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欠けた少年の帰る場所  作者: 羽衣月
聖騎士団
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少年再び

泥と血に濡れた戦場へ、再び春の冷たい風が吹き抜けていた。


二週間前、瀕死の重傷を負って医療天幕へ運び込まれた少年は、今こうして再び前線へ立っている。

右脚には未だ包帯が巻かれており、激しく踏み込むたび鈍痛が走った。それでもジンは歩みを止めなかった。


北部防衛線第三陣地――。


崩れた石壁と焼け落ちた見張り塔の間を、聖王国軍の兵士たちが慌ただしく駆け回っている。

空には灰色の煙が滞留し、雪解け泥の上には無数の足跡と血痕が刻まれていた。


「ジン! 右斜め三十度!」


アリアの叫びが戦場を裂く。

水色の毛並みは土埃で汚れ、弓を握る指先には裂傷が増えていた。だが、その瞳だけは鋭さを失っていない。


「わかった!」


ジンが即座に応じる。

黒髪が汗で額へ張り付き、東方短剣が低く構えられる。


飛来する六本の矢。

陽光を弾く鏃が一直線に迫った。


少年は地を滑るような低姿勢で回避する。

東方武術由来の体重移動。記憶ではなく、肉体が勝手に最適解を選んでいた。


一本目を躱し、二本目を短剣で逸らす。

三本目が頬を掠め、赤い筋を刻んだ。


「甘いな」


低い声。


瓦礫の向こうから姿を現した帝国将校は、黒鉄色の軍装を纏っていた。

兜には黄金の鷲飾り。上級士官の証だ。


「若造風情が前線を駆けるとは」


男がゆっくり儀礼剣を抜く。


刃に刻まれた魔導紋様が淡く光を帯びた。


「我がノルデンベルク帝国が誇る竜殺し剣、《ウルズメア》」

将校が嗤う。

「貴様のような半端者には相応しい最期だ」


空気が張り詰める。


だが次の瞬間――。


「その高慢な首、先にもらうぞ」


紅蓮の影が割り込んだ。


ルシャだった。


狼獣人の紅髪が戦塵を巻き上げ、黄玉色の瞳が猛獣のように細められる。


ガギィンッ!!


剣戟。


凄まじい衝撃音が周囲へ響いた。


「ぬぅっ……!」


将校が呻く。

ルシャの斬撃は重い。獣人特有の膂力と実戦経験が乗った剣は、受けるだけで骨を軋ませた。


二撃、三撃。


帝国将校の鎧へ亀裂が走る。


「今だ!」


ルシャの怒号。


ジンは迷わず踏み込んだ。


「せいっ!」


黒い影が低空を疾走する。

短剣を逆手に握り、死角へ潜り込む。


狙うのは脇腹――鎧板の継ぎ目。


ゴッ!!


