治療…
医療天幕の中は、薬草と血の匂いで満ちていた。
外では未だ砲撃音が鳴り続けている。
だが、この狭い空間だけは別世界のようだった。
静寂。
張り詰めた空気。
そして――死へ抗うための微かな呼吸音。
ベリアリアの白い指先が小刻みに震えている。
淡い翡翠色の治癒光が、ジンの傷口を包み込んでいた。
だが、その光は既に不安定だった。
「……まだ……届かない……」
掠れた呟き。
聖王国式癒術。
それは単なる止血や再生ではない。
体内を巡る魔力循環そのものを修復する術式。
血管一本。
神経一本。
それら全てが“魔導回路”として扱われる。
断裂した流れを再接続するには、極めて高度な集中力と膨大な魔力が必要だった。
ベリアリアの額から汗が滴る。
白衣の襟元は既に濡れ切っていた。
呼吸も浅い。
それでも彼女は術式を止めない。
「もうやめて……!」
アリアが涙声で叫ぶ。
猫獣人特有の敏感な聴覚は、ベリアリアの呼吸が限界へ近づいていることまで感じ取っていた。
「もう十分だよ……!」
だが。
「いいえ」
ベリアリアはゆっくり首を振る。
青い瞳が真っ直ぐジンを見つめていた。
「この子は……特別なの」
静かな声だった。
「記憶という灯台を失っているからこそ……」
指先の光が僅かに揺らぐ。
「今、“命の灯火”だけは消させられない」
その言葉に、天幕内が静まり返る。
治癒光が弱まる度に、ジンの瞼が微かに震える。
まるで生と死の狭間を漂っているようだった。
魂が、まだ戻り切っていない。
「お願い……」
アリアが震える手を伸ばす。
「目を覚まして……」
少年の頬へ触れようとした、その時だった。
「……ん……」
微かな呻き声。
全員が息を止める。
治癒光が一瞬弱まった隙に、ジンの眼球が微かに動いた。
「動いた!!」
アリアが跳ね上がる。
猫耳がぴんと立つ。
「脈拍安定……!」
ベリアリアが息を飲む。
「意識レベル向上……ただし、まだ予断は許さないわ」
それでも。
確かな変化だった。
絶望しかけていた空気が、僅かに緩む。
「よかった……」
アリアがその場へ崩れ落ちる。
涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃだった。
それでも止まらない。
その時。
天幕入口の布が大きく捲られた。
冷たい夜風が吹き込む。
「交代する」
ルシャだった。
紅髪が戦場の煤で汚れている。
片手には膏薬壺。
冷却効果を持つ香草を練り込んだ軍用薬だった。
「ベリアリア、一旦休んでくれ」
低い声。
だが有無を言わせぬ響きがあった。
「体力も魔力も限界だろ」
「でも……」
「でもじゃない」
ルシャが鋭く遮る。
「魔力枯渇症候群を起こしかけてる」
治癒術師にとって最悪の症状。
魔力循環が破綻すれば、最悪は術者自身が廃人になる。
「お前のほうが先に倒れたら」
ルシャが静かに続ける。
「困るのはこの子だ」
理性的な叱責だった。
ベリアリアは抵抗できなかった。
ゆっくり椅子から立ち上がる。
だが足元は既に覚束ない。
簡易寝台へ辿り着いた瞬間、そのまま崩れるように倒れ込んだ。
「……すみません……しばらく……頼むわ……」
寝言のような声。
そのまま深い眠りへ落ちていく。
限界だったのだ。
「任せてください!!」
アリアが涙を拭いながら前へ出る。
「わたしも癒術基礎は習ってます! 補佐くらいならできます!」
「よし」
ルシャが小さく頷く。
膏薬を掬い、慎重にジンの傷口へ塗り込んでいく。
薬草の匂いが広がる。
「俺の番が終わったら、次はミーナだ」
紅髪を掻き上げながらルシャが言う。
「聖騎士団全体でローテーションを組んだ」
「え……?」
アリアが目を瞬かせる。
「徹夜で看護するって、みんな宣言してきた」
静かな言葉だった。
だが重みがある。
「あの子は特別だ」
ルシャが遠くを見るような目をする。
「記憶も無く、家族もいない状態で……それでも前線に立ち続けた」
紅い瞳が揺れる。
「恩がある、って言うと大袈裟かもしれないが……」
小さく息を吐く。
「みんな、それぞれ思うところがあるんだろ」
「……わかる」
アリアも静かに頷く。
「私も、弟みたいに思ってる」
天幕の外では戦争が続いていた。
砲撃。
怒号。
悲鳴。
命を消耗品のように扱う音。
だが、この小さな空間だけは違った。
誰か一人を、生かすための時間だった。
「さて」
ルシャが立ち上がる。
道具を片付けながらアリアを見る。
「私は三時間交代だ。その間は頼んだ」
「もちろんです!!」
アリアは勢いよく頷く。
そして今度は自分が、ジンの手を握る番だった。
温度の低い手。
それでも確かに、生きている。
「……早く起きてね」
祈りのような囁き。
戦場では忘れられがちな、小さな幸福を願いながら――
長い夜は静かに更けていった。
