温泉街のスタンピード
馬車の旅は驚くほど順調だった。
野盗も現れない。
魔獣もほとんど現れない。
道は乾いている。
雪も無い。
春の陽気の中。
馬車は軽快に街道を進んでいく。
結果として。
行きよりも遥かに早く。
一行は温泉街の近くまで戻って来ていた。
「見えてきましたね」
フィリスが窓の外を見る。
遠く。
見慣れた湯気が見える。
温泉街だった。
ジンも少し安堵する。
ようやく帰って来た。
そう思った。
だが。
その時だった。
ゴォォォォォン―――
重い鐘の音が響く。
一度。
二度。
三度。
温泉街全体へ鳴り響くような音。
馬車の中の空気が変わる。
アリアが即座に立ち上がる。
グリムヴァルドも窓を開けた。
「警報だ」
その声は低かった。
温泉街の警報用の鐘。
平時には絶対に鳴らない。
つまり。
何かが起きている。
アリアは既に弓へ手を掛けていた。
グリムヴァルドも周囲を見回す。
「魔獣か?」
「盗賊では無いでしょうね」
フィリスも顔色を変える。
ジンは即座に馬車から身を乗り出した。
そして。
左目へ魔力を流す。
黄金の魔眼が輝く。
世界が変わる。
熱が見える。
生命が見える。
そして。
その瞬間。
ジンの顔色が変わった。
「っ!!」
「どうした!?」
アリアが叫ぶ。
ジンは目を見開いていた。
温泉街の手前。
森の向こう。
地面が盛り上がっている。
いや。
盛り上がったのではない。
崩れている。
巨大な穴。
まるで大地そのものが裂けたような穴だった。
そして。
その穴の中から。
次々と熱源が現れている。
一つや二つではない。
十。
二十。
百。
いや。
もっとだ。
魔獣。
魔獣。
魔獣。
魔獣。
魔獣。
群れ。
いや。
群れなどという規模ではない。
地面から溢れ出してくる。
濁流のように。
温泉街へ向かって。
一直線に。
「……嘘だろ」
ジンが呟く。
アリアも。
グリムヴァルドも。
その表情だけで異常を悟った。
「ザイン」
グリムヴァルドが聞く。
ジンは視線を外さない。
魔眼越しに見える。
数え切れない熱。
大地を埋め尽くす魔獣達。
そして。
その先にある温泉街。
ジンは低く言った。
「スタンピードです」
その言葉に。
馬車の空気が凍った。
スタンピード。
魔獣の大暴走。
街一つが滅ぶ事すらある災害。
鐘は正しかった。
温泉街は今。
滅亡の危機に瀕していた。
ジンは即座に立ち上がる。
「急ぎます!」
アリアも頷く。
グリムヴァルドは既に魔力を練り始めていた。
温泉街は目の前だ。
だが。
魔獣の群れもまた。
すぐそこまで迫っていた。
他の冒険者達が集結するより早く。
一行は魔獣の群れへ向かっていた。
馬車は既に街道脇へ寄せられている。
鐘は鳴り続けていた。
温泉街へ向かう魔獣の奔流。
土煙。
咆哮。
地鳴り。
まるで黒い津波だった。
「数が多い!」
ミーナが叫ぶ。
「だからスタンピードなんですよ!」
フィリスが返す。
グリムヴァルドは既に杖を構えていた。
アリアも弓を握る。
そして。
最前線。
ジンが一人前へ出た。
背中の長巻へ手を掛ける。
しゃり――
鞘から刃が抜き放たれる。
朝霧の家紋が刻まれた長巻。
それを握る姿は。
まるで昔から使い慣れていたかのようだった。
「行きます!」
地面を蹴る。
魔獣達が迫る。
狼型。
猪型。
猿型。
様々な魔獣が一斉に襲い掛かってくる。
そして。
ジンは長巻を大きく振るった。
轟っ!!
