守るもの
戦場の空は鉛色だった。
降りしきる冷雨が視界を霞ませ、泥濘と化した大地には折れた槍や兵士の亡骸が無数に転がっている。
北方戦線第三防衛域――既に幾度も奪い合われた死地だった。
その最前線を、黒髪の少年が駆けていた。
泥が跳ねる。
軍靴が沈む。
それでもジンは速度を落とさない。
「敵右翼に穴を開けます!」
まだ若い声。
だが、その言葉には戦場で磨かれた鋼の意志が宿っていた。
前方には帝国軍重装歩兵部隊。
鉄盾を噛み合わせた密集陣形。
長槍を幾重にも突き出した、対突撃用の防壁だ。
普通なら騎馬隊ですら正面突破を躊躇う。
「馬鹿な!」
後方の副官が叫ぶ。
「一人で突っ込む気か!? 自殺行為だぞ!」
だが、その声が届く頃には――
ジンは既に敵陣中央へ踏み込んでいた。
「来たぞ!!」
「黒い悪魔だ!!」
帝国兵たちが悲鳴混じりに叫ぶ。
いつしか敵兵の間で、そう呼ばれるようになっていた。
黒髪。
黒瞳。
東方の異形。
そして、死地へ単身飛び込んでくる少年。
“黒い悪魔”。
その異名を。
「ォォォッ!!」
最前列の帝国兵が長槍を突き出す。
だがジンは止まらない。
踏み込む。
沈む。
滑る。
東方武術特有の低重心移動。
雨でぬかるんだ地面すら利用し、槍列の隙間へ身体を滑り込ませた。
「な――」
驚愕。
次の瞬間。
ギィンッ!!
東方短剣が閃く。
槍の柄を断ち切り、そのまま兵士の喉元を裂いた。
血飛沫が雨へ混ざる。
さらに回転。
泥を蹴り上げながら、ジンは二人目の懐へ潜り込む。
「疾ッ!!」
短い呼気。
短剣が脇腹の鎧接合部へ深々と突き刺さった。
悲鳴。
崩れる重装歩兵。
しかし敵は止まらない。
「囲め!!」
「近付けるな!!」
槍衾が形成される。
数十本の穂先が一斉に少年へ向けられた。
普通なら逃げ場はない。
だが――。
(見える)
ジンの瞳が静かに細まる。
槍の軌道。
重心。
癖。
呼吸。
まるで時間が引き延ばされたように、全てが鮮明に映る。
(右、遅い)
一歩。
(左、踏み込みが甘い)
半歩。
(中央――空いてる)
瞬間。
黒い影が爆ぜた。
「消え――!?」
帝国兵の声が途切れる。
既にジンは槍列の内側へ入り込んでいた。
ザンッ!!
一閃。
さらに二閃。
短剣が人体急所だけを正確に切り裂いていく。
血。
泥。
雨。
全てが混ざり合い、少年の姿を黒い幻影のように染め上げていた。
「悪魔だ……」
「化け物……!」
帝国兵たちが後退る。
その恐怖を裂くように、後方からルシャの咆哮が響いた。
「今だ!! 突撃しろ!!」
紅髪の狼獣人が先頭で駆ける。
その後ろから聖騎士団が雪崩れ込んだ。
ジンが開いた“穴”。
そこへ一気に味方が流れ込む。
戦線が崩壊した。
「右翼が突破されたぞ!!」
帝国側の悲鳴。
潰走。
混乱。
その只中で、ジンだけが静かに立っていた。
肩で息をしながら、血塗れの短剣を見下ろす。
雨が刃を洗い流していく。
(……まただ)
胸の奥が熱い。
戦えば戦うほど、自分の中の“何か”が目覚めていく。
記憶は戻らない。
だが――。
この戦い方だけは、最初から知っていた気がした。
(僕は……誰かを守るために――)
雨音の中で、思考だけが異様に澄み渡っていく。
泥に沈む死体。
折れた槍。
血に濡れた旗。
その全ての向こう側に、かつて命を落としていった戦友たちの姿が見えた気がした。
記憶を失った自分。
だが、それでも覚えているものがある。
守れなかった悔しさ。
失っていく恐怖。
誰かの背中を見送るしかなかった痛み。
それらが、少年の身体へ戦い方として刻み込まれていた。
「右翼を支えろ!!」
「持ち堪えろ!!」
怒号が飛び交う。
その最中だった。
視界の端に“異形”が映る。
帝国重騎兵。
全身を鋼鉄で覆った巨躯が、聖騎士団の斥候二人を追い詰めていた。
一人は既に倒れ伏して動かない。
もう一人の若い騎士は、槍を構えたまま震えている。
「やめ――」
制止の声より早く。
「そこをどけ!!」
ジンが叫んでいた。
雨を裂くように短剣が投擲される。
ガギィンッ!!
兜へ直撃。
重騎兵の視線が逸れた。
その一瞬。
黒い影が泥濘を滑った。
低空跳躍。
獣じみた速度。
「フギャァッ!!」
鋭い裂帛。
跳躍中に抜いた投げナイフが、鎧の隙間――脇腹へ深々と突き刺さる。
重騎兵が呻き、巨体を傾けた。
泥が跳ね上がる。
「ぐ……ぁ……!」
鋼鉄の塊が大地へ沈んだ。
ジンはそのまま負傷した騎士へ駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
血塗れの頬を拭いながら、必死に声を掛ける。
まだ若い女性騎士だった。
浅手。
呼吸もある。
だが完全に放心していた。
「立てますか……?」
肩を支えようとした、その瞬間。
「離れろッ!!」
紅い閃光。
ルシャだった。
狼獣人の長剣が横薙ぎに走り、新たに迫っていた騎兵槍を叩き斬る。
バギィンッ!!
