黒い悪魔
夕暮れの防衛線。
雪解け泥に染まった大地を、鉄と血の臭気が覆っていた。
「黒い悪魔……」
帝国兵が怯えた声を漏らした、その瞬間だった。
シュッ――
赤い軌跡が虚空を裂く。
ジンの東方短剣が流れるような円弧を描き、敵兵の首筋を薙いだ。
一拍遅れて鮮血が噴き上がり、白雪の残る地面へ黒い花のように散る。
帝国兵の身体が崩れ落ちる。
だが少年は振り返らない。
漆黒の瞳は、さらに奥の敵陣を見据えていた。
(……記憶は戻らない)
戦場の喧噪の中で、また脳裏に断片が走る。
炎上する屋敷。
崩れ落ちる柱。
誰かを呼ぶ幼い少女の泣き声。
けれど、それ以上は続かない。
掴みかけた途端、霧のように消えていく。
「おいジン! 左翼が崩れてるぞ!」
ルシャの怒声。
紅髪の狼獣人が、重装歩兵の群れを正面から薙ぎ倒していた。
大剣が振るわれるたび、鎧ごと兵士が吹き飛ぶ。
「わかりました!」
ジンが即座に応じる。
黒髪が風を裂き、少年の身体が低く沈む。
東方武術特有の旋回動作。
記憶ではなく、肉体そのものが戦い方を覚えている。
敵槍の間隙を滑り抜け、一気に左翼へ突入する。
「止めろ! そいつを近づけるな!」
帝国兵たちが叫ぶ。
だが遅い。
短剣が翻る。
肘関節を断ち、膝裏を裂き、最小限の動きで敵陣を崩していく。
その姿はまるで黒い疾風だった。
――そして。
気づけば日が落ちていた。
◇
夜営地へ戻る頃には、戦場の熱気もようやく薄れていた。
焚き火の煙。
煮炊きの匂い。
負傷兵の呻き声。
それらが混ざり合う野営地の空気は、奇妙な意味で“日常”になりつつあった。
「お帰りー! お疲れ様!」
真っ先に駆け寄ってきたのはアリアだった。
水色の猫耳をぴこぴこ揺らしながら、水筒を差し出してくる。
「ありがとうございます」
ジンが受け取ると、彼女は安心したように息を吐いた。
「今日は戻るの遅かったから心配したんだからね?」
「少し回り込まれてて……」
説明しながら水を飲む。
冷たい水が焼ける喉へ染み渡った。
「……よく生きて帰りましたね」
今度はベリアリアの声。
白衣姿の牛獣人が、薬品棚の前で調合を続けている。
だがその青い瞳は、しっかりジンの全身を観察していた。
「今日は三十七ヶ所負傷してます」
「えっ」
アリアが固まる。
「全部擦り傷ですから!」
ジンが慌てて笑う。
だがその瞬間、ベリアリアの眉がぴくりと動いた。
「右肩」
「……え?」
「裂傷、かなり深いですね」
図星だった。
肩口からじわじわ血が滲んでいる。
「あ」
「嘘をつけ!!」
直後、ルシャの怒号。
紅髪の狼獣人が背後から少年の襟首を掴み上げた。
「治療室行くぞ馬鹿者!」
「嫌です~!!」
「暴れるな!」
「だって消毒痛いじゃないですか!」
「子供かお前は!!」
ずるずる引きずられていくジン。
その様子があまりにも兄弟喧嘩じみていて、周囲の団員たちから笑い声が漏れた。
「ははっ、元気そうで何よりだ」
「さっきまで敵兵切り倒してた奴と同一人物か?」
張り詰めていた空気が少しだけ和らぐ。
アリアはその光景を見ながら、小さく笑った。
(……よかった)
今日も、生きて戻ってきた。
ただそれだけのことが、今は何より嬉しかった。
翌朝。
聖王国北部中央司令部。
石造りの地下作戦室には、重苦しい沈黙が満ちていた。
壁際に設置された魔導灯が淡い青白い光を放ち、長机の上へ広げられた戦略地図を照らしている。
だが、その光景に希望はなかった。
地図上を埋め尽くす赤い駒。
それは帝国軍の侵攻経路を示していた。
「戦線は都市防壁ラインまで後退しています」
ハインリヒ団長が低く告げる。
長身の人間種の女性騎士は、疲労を押し隠すように地図へ指を滑らせた。
「第三防衛線は昨夜崩壊。第四防衛陣地も放棄済み」