医療天幕の隙間から、淡い朝日が差し込んでいた。
夜通し燃え続けた魔導灯は既に光を弱め、代わりに冷たい朝の光が静かに寝台を照らしている。
その中で――
ジンの睫毛が微かに震えた。
「……っ……」
次の瞬間。
鋭い激痛が脊椎を貫く。
肺が軋む。
焼けた鉄を体内へ押し込まれたような感覚。
記憶は戻らない。
だが身体だけは理解していた。
――本来なら死んでいてもおかしくない傷だ、と。
「ジン!!」
真っ先に駆け寄ってきたのはアリアだった。
水色の毛並みが揺れる。
猫耳がぴんと立ち、涙を堪えながら少年の額へ手を当てる。
「まだ熱い……」
震える声。
「でも昨日よりはまし!」
その言葉に、少しだけ安堵が滲む。
奥の簡易寝台では、ベリアリアもゆっくり顔を上げていた。
昨夜の疲労が濃く残っている。
青い隈。
乱れた白衣。
双角に浮かぶ淡い血色反応が、未だ術式の余熱を示していた。
彼女は静かにジンを診る。
脈。
呼吸。
魔力循環。
そして即座に結論を出した。
「安静が必要よ」
低い声。
「魔力回復だけでも最低五日……いえ、それ以上かかる」
当然の診断だった。
だが。
「行きます」
ジンは起き上がろうとする。
声はか細い。
それでも芯だけは折れていない。
「戦えます」
その場の空気が凍った。
ベリアリアが絶句する。
昨夜まで生命維持すら危うかった少年が、既に前線へ戻るつもりでいる。
「無理だよ!!」
アリアが慌てて押し戻す。
「ベッド戻って!! お願いだから!!」
「でも……」
黒い瞳。
そこに宿るのは執念だった。
記憶は無い。
自分が誰だったのかも分からない。
それでも――
“誰かを守らなければならない”
そんな原初的な使命感だけが、魂へ焼き付いている。
「このままじゃ……みんなが……」
掠れた声。
東方出身と思われる少年が、唯一失わなかった本能。
守るべきもののために戦うこと。
だが今回は違う。
今、守られるべきなのは彼自身だった。
「落ち着け」
重い声。
天幕入口が勢いよく開く。
ルシャだった。
紅髪に朝露が付着している。
恐らく徹夜で警戒線に立っていたのだろう。
彼女は真っ直ぐジンを見据える。
「起き上がって動ける時点で奇跡だ」
冷静な分析。
「だが、戦闘行動は不可能だ」
「戦います」
即答。
その頑なさに、ルシャの眉間へ皺が寄る。
「……なぜそこまで拘る?」
低い問い掛け。
「お前は何のために命を懸けている?」
ジンは答えに詰まる。
記憶が無い。
だから“理由”を語れない。
けれど。
胸の奥から込み上げてくる感情だけは確かだった。
「だって……」
小さな声。
「みんなを守らなきゃ……」
あまりにも単純。
だが根源的だった。
その言葉に、ルシャが僅かに目を伏せる。
戦場で何度も死線を越えてきた狼獣人ですら、胸を打たれたのかもしれない。
子犬のように震えながら、それでも前を向こうとする姿。
それは痛々しいほど真っ直ぐだった。
「……だめだ」
ルシャが低く呟く。
そして。
「頼むから……安静にしててくれ」
その声は、今までになく弱かった。
「お前を失いたくない」
静かな本音だった。
冷徹だった狼獣人の声音が、初めて震えている。
アリアも。
ベリアリアも。
何も言わず頷いた。
三人の視線に囲まれ、ジンはようやく力を抜く。
ゆっくり寝台へ身体を戻した。
「……わかりました」
観念したような返答。
それでも、その瞳だけはまだ死んでいない。
「でも……約束してください」
天幕を見上げたまま呟く。
「もし僕が戦えないなら……必ず勝ってください」
沈黙。
そして。
「約束する」
ルシャが拳を握る。
「あたしたち絶対帰ってくるから!!」
アリアが涙目のまま指を差し出す。
「必ず勝利を持って戻るわ」
ベリアリアも魔力回復液を準備しながら静かに請け負う。
四人が誓いを交わした、その時だった。
遠くでラッパが鳴る。
再編成の合図。
新たな戦闘開始を告げる音だった。
「……行くわ」
ルシャが踵を返す。
「すぐ戻る。待っていろ」
「絶対安静だからね!!」
アリアが何度も念押しする。
猫耳が不安げに揺れていた。
「本当は傍にいたいけど……ごめんなさいね」
ベリアリアが優しく黒髪を撫でる。
三人が去っていく。
静かになった医療天幕。
ジンは再び毛布へ潜り込んだ。
熱が上がり始めている。
身体が限界を訴えていた。
(思い出したい……)
瞼が重くなる。
意識が沈む。
その中で、断片的な夢を見る。
燃える村。
誰かの叫び。
幼い少女の笑顔。
大きな背中。
父だったのかもしれない。
けれど名前が出てこない。
全てが霧の向こうだった。
(やっぱり……戻らない……)
小さな嘆息。
だが。
完全に眠りへ落ちる直前。
少年は心の奥で、一つだけ誓う。
――誰も死なせない。
それは失われた過去へ縋るのではなく。
“今”を生きるための、静かな決意だった。