砕け散る槍先。
ルシャはその勢いのままジンの腕を掴んだ。
「この阿呆が!!」
怒鳴る。
だが、その声音には恐怖が混じっていた。
「お前の方が重症だろうが!!」
引き寄せられたジンは、そこでようやく自分の右腕を見る。
肘から先が真っ赤だった。
裂傷。
恐らく先程の騎兵槍を掠めていた。
「あ……本当だ」
今さら気付いたように呟く。
その無頓着さに、ルシャは深く溜息を吐いた。
「……お前はいつもそうだ」
雨に濡れた紅髪を掻き上げながら、苦々しく言う。
「自分のことになると、本当に鈍い」
だが。
その言葉の裏にある感情を、ジンはまだ知らない。
失う恐怖。
それをルシャたちは、もう何度も味わってきたのだ。
◇
午後。
戦況は完全に膠着していた。
双方消耗。
砲撃。
雨。
泥濘。
これ以上の進軍は不可能と判断され、聖騎士団へ後退命令が下る。
重苦しい撤収。
その帰路だった。
「ねぇねぇ!」
横からぴょこんと顔を出す影。
アリアだった。
水色の毛並みは泥で汚れ、猫耳もへにゃりと垂れている。
それでも笑顔だけは消えていなかった。
「今日もすごかったじゃん!!」
「そんなこと……」
ジンが首を振る。
「皆さんの方がずっと勇敢でした」
「またそうやってすぐ謙遜する~」
アリアが頬を膨らませる。
そして少し悪戯っぽく笑った。
「でもさ」
猫耳がぴくりと揺れる。
「今日の戦い方、“守りの型”そのものだったよ?」
「……え?」
ジンが目を丸くする。
「ベリアリアさんが前に教えてたじゃん」
アリアは楽しそうに続ける。
「相手を倒すためじゃなく、“誰かを守るために間へ入る動き”」
言われて、少年は静かに黙り込んだ。
雨の中。
無意識に、自分の掌を見る。
守るための戦い方。
殺すためではなく。
誰かを生かすための技。
(僕は……)
その時、胸の奥で何かが微かに疼いた。
炎。
泣き声。
そして――誰かを庇う、自分ではない“誰か”の背中。
だが、記憶はまた霧散する。
残ったのは、胸に滲む小さな熱だけだった。
◇
深夜。
野営地を打つ雨音だけが静かに響いていた。
天幕の外では、交代制の見張り兵たちが泥濘を踏みしめながら巡回している。
遠方では時折、砲撃の残響が低く唸っていた。
ジンは簡易寝台へ腰掛けたまま眠れずにいた。
膝の上には東方短剣。
鈍い銀色の刀身を布でゆっくり磨いていく。
油を塗る。
刃を確かめる。
呼吸を整える。
それはいつしか、彼にとって祈りのような行為になっていた。
(いつか必ず……)
漆黒の瞳が刃へ映る。
記憶が戻るのか。
それとも、自分はこのまま“暁ジン”として新しい人生を歩いていくのか。
答えはまだ見えない。
戦場へ立つたび、断片的な映像だけが増えていく。
炎。
悲鳴。
誰かの背中。
だが決定的な“名前”には届かない。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
(守るために戦う)
その意思だけは、記憶がなくとも消えなかった。
誰かを助けたい。
失いたくない。
それが今の自分を動かしている。
雨音が少し強くなる。
ジンは短剣を鞘へ戻し、小さく息を吐いた。
(明日もきっと――)
「また独りで何か考えてるのか?」
突然、低い声が響く。
振り返ると、天幕の入口にルシャが立っていた。
濡れた紅髪を軽く掻き上げながら、片手には湯気の立つ金属カップを持っている。
「……ルシャさん」
「眠れないんだろ」
図星だった。
狼獣人の副隊長は、呆れたように鼻を鳴らす。
「顔を見れば分かる」
そう言いながら、半ば強引にカップを押し付けてきた。
薬草茶だった。
少し苦い匂いがする。
「温まるぞ」
ジンは小さく礼を言い、一口飲む。
冷え切っていた身体へ熱が染み渡っていく。
ルシャはその様子を見届けると、入口の外へ顎をしゃくった。
「少し付き合え」
「……はい」
二人は雨の野営地を並んで歩き出す。
篝火の明かり。
眠る兵士たち。
泥に汚れた武具。
戦争の只中にある光景。
だが、その中にも不思議と穏やかな時間があった。
「お前さ」
ルシャが前を向いたまま口を開く。
「最近、前より危ない戦い方するようになったよな」
ジンは答えに詰まる。
否定できなかった。
「……誰かを守りたいんです」
ぽつりと漏れる本音。
「皆さんが居なくなるのが嫌で」
雨音に紛れそうなほど小さな声だった。
だが、ルシャにはちゃんと届いていた。
紅髪の狼獣人はしばらく黙った後、静かに笑う。
「本当に不器用だなお前は」
そう言って、乱暴に黒髪をわしゃわしゃと撫でた。
「でも覚えとけ」
足を止める。
黄玉色の瞳が真っ直ぐジンを見る。
「守るってのは、“自分が死んでもいい”って意味じゃない」
強い声だった。
戦場を知る者の言葉。
「お前が帰ってくることも、私たちにとっては大事なんだ」
ジンは目を見開く。
その言葉は、妙に胸へ刺さった。
記憶はない。
過去も分からない。
だが――。
今、自分には帰る場所がある。
待ってくれる人がいる。
その事実だけは、確かだった。
冷たい雨が降り続く。
それでも少年の胸の奥には、小さな熱が灯っていた。
記憶のない旅路でも。
守るべき光がある限り、自分は前へ進める。
ジンは静かに拳を握り締める。
誰にも見えない場所で、確かに決意を新たにしていた。




