母さん
月明かりが静かに墓石を照らしていた。
風が吹く。
草木が揺れる。
グリムヴァルドは墓を見つめていた。
夫の墓を。
息子の墓を。
長い間。
見る事すら出来なかった墓を。
ようやく。
真正面から。
見つめていた。
ザインはその横顔を見る。
どこか穏やかだった。
だが。
どこか寂しそうでもあった。
だから。
しばらく黙っていたザインは。
ふと口を開いた。
「グリムヴァルド」
その声に。
グリムヴァルドが少しだけ振り向く。
そして。
ザインは続けた。
「……いえ」
言い直す。
少しだけ照れ臭そうに。
少しだけぎこちなく。
「母さん」
その言葉に。
グリムヴァルドの目が大きく見開かれた。
風が止まったような気がした。
ザインは墓を見ながら続ける。
「帰りましょう」
静かな声だった。
それ以上の言葉は無い。
だが。
それで十分だった。
グリムヴァルドは何も言わない。
言えなかった。
ただ。
目を伏せる。
肩が僅かに震えていた。
長命なエルフだった。
多くを見送ってきた。
多くを失ってきた。
そして。
ずっと一人だった。
だからこそ。
その一言は。
思っていた以上に胸へ響いた。
やがて。
グリムヴァルドは小さく笑う。
涙を隠すように。
少しだけ顔を逸らしながら。
「……ああ」
声が少し掠れていた。
「帰ろうか」
そう言って立ち上がる。
そして最後に。
墓へ視線を向けた。
夫へ。
息子へ。
長い時間を経て。
ようやく言える言葉があった。
「心配はいらない」
グリムヴァルドは微笑む。
「私はちゃんとやっている」
「見ての通り」
そう言って。
隣に立つジンを見る。
「良い息子を拾ったからな」
夜風が吹く。
墓前の草が揺れる。
まるで。
誰かが笑ったような気がした。
グリムヴァルドは静かに頭を下げる。
そして。
ジンと並んで歩き出した。
何十年ぶりかに。
胸の奥の重石を少しだけ下ろしたまま。
二人は。
里の灯りが見える方へ帰っていった。
宴が終わった頃には。
すっかり夜も更けていた。
ネフェリアは案の定。
机に突っ伏して寝ていた。
「起きろ」
グリムヴァルドが肩を揺する。
反応が無い。
「起きろ」
少し強めに揺する。
反応が無い。
そして。
ぺしり。
後頭部を軽く叩いた。
「いたっ!?」
ネフェリアが飛び起きる。
「何するのよ!」
「帰るぞ」
「もっと優しく起こしなさいよ!」
「何度も起こした」
「覚えてない!」
そんなやり取りをしながら。
一行は研究所へ戻った。
研究所へ戻った頃には。
すっかり夜も更けていた。
アリアは欠伸をしながら客間へ。
ミーナは途中で眠りそうになりながらフィリスに連れて行かれる。
グリムヴァルドも今日は疲れたのか。
「おやすみ」
それだけ言って部屋へ入っていった。
やがて。
リビングには二人だけが残る。
ジンと。
ネフェリアだった。
ごぽり。
静かな水音が響く。
ジンはソファへ深く腰掛け。
水煙草を燻らせていた。
窓の外には夜の海。
明日になれば里を発つ。
そんな事を考えていると。
向かいのソファへネフェリアがどさりと座った。
「寝ないの?」
ネフェリアが聞く。
「もう少しだけ」
ジンは煙を吐く。
甘い香りが広がる。
ネフェリアは小さく笑った。
「本当に気に入ったのね」
「好きですね」
「最初は嫌そうな顔してたのに」
「無理やり吸わせたの誰でしたっけ」
「私」
即答だった。
二人とも少し笑う。
ごぽり。
煙が揺れる。
そして。
ネフェリアがぽつりと口を開いた。
「ありがとうね」
ジンは首を傾げる。
「何がです?」
ネフェリアは少しだけ笑った。
「ナディアの事」
その言葉に。
ジンは先程の墓地を思い出した。
月明かり。
二つの墓。
そして。
母さん、と呼んだ事を。
ネフェリアは静かに続ける。
「兄さんが死んでから」
「ナディアは変わった」
ジンはそこで顔を上げた。
「兄さんって……?」
ネフェリアは少しだけ目を細める。
「ナディアの夫よ」
「私の兄だったの」
ジンは少し驚く。
ネフェリアは続けた。
「だからナディアは私の義姉ね」
「兄さんもナディアも仲が良かった」
「息子も生まれて」
「本当に幸せそうだったわ」
懐かしそうな笑み。
だが。
その笑みはゆっくりと消える。
「それが全部無くなった」
静かな声だった。
「兄さんが死んで」
「息子も死んで」
「ナディアは墓にも来なくなった」
「里も出て行った」
ごぽり。
静かな水音が響く。
「今日墓地にいたでしょう?」
「……はい」
「私ね」
ネフェリアは少し笑う。
「本当に驚いたの」
「何十年もあの墓を見なかった人だから」
窓の外へ目を向ける。
「兄さんの事を忘れたかったのよ」
「息子の事も」
「思い出すのが辛すぎたから」
しばらく沈黙が続く。
やがて。
ネフェリアはジンへ視線を向けた。
「でも今日は違った」
「……」
「ちゃんと向き合ってた」
「ちゃんと話してた」
その声には安堵があった。
長い時間。
見守ってきた者の安堵だった。
そして。
少しだけ悪戯っぽく笑う。
「それに」
「母さんって呼んだんでしょ?」
ジンは思わず視線を逸らした。
ネフェリアは吹き出す。
「その反応」
