魔眼の定着
ネフェリアはメモ帳を開いたまま。
羽根ペンを手にジンを見る。
「じゃあ次」
眼鏡の位置を直しながら言った。
「右目を閉じて」
「左目だけで視界を確認してみて欲しい」
ジンは頷く。
そして。
右目を閉じた。
意識を左目へ集中させる。
まだ少し違和感がある。
眼窩の奥が熱を持っている感覚。
それでも。
ゆっくりと周囲を見る。
すると。
視界が変わった。
「……あ」
思わず声が漏れる。
部屋の景色はそのままだった。
机。
椅子。
本棚。
窓。
だが。
人だけが違う。
アリア。
ミーナ。
フィリス。
グリムヴァルド。
ネフェリア。
それぞれが。
微妙に違う色を纏って見える。
赤。
橙。
黄色。
僅かな違いだった。
だが確かに違う。
そして。
暖炉の残り火。
ティーカップの湯気。
窓から差し込む陽光。
熱を持つものほど強く見えた。
「温度……」
ジンが呟く。
ネフェリアの目が輝く。
「見える?」
「はい」
「どんな風に?」
「色が……違う感じです」
ネフェリアは急いでメモを取る。
さらさらと羽根ペンが走る。
「順調ね」
そう言った直後だった。
視界が揺らぐ。
ぐらり。
左目の奥がずきりと痛んだ。
色が薄れる。
熱の輪郭が消える。
そして。
視界は元へ戻った。
普通の視界。
ただそれだけになった。
ジンは何度か瞬きをする。
「消えました」
「ふむ」
ネフェリアは慌てる様子もない。
むしろ予想通りという顔だった。
「疲労ね」
「疲労ですか」
「定着したばかりだもの」
ネフェリアは当然のように言う。
「魔力も使うし」
「神経も使うし」
「まだ身体が慣れてない」
メモ帳へ何かを書き込む。
「今は数秒使えただけでも十分よ」
ジンは左目を擦りそうになり。
慌てて手を止めた。
族長からも触るなと言われている。
ネフェリアは頷く。
「良い判断」
「しばらくは無理に使わない事」
「使い過ぎると頭痛が酷くなるわ」
「既に少し痛いです」
「でしょうね」
即答だった。
そして。
ネフェリアは再び水煙草を指差す。
「だから吸ってなさい」
「万能なんですかそれ」
「万能じゃないわ」
ネフェリアは胸を張る。
「でも私の調合だからかなり優秀よ」
ジンは半信半疑で吸い口を手に取る。
ごぽり。
静かな水音が鳴る。
甘い煙が肺へ流れ込む。
すると。
確かに少しだけ。
頭の重さが和らいだ気がした。
普通の視界になっただけでも。
十分ありがたい。
そう思いながら。
ジンは静かに煙を吐き出した。
ごぽり。
ごぽり。
静かな水音が部屋に響く。
ジンはソファへ深く身体を沈めたまま。
ゆっくりと煙を吸っていた。
甘い香り。
身体の力が抜けていく感覚。
左目の疼きも先程より楽になっている。
頭の重さも薄れていた。
「どう?」
ネフェリアがメモ帳を見ながら聞く。
ジンは答えようとした。
「だいぶ――」
言葉が止まる。
「あれ……」
妙に瞼が重い。
頭がぼんやりする。
暖かい。
心地良い。
身体中の力が抜けていく。
ごぽり。
もう一度吸う。
さらに眠い。
「ん……」
ジンの身体が少し横へ傾く。
アリアが首を傾げた。
「ジン?」
返事が無い。
ごぽり。
吸い口を持ったまま。
こくり。
頭が落ちる。
「……あら?」
ネフェリアが顔を上げた。
羽根ペンを置く。
ソファへ近付く。
ジンの顔を覗き込む。
「……」
静かだった。
規則正しい呼吸。
力の抜けた肩。
閉じられた両目。
そして。
すぅ……
すぅ……
小さな寝息。
完全に寝ていた。
ネフェリアが瞬きをする。
「寝たわね」
アリアも近寄る。
「寝たわね」
ミーナも覗き込む。
