!!」
怒号。
「ライラのバカが……っ!! 笑って逝きやがったんだ!!」
喉を裂くような悲鳴。
「なんで笑うんだよ……! なんで最後まで私を安心させようとするんだよぉぉ……!!」
血の涙。
その姿は最早、誇り高い聖騎士ではなかった。
戦場に魂を食い潰された、一頭の獣だった。
⸻
暗黙の指令
その夜。
ジンの天幕へ、ひとりの密使が訪れた。
「――今夜零時。紅髪の狼の棲処へ参れ」
団長命令。
それだけを告げ、伝令は去っていく。
理由は無い。
説明も無い。
ただ、逆らえぬ重さだけが言葉に宿っていた。
(どうして……僕が……?)
理解はできない。
それでも、ジンは命令に従った。
深夜。
静まり返った野営地を抜け、ルシャの居室前へ辿り着く。
――中から音がする。
爪で床を掻くような音。
荒い呼吸。
何かを押し殺そうとして失敗している獣の気配。
「失礼します……」
扉を開いた瞬間、むせ返るような臭気が押し寄せた。
血。
汗。
酒。
そして、戦場。
ルシャの居室は、まるで戦場の残骸を閉じ込めた檻だった。
床には壊れた人形。
壁には爪痕。
血文字のように滲んだ跡が、月明かりに浮かんでいる。
「ルシャさん……」
震える声。
一歩踏み出した瞬間――
「来るな」
暗闇から、掠れた声が返る。
狼の耳が鋭く逆立ち、獣の警戒音のように喉が鳴る。
「お願いだから……今だけは……」
呼吸が乱れる。
肩が震えている。
「でも……」
ジンは躊躇いながらも近づいた。
記憶はなくても知っている。
人は、本当に壊れそうな時ほど、誰かの温もりを求めるのだと。
「やめろッ!!」
怒声。
振り向いたルシャの瞳は、完全に血走っていた。
捕食者の目だった。
「私は……守れなかった……」
震える声。
「ライラが……私の後ろで倒れた……」
堰を切ったように言葉が溢れる。
「首を貫かれる音が聞こえた……血が背中にかかった……あったかかったんだ……!」
「ルシャさん……」
ジンはゆっくりと歩み寄る。
何度も自分を支えてくれた人だった。
だから今度は、自分が寄り添いたかった。
「触るな!!」
鋭い爪。
頬に赤い線が走る。
「あ……」
その瞬間、ルシャの目に僅かに理性が戻った。
「……すまん……」
震える声。
「君を傷つけたくて……呼んだわけじゃない……」
「大丈夫です」
ジンは微笑んだ。
そして、以前ルシャにされたように、そっと彼女の頭を撫でる。
不器用な手つき。
けれど優しかった。
「ライラさんは……きっと貴女を誇りに思っています」
「……何?」
「だって、貴女は今も泣いてる」
黒い瞳が真っ直ぐルシャを見つめる。
「大切な人のために流す涙は……きっと、綺麗なものです」
その瞬間。
ルシャの中で何かが壊れた。
「あ……あぁ……っ」
涙が溢れる。
堰を切ったように。
止め処なく。
「ごめん……ライラ……ごめんよ……!」
ジンの掌を濡らす涙は、血と混ざって赤黒かった。
「良いんですよ」
静かな声。
月光が黒髪を銀色に染める。
「貴女の想いは……ちゃんと届いてます」
「ジン……」
ルシャが立ち上がる。
理性と衝動の狭間で揺れる瞳。
そして次の瞬間――
「っ……!?」
ジンの身体がベッドへ押し倒された。
馬乗りになった狼獣人の姿は、美しく、同時に恐ろしい。
「ルシャ……さん……?」
恐怖で身体が強張る。
だがルシャの腕は震えていた。
「……少しだけでいい」
掠れた声。
「傍にいてくれ……」
その抱擁は強く、壊れそうで、泣きそうだった。
「ええ……」
ジンは小さく頷く。
「いくらでも」
傷ついた魂同士が寄り添うように。
◇
夜明け前、狭い居室には二人分の呼吸音だけが残っていた。
窓の外では雨が止みかけている。だが湿った空気は冷え切り、血と薬草の匂いが混ざった室内には、まだ戦場の残滓が色濃く漂っていた。