長い刃が大きな円を描く。
先頭を走っていた魔獣達がまとめて吹き飛んだ。
首が飛ぶ。
胴が裂ける。
血飛沫が舞う。
だが。
数が多過ぎる。
次々と後続が押し寄せてくる。
ジンは即座に判断した。
「止める!」
左腕へ魔力を流す。
義手が淡く紫色に光る。
地面へ手を向けた。
「蔦よ!」
次の瞬間。
大地が割れる。
無数の蔦が飛び出した。
うねりながら伸びる。
絡み合う。
積み重なる。
そして。
即席の巨大な壁となった。
魔獣達が激突する。
だが。
勢いは大きく削がれた。
「良い判断だ!」
グリムヴァルドが叫ぶ。
そして。
杖を掲げる。
膨大な魔力。
南方最高峰の魔術師。
グリムヴァルドの魔術が発動する。
轟音。
炎だった。
巨大な炎の奔流が魔獣の群れを飲み込む。
熱風が吹き荒れる。
数十体が一瞬で焼き払われる。
さらに。
グリムヴァルドも蔦の魔術を展開した。
ジンのものより太い。
広い。
巨大な蔦の壁が何重にも形成される。
まるで城壁だった。
「まだ来るぞ!」
アリアが前へ出る。
弓を引く。
雷光が集まる。
弦が鳴る。
放たれた矢は空中で雷へ変わった。
轟雷。
紫電が走る。
魔獣の群れへ飛び込む。
次の瞬間。
雷が連鎖した。
一体。
二体。
十体。
数十体。
まとめて焼き払われる。
悲鳴。
焦げた臭い。
魔獣達が次々と倒れていく。
だが。
それでも。
群れは止まらない。
「数がおかしい!」
ミーナが剣を抜いた。
フィリスもショートソードを構える。
二人とも本来は後衛寄りだ。
だが。
もうそんな事は言っていられない。
前線が崩れれば。
温泉街が終わる。
フィリスは息を吐く。
「やるしかありませんね」
「だね」
ミーナも頷いた。
そして。
二人もまた前線へ飛び出す。
スタンピード。
その先頭。
まだ援軍は来ない。
温泉街までの距離は近い。
だから。
ここで止めるしかない。
ジンは長巻を構え直す。
魔眼が群れの奥を見る。
そして。
その表情が険しくなった。
「……まだ増えてる」
その言葉に。
全員の背筋が冷えた。
地面の裂け目。
その奥から。
まだ新たな熱源が湧き続けていたのだった。
魔獣の群れは止まらない。
次から次へと押し寄せてくる。
だが。
前線に立つ三人の表情にはまだ余裕があった。
グリムヴァルドは周囲を確認しながら声を張る。
「ミーナ!」
「はい!」
「フィリス!」
「聞こえてます!」
グリムヴァルドは二人を振り返った。
「お前達は無理をするな!」
その声は厳しかった。
戦場の指揮官の声だ。
「援護に徹しろ!」
「了解!」
「分かりました!」
二人は即座に応じる。
無理に前へ出る必要はない。
今は前線が保っている。
ならば役割を果たすべきだ。
アリアは既に次の矢を番えていた。
魔力が流れる。
以前より。
ずっと自然に。
ずっと滑らかに。
矢へ魔力が通っていく。
「……」
アリアは少し驚いていた。
軽い。
驚くほど軽い。
南方でグリムヴァルドから学んだ魔力操作。
呼吸。
循環。
制御。
その成果がはっきり出ていた。
雷撃弓が以前より遥かに扱いやすい。
威力も。
精度も。
連射性も。
全て向上している。
アリアは口元を少し上げた。
「効くわね」
矢を放つ。
轟雷。
稲妻が魔獣の群れへ突き刺さる。
連鎖。
爆発。
まとめて十数体が吹き飛ぶ。
それでも。
次が来る。
ならば。
また撃つ。
アリアの雷撃弓は休む事なく魔獣を削り続けていた。
一方。
最前線。
ジンは長巻を振るう。
斬る。
薙ぐ。
払う。
まるで武器が身体の一部になったようだった。
魔獣が飛び掛かる。
長巻が閃く。
首が飛ぶ。
次の瞬間。
左腕へ魔力を流す。
「蔦よ!」
大地から蔦が噴き出す。
魔獣を絡め取る。
足を止める。
そのまま。
風の刃。
薄緑の斬撃が飛ぶ。
拘束された魔獣達をまとめて切り裂いた。
だが。
ジンの呼吸は乱れていない。
魔眼も安定している。
義手も問題無い。
むしろ。
戦う度に身体が馴染んでいるようにすら感じる。
温泉街事件の後。
失ったもの。