声に感情はない。
「現在、帝国軍先鋒部隊が王国領内深部へ侵入中です」
空気がさらに重くなる。
ほんの数ヶ月前まで、戦場は数百キロ北方に存在していた。
それが今や、聖王国本土の喉元まで迫っている。
石壁の向こうでは、避難民たちのざわめきが微かに聞こえていた。
「市民避難完了まで残り二十四時間」
ベリアリアが報告書を読み上げる。
普段は穏やかな牛獣人の声にも、隠しきれない疲弊が滲んでいた。
「医療班は既に限界です。治療薬備蓄も三割を切りました」
彼女は一瞬言葉を止め、静かに続ける。
「第四大隊……戦力残存率二十五%」
その数字に、室内の誰もが目を伏せた。
かつて百五十名以上を誇った精鋭部隊。
今やまともに戦える者は数えるほどしかいない。
「第二大隊は?」
ルシャが問う。
「壊滅」
ハインリヒが即答する。
「指揮官含め、生存確認できたのは七名のみ」
短い返答。
だが、その言葉の重みは致命的だった。
アリアが息を呑む。
水色の猫耳が小さく震えていた。
「そんな……」
戦争が始まった当初、“聖王国は不落”だと誰もが信じていた。
女性のみで構成された聖騎士団。
魔導技術。
強固な都市防壁。
だが現実は、その全てを削り取っていった。
そして今。
誰も口にしないまま、全員が同じことを理解していた。
――終わりが近い。
沈黙。
その時だった。
「……まだ終わってません」
静かな声。
全員の視線が向く。
部屋の隅に立っていたジンだった。
黒髪の少年は、未だ包帯の残る右肩を押さえながら前へ出る。
「まだ都市防壁があります」
漆黒の瞳が真っ直ぐ前を向いていた。
「避難が終わるまで守ればいいんですよね」
あまりにも真っ直ぐな言葉。
だからこそ、誰もすぐに返せなかった。
ルシャが苦々しげに眉を寄せる。
「簡単に言うな」
紅髪の狼獣人が吐き捨てる。
「次の総攻撃は今までとは規模が違う。都市防壁戦になれば死者は……」
そこで言葉が止まる。
“全滅”という単語を、誰も口にできなかった。
だがジンは俯かなかった。
「それでも」
小さく、しかしはっきり言う。
「守りたいです」
静まり返る作戦室。
記憶を持たない少年。
それでも今ここにいる誰より、“守る理由”を見失っていなかった。
ハインリヒはその姿を見つめ、ゆっくり目を閉じる。
「……作戦を続行する」
低い声が響く。
「聖王国北部防壁戦を開始する」
◇
早朝。
白い霧が平原一帯を覆っていた。
夜半に降った細雪が草地へ薄く積もり、踏み締めるたび湿った音が響く。
遠方では砲煙の名残が空へ溶け込み、北部戦線が未だ終わっていないことを静かに物語っていた。
その霧の只中に、黒髪の少年がひとり立っている。
ジンだった。
昨日の戦闘で聖騎士団第四大隊は後退を余儀なくされ、現在は仮設野営地で再編成中だ。
本来なら彼も休息を命じられる立場だった。
だが――。
「見張りくらいできますから」
そう言って、半ば強引に前哨任務を引き受けたのである。
東方短剣の柄へ手を添える。
冷たい風が吹き抜け、黒髪が静かに揺れた。
「……また来ます」
誰に言うでもなく呟く。
鋭敏になった感覚が、霧の向こうに潜む“敵意”を察知していた。
記憶は戻らない。
だが戦場へ立つたび、肉体だけが異様な速度で戦いへ適応していく。
まるで“最初から知っていた”かのように。
「おっと……本当にいたぞ」
霧の奥から声。
帝国軍の斥候二名だった。
軽装の革鎧。
短弓。
隠密任務向けの装備。
彼らは森陰から姿を現すと、少年の姿を見て露骨に口元を歪めた。
「なんだ餓鬼か」
「楽な仕事だな」
嘲笑。
だが、その笑みが消えるまで一秒も掛からなかった。
ヒュンッ――
銀閃。
ジンの短剣が陽光を反射し、一筋の閃光となって走る。
次の瞬間。
バツンッ!!