「やっぱり呼んだのね」
「……成り行きで」
「ふふっ」
珍しく楽しそうだった。
やがて。
その笑みは優しいものへ変わる。
「嬉しかったと思うわよ」
「そうですかね」
「そうよ」
即答だった。
「だってあの人」
「ずっと一人だったもの」
静かな声だった。
「仲間はいた」
「知り合いもいた」
「でも家族はいなかった」
ごぽり。
煙が揺れる。
ネフェリアは少し考えるように天井を見る。
「いつからだったかしらね」
「ナディアがあなたの話をするようになったの」
ジンは少し首を傾げる。
「俺の話ですか?」
「そう」
ネフェリアは頷く。
「最初は旅の仲間の話だったのよ」
「面倒な子がいるとか」
「危なっかしいとか」
「放っておけないとか」
ジンは苦笑する。
言われそうだった。
「でもね」
ネフェリアは笑った。
「気付いたら話題の半分くらいがジンだった」
「それは盛ってません?」
「盛ってないわよ」
即答だった。
「本人は気付いてないでしょうけど」
「私から見たらすぐ分かった」
少しだけ目を細める。
「この子は特別なんだなって」
リビングは静かだった。
ごぽり。
煙がゆっくりと昇る。
「だからありがとう」
ネフェリアはそう言った。
「ナディアを一人にしないでくれて」
その言葉に。
ジンはしばらく考える。
そして。
ぽつりと呟いた。
「俺の方が助けられてますよ」
ネフェリアは首を傾げる。
ジンは続けた。
「左目を失った時も」
「義手が出せなくなった時も」
「俺が折れそうだった時も」
「ずっと隣にいてくれました」
「そうでしょうね」
ネフェリアは優しく笑った。
「ナディアだもの」
その言葉が妙にしっくりきて。
ジンも少し笑った。
静かな夜だった。
波の音だけが聞こえる。
やがてネフェリアは立ち上がる。
そして扉の前で振り返った。
「ジン」
「はい」
「これからも」
少しだけ優しく笑う。
「ナディアをよろしくね」
ジンは少しだけ笑った。
「はい」
その返事を聞いて。
ネフェリアは満足そうに頷く。
そして部屋へ戻っていった。
後には。
ジンだけが残る。
ごぽり。
最後の一服。
甘い香りが肺を満たす。
明日になれば。
この里とも別れだ。
けれど。
また帰って来よう。
そう自然に思える場所になっていた。
ぱちり。
炭が小さく音を立てる。
ごぽり。
静かな水音が響く。
研究所のリビングは暗かった。
既に灯りは落としてある。
窓から差し込む月明かり。
そして。
水煙草の炭が赤く燃える光。
それだけだった。
ジンはソファへ深く腰掛ける。
ゆっくり煙を吐く。
白い煙が夜の中へ溶けていった。
静かな時間だった。
この一ヶ月。
色々な事があった。
左目を取り戻した。
義手を取り戻した。
南方魔術も学んだ。
身体も少し変わった。
鏡を見る度に思う。
随分健康になった。
肌は焼け。
筋肉も付いた。
頬のやつれも消えた。
目にも力が戻っている。
以前の自分なら。
考えられなかった姿だった。
ふと。
背も少し伸びた気がする。
いや。
気のせいかもしれない。
そんな事を考えながら。
煙を燻らせる。
ごぽり。
甘い香りが広がる。
その時だった。
「……?」
気配を感じた。
左目ではなく。
長い旅で身に付いた感覚だった。
誰かいる。
背後。
ジンはゆっくり振り返る。
月明かりの中。
そこに一人立っていた。
青い髪。
静かな瞳。
アリアだった。
ジンは少し驚く。
「起きてたのか」
アリアは肩を竦めた。
「その言葉そのまま返すわ」
小さく笑う。
そして。
ソファの後ろへ回り込む。
「隣いい?」
「どうぞ」
アリアはそのままジンの隣へ腰掛けた。
二人の間に沈黙が落ちる。
別に気まずくはない。
昔からそうだった。
何も話さなくても平気な時間がある。
ごぽり。
水煙草の音だけが響く。
アリアは横目でジンを見る。
そして。
少しだけ目を細めた。
「本当に元気になったわね」
不意の言葉だった。
ジンは苦笑する。
「そうか?」
「そうよ」
即答だった。
「最初見た時なんて」
「今にも倒れそうだったもの」
「そんなに?」
「そんなに」
また即答だった。
アリアは窓の外を見る。
「正直」
少しだけ声が小さくなる。
「心配だった」
ジンは何も言わない。
アリアも続ける。
「左目も無くなって」
「義手も出なくなって」
「無理ばっかりして」
少しだけ俯く。
「また居なくなるんじゃないかって思った」
月明かりが青い髪を照らす。
ジンはしばらく黙っていた。
やがて。
ぽつりと言う。
「悪かった」
アリアは首を横に振った。
「謝らなくていい」
そう言って。
少しだけ笑う。
「でも」
「今は安心してる」
その視線は。
以前よりずっと穏やかだった。
左目もある。
義手もある。
顔色も良い。
ちゃんと笑っている。
それが嬉しかった。
アリアはジンの肩へそっと頭を預けた。
「良かった」
本当に。
心からそう思っている声だった。
研究所のリビングは静かだった。
ごぽり。
煙が揺れる。
窓の外では波の音が聞こえる。
明日になれば。
また旅が始まる。
けれど今だけは。
何も考えなくて良かった。
二人はただ。
静かな夜を共有していた。