「……うっ」
ジンが小さく呻く。
肩口へ食い込んだ狼牙が皮膚を裂き、赤い雫が白い枕布へぽたりと落ちた。
ルシャの呼吸は荒い。
獣人特有の発熱した吐息が首筋へかかり、その度にジンの身体が微かに震える。理性は戻りつつある。それでも深い喪失感と激情が完全には収まり切っていなかった。
「ぐ……っ」
今度は背中。
鋭い爪が制服越しに肌を掠め、布地を裂く。焼けるような痛みが走り、幾筋もの赤い線が肌に刻まれていく。
ジンは反射的に息を呑んだ。
だが、不思議と抵抗しようとは思わなかった。
(ルシャさんが苦しんでいる……)
ぼやけた思考の中で、そんな感情だけが静かに浮かぶ。
(なら……これくらいなら……)
自分でも理解できないほど穏やかな諦念。
記憶の無い人生。
失った過去。
空っぽの自分。
だからこそ、目の前で壊れかけている誰かの役に立てるなら、それで良いとすら思っていた。
「すまん……」
ルシャの声が震える。
「すまない……ジン……」
啜り泣くような謝罪。
力任せに押さえつけているわけではない。ただ、抑えきれない感情が獣人の本能を通して漏れ出しているだけなのだ。
ジンは痛みに顔を歪めながらも、静かにその身体を受け止めていた。
恐怖は確かにあった。
けれど、それ以上に――この人を独りにしてはいけない、という感情の方が強かった。
(僕なんかで良ければ……)
薄れゆく意識の中、ジンは目を閉じる。
(何度でも……)
雨音だけが、静かに夜を刻んでいた。
⸻
「……ん」
薄明かり。
冷えた空気。
ジンは微かな呻きと共に目を覚ました。
身体が重い。
特に背中と肩が焼けるように痛む。
ゆっくり視線を落とすと、破れた制服の隙間から無数の爪痕が覗いていた。乾ききっていない血が、シーツへ黒赤い染みを作っている。
「起きたか……」
掠れた声。
顔を上げると、ルシャが椅子へ腰掛けていた。
昨夜の狂気は消えている。
その代わり、そこにいたのは酷く憔悴した一人の女性だった。
紅髪は乱れ、耳は力なく垂れている。目の下には深い隈が刻まれ、その瞳には耐え難い自己嫌悪が滲んでいた。
「おはようございます……」
ジンは痛みを押し殺しながら微笑む。
その瞬間、ルシャが立ち上がった。
そして――床へ膝をつく。
「本当に……申し訳なかった」
深々と頭を下げる。
狼獣人としての誇りも、騎士としての威厳も、その瞬間だけは全て消えていた。
「どうか忘れてくれ……」
震える声。
「こんな屈辱を与えた私を……罵ってくれても構わない」
ジンは少しだけ目を丸くした。
それから、困ったように笑う。
「いいですよ」
即答だった。
ルシャが弾かれたように顔を上げる。
そこに憎悪は無い。
侮蔑も、恐怖も。
ただ静かな安堵だけがあった。
「ルシャさんの悲しみが……少しでも軽くなったなら」
黒い瞳が真っ直ぐ彼女を見る。
「それで十分です」
言葉を失うルシャ。
次の瞬間、その瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
ぽたり。
ぽたり、と。
「何故だ……」
掠れた声。
「何故、そんな風に他人へ優しくできる……?」
ジンは少しだけ考え込む。
けれど、結局答えは出なかった。
「分かりません」
正直な言葉だった。
記憶喪失の自分には、人格の根幹すら曖昧なのだ。
優しいのか。
壊れているのか。
自分でも分からない。
ただ――
「でも……」
ジンは静かにルシャを見つめた。
「貴女を失いたくなかった」
その一言だけは、迷いなく言えた。
「それだけです」
朝日が、薄く差し込み始める。
戦場に疲弊した二つの魂だけが、その部屋に取り残されていた。