帝国兵の弓弦が切断された。
「なっ――!?」
動揺。
その隙を、少年は見逃さない。
地面を滑るような低姿勢。
東方武術特有の重心移動。
視界から消えるような踏み込みで、一気に間合いへ侵入する。
「疾ッ!!」
鋭い吐息。
短剣が突き出される。
ズドッ――
胸郭を貫通。
斥候の身体が霧の中へ崩れ落ちた。
鮮血が白い空気へ散り、赤黒い霧となって漂う。
「二人目ッ!!」
もう一人が叫びながら抜刀する。
焦燥に満ちた斬撃。
刃先が鼻先を掠める寸前――ジンの身体が跳ねた。
後方宙返り。
人間離れした空中制御。
そして、回転の頂点で短剣を投擲する。
ギュンッ!!
「ギャッ――!!」
喉を貫かれた帝国兵が膝をつく。
着地したジンは即座に駆け寄り、腱を断って無力化した。
逃走防止。
実戦的な判断だった。
「……申し訳ありません」
少年が静かに告げる。
「捕虜になってもらいます」
その声音には、奇妙なほど感情が薄かった。
戦場では必要な行為。
そう自分へ言い聞かせるように。
◇
――だが。
戦闘が終わった後も、ジンの鼓動は収まらなかった。
(……おかしい)
胸の奥が熱い。
呼吸が浅い。
血流に沿って、何かが全身を駆け巡っている。
(なんで……?)
指先が微かに震える。
戦えば戦うほど、“何か”が目覚めていく感覚。
それは記憶ではない。
もっと本能的で、原始的なものだった。
霧の向こうを見つめる。
ほんの一瞬だけ。
燃え盛る炎と、誰かの悲鳴が脳裏を掠めた。
だが次の瞬間には、また消えている。
「……なんなんだ」
少年は小さく呟いた。
◇
夕刻。
本隊と合流したジンを迎えたのは、戦場には不釣り合いな温もりだった。
「無事だったか!」
真っ先に駆け寄ってきたのはルシャだった。
紅髪を揺らしながら少年の肩を掴む。
鋭い黄玉色の瞳には、露骨な安堵が浮かんでいた。
「心配したぞ。独りで前へ出るな馬鹿者」
「すみません……」
俯くジン。
するとルシャは、小突くように彼の頭を叩いた。
「謝るな」
少しだけ口元を緩める。
「無茶した分だけ偉い」
そのやり取りを見ていたアリアが飛び込んできた。
「ジンくんすごかったってね!?」
水色の猫耳をぴこぴこ揺らしながら興奮気味に話し掛ける。
「斥候二人倒したんでしょ!? しかも捕虜付き!」
「いや……たまたまです」
「たまたまでそんな動きできるか!」
アリアが即座に突っ込む。
周囲の団員たちからも小さな笑い声が漏れた。
だが、その時。
ルシャがふと真面目な顔になる。
「アリア」
「ん?」
「この子は確かに弟分だ」
紅髪の狼獣人が静かに言った。
「だが……もう“守られるだけの子供”じゃない」
その言葉に、場の空気が少しだけ変わる。
ジン本人だけが、その意味をまだ完全には理解できていなかった。