鞘尻による打撃。


将校の身体が大きく傾ぐ。


その隙を逃さず、ルシャの剣が閃いた。


紅い軌跡が兜の隙間へ突き込まれる。


血飛沫。


巨体が泥濘へ崩れ落ちた。


「よくやった」


ルシャが剣を振って血を払う。


「だが止まるな。戦場で立ち止まった奴から死ぬ」


「はい!」


ジンが即座に構え直した、その時だった。


「伝令!! 伝令ッ!!」


泥まみれの伝令兵が、防衛線の向こうから駆け込んでくる。


若い狐獣人の兵士だった。

肩で息をしながら叫ぶ。


「第三大隊が後退中! 西側陣地が突破されました!」


周囲の空気が変わる。


「……早すぎる」


アリアが顔を強張らせる。


「敵主力が動いたか」


ルシャの声音が低くなる。


伝令兵はさらに続けた。


「第四大隊長リオーネ殿より要請! 北側渓谷にて包囲形成中! 至急増援を――」


そこまで言って、遠方で爆発音が轟いた。


地面が揺れる。


空気が震える。


北側の空に黒煙が立ち昇っていた。


「行くぞ!」


ルシャが踵を返す。


「聖王国北部防衛線は、まだ終わっていない!」


「はい!」


ジンも駆け出す。


傷は癒えていない。

脚の痛みも消えていない。


それでも少年は前を向く。


失った記憶ではなく、“今ここにいる誰か”を守るために。


北部防衛線の戦闘が終息したのは、日付が変わる頃だった。


帝国軍の第二波を辛うじて退けた聖王国軍は、壊滅しかけた前線陣地を放棄し、後方の野営地まで後退していた。

雪解け混じりの泥濘には無数の轍が刻まれ、疲弊した兵士たちが重い足取りで行き交っている。


夜空には薄く煙が滞留していた。

遠方では未だ燃え続ける防壁の残骸が赤黒い光を放っている。


その一角――簡素な焚き火の周囲に、第四大隊の生存者たちが集まっていた。


「今日の勝利も……大きかったね」


アリアが小さく呟く。

水色の猫耳は疲労で垂れ下がり、尾も力なく地面を撫でていた。


戦場を駆け続けたせいで、弓を握る指先は赤く腫れている。


「……でも被害も大きすぎるわ」


ベリアリアが静かに返す。

白衣には乾ききらない血痕が残り、今日だけでどれほどの負傷兵を診たのかを物語っていた。


「第四大隊は再編成が必要かもしれない……」


沈んだ声音。


誰もすぐには返事をできなかった。


焚き火がぱちりと爆ぜる。


その重苦しい空気を、不意に別の匂いが裂いた。


香ばしい肉の匂い。


「大丈夫だよ」


少年の声だった。


視線を向けると、ジンが炭火の前へしゃがみ込んでいた。

即席の鉄串に刺した羊肉を、器用に焼いている。


火に落ちた脂が小さく爆ぜ、食欲を誘う匂いが夜気へ広がった。


「え……?」


アリアが目を瞬かせる。


「どうしてそう思うの?」


ジンは肉をひっくり返しながら、当たり前のように答えた。


「だって、みんな強いもん」


その言葉に、場の空気がわずかに和らぐ。


「アリアさんの矢、すごく速いし」

少年は真っ直ぐ続ける。

「ルシャさんの剣も、見てるだけで安心する」


少し考え込むように視線を動かし、今度はベリアリアを見る。


「ベリアリアさんは……」

言葉を探すように黒い瞳が揺れる。

「いっぱい助けられるから、すごいです」


火の光が、彼の横顔を柔らかく照らしていた。


慰めではない。


本心から出た言葉だと分かるからこそ、余計に胸へ刺さる。


「……褒めても何も出ないぞ」


少し離れた場所で剣を研いでいたルシャが鼻を鳴らす。

だが紅髪の隙間から覗く耳は、微かに赤かった。


「いやほんとに!」


アリアが勢いよく立ち上がる。


「ジンくんだってすごいからね!?」

猫耳をぴんと立てて指を向ける。

「今日だって前線で三人助けてたじゃん!」


「そうですよぉ!」


今度はミーナが割り込んできた。


白い毛並みは煤で灰色になっているが、その明るさだけは失われていない。


「負傷兵担いで走ってたの見ましたもん!」

小柄な鼠獣人が両手をぶんぶん振る。

「あれ普通できませんって!」


「え、いや……」


一斉に褒められ、ジンが困ったように頬を掻く。


「その時は必死だっただけで……」


「そういうところ!」


アリアが即座に突っ込んだ。


焚き火の周囲で、小さな笑い声が漏れる。


戦場のど真ん中。


明日にはまた誰かが死ぬかもしれない場所。


それでも今この瞬間だけは、彼らは“仲間”として笑えていた。


ベリアリアは静かにその光景を見つめる。


(……この子は)


記憶を持たない少年。


過去を失ってなお、人を信じ、守ろうとする。


だから皆、自然と彼を中心に集まってしまうのだろう。


焚き火の火が揺れる。


その温かな光だけが、凍える戦場の夜の中で、小さな日常を守っていた。



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