取り戻したもの。
その全てが今ここに繋がっていた。
そして。
グリムヴァルド。
彼女もまた圧倒的だった。
炎。
蔦。
風。
複数の魔術を並行して展開する。
普通の魔術師なら一つでも大変だ。
だが。
グリムヴァルドにとっては呼吸と変わらない。
炎が群れを焼く。
蔦が止める。
風が吹き飛ばす。
まるで一人で小隊の働きをしていた。
「ふむ」
グリムヴァルドは冷静だった。
魔力にも余裕がある。
呼吸も乱れていない。
そして。
ジンを見る。
アリアを見る。
二人とも良く動いている。
南方での成果は十分だ。
そう確信できた。
だが。
次の瞬間。
グリムヴァルドの表情が少しだけ曇る。
「……おかしいな」
ぽつりと呟く。
前線は押されていない。
むしろ押している。
それなのに。
違和感があった。
魔獣が多すぎる。
スタンピードにしても。
妙だった。
まるで何かから逃げているように。
あるいは。
何かに追い立てられているように。
グリムヴァルドの視線が地面の裂け目へ向く。
その奥。
まだ何かいる。
そんな予感がしていた。
そして。
魔眼を発動していたジンもまた。
同じ違和感を覚えていた。
魔獣達のさらに奥。
裂け目の深部。
そこに。
異様に大きな熱源がある事に。
魔獣の群れはなおも押し寄せる。
だが。
前線はまだ崩れていない。
ジン。
アリア。
グリムヴァルド。
三人が文字通り蓋となっていた。
そして。
その時だった。
後方から怒号が聞こえる。
「前線確認!!」
「急げ!!」
「冒険者は右へ展開しろ!!」
土煙が上がる。
温泉街側から。
武装した集団が駆けて来る。
帝国兵。
そして冒険者達だった。
ようやく援軍が到着したのだ。
「来たか」
グリムヴァルドが呟く。
ジンも長巻を振るいながら後ろを見る。
見知った顔もいた。
温泉街へ駐屯していた帝国兵達。
ギルド所属の冒険者達。
皆慌ただしく前線へ集まってくる。
だが。
状況を把握出来ていない。
突然のスタンピードだ。
当然だった。
そこで。
アリアが前へ出る。
「聞いて!」
雷撃弓を構えたまま叫ぶ。
その声はよく通った。
帝国兵達の視線が集まる。
冒険者達も足を止める。
アリアは即座に指示を飛ばした。
「前線は維持できてる!」
「だけど数が多い!」
雷撃の矢を放つ。
轟音。
数体の魔獣が吹き飛ぶ。
そのまま続ける。
「近接は蔦の壁の前で迎撃!」
「絶対に壁より前へ出ないで!」
「突出したら囲まれる!」
帝国兵達が頷く。
経験ある兵士達だ。
理解が早い。
アリアはさらに指示を出す。
「魔術師は後方!」
「火力集中!」
「壁を越えた個体だけ狙って!」
「弓兵は左翼!」
「右翼は森に注意!」
次々と命令が飛ぶ。
帝国兵達も動く。
冒険者達も散開する。
混乱していた前線が。
みるみる整っていく。
フィリスが目を丸くした。
「指揮上手いですね……」
「元々こういうの得意だから」
ミーナが答える。
実際その通りだった。
アリアは戦場全体を見るのが上手い。
状況判断も早い。
だから指示も的確だった。
帝国兵の隊長らしき男が駆け寄ってくる。
「状況は!?」
アリアは即答した。
「魔獣の発生源はあの裂け目!」
「あそこから出続けてる!」
「原因は不明!」
「だが普通のスタンピードではない可能性が高い!」
その言葉に。
隊長の顔色が変わる。
同時に。
グリムヴァルドも口を開く。
「群れは何かから逃げている可能性がある」
隊長が振り返る。
「何?」
グリムヴァルドの視線は裂け目へ向いていた。
「まだ本命が出てきていない」
その言葉に。
周囲の空気が変わる。
帝国兵達も。
冒険者達も。
思わず裂け目を見る。
そして。
その瞬間だった。
魔眼を維持していたジンが。
はっきりと見た。
裂け目の奥。
今まで見えていた巨大な熱源。
それが。
動いた。
「――っ!」
ジンの顔色が変わる。
長巻を握る手に力が入る。
そして。
誰よりも早く叫んだ。
「来ます!!」
次の瞬間。
大地が揺れた。
今までとは比べ物にならないほど大きく。