「寝てる……」
フィリスは少し考える。
グリムヴァルドは呆れたように額へ手を当てた。
ネフェリアは慌てて机の上のメモを確認する。
「おかしいわね」
「鎮痛」
「魔力循環安定」
「リラックス」
「少量の安眠効果」
指を折りながら確認する。
そして。
最後の一文で止まった。
「あ」
全員が見る。
ネフェリアは目を逸らした。
「ちょっと安眠効果が強かったかも」
グリムヴァルドが深いため息を吐く。
「お主な……」
「でも結果的には良いじゃない」
ネフェリアは言う。
「今のジン君に必要なの休養だし」
それはそうだった。
アリアは眠るジンを見る。
ソファへ深く身体を預け。
久しぶりに安心したような顔をしている。
戦闘中でもない。
追われてもいない。
痛みに苦しんでもいない。
ただ眠っている。
それだけだった。
アリアは少しだけ表情を和らげる。
「……そうね」
小さく呟いた。
ネフェリアも頷く。
そして。
起こさないよう小声になる。
「今日は検査終わり」
「このまま寝かせておきましょう」
窓の外では。
穏やかな潮風が吹いていた。
その中で。
ジンは久しぶりに。
何の心配も無い眠りへ落ちていた。
◇
その夜だった。
ジンはゆっくりと目を開く。
静かだった。
聞こえるのは波の音だけ。
辺りは真っ暗だった。
少なくとも。
右目では。
窓の位置も。
家具の輪郭も。
ほとんど分からない。
だが。
左目は違った。
見える。
昼間ほどではない。
色も薄い。
それでも。
机。
本棚。
椅子。
窓。
部屋の形がぼんやりと分かった。
「これが……」
小さく呟く。
魔眼。
暗闇でも見える目。
ジンは静かに周囲を見回す。
すぐ側にアリアが眠っていた。
青い髪が枕に広がっている。
寝息は静かだった。
どうやら。
ジンの様子を見ているうちに眠ってしまったらしい。
「……」
ジンは少しだけ目を細める。
その時だった。
アリアが小さく身じろぎする。
ゆっくりと瞼が開く。
そして。
「あら」
眠そうな声。
「ジン起きたの?」
自然な口調だった。
ジンは少し驚く。
「起こしました?」
「ううん」
アリアは小さく首を振る。
そして。
そのままジンを見る。
正確には。
ジンと目が合った。
「……」
ジンは思わず黙る。
部屋は暗い。
右目ではアリアの顔すらよく見えない。
それなのに。
アリアはまっすぐこちらを見ていた。
まるで。
昼間のように。
「どうしたの?」
アリアが不思議そうに聞く。
「いや……」
ジンは少し戸惑う。
「見えてるんですか?」
「見えてるわよ?」
当たり前のような返事だった。
ジンは首を傾げる。
アリアも首を傾げる。
しばらく見つめ合う。
そして。
アリアの方が先に気付いた。
「ああ」
小さく笑う。
「獣人だもの」
そう言って自分の目元を指差す。
「人間より夜目は効くわよ」
なるほど。
ジンは納得した。
確かにアリアは猫系獣人だった。
夜に強くても不思議ではない。
アリアは少し身体を起こす。
そして。
改めてジンの左目を見る。
暗闇の中でも。
その黄金の瞳は僅かに光を反射していた。
「綺麗な目ね」
ぽつりと呟く。
ジンは少しだけ視線を逸らした。
「そうですか?」
「ええ」
アリアは優しく笑う。
「似合ってるわよ」
その言葉に。
ジンは何も返せなかった。
ただ。
少しだけ気恥ずかしくなって。
窓の外へ視線を向けた。
遠くで波の音が響いていた。
波の音が響いていた。
穏やかな夜だった。
アリアはしばらくジンの顔を見ていた。
そして。
ふっと表情を和らげる。
「長旅で疲れてるでしょ」
優しい声だった。
「ジン」
ジンは少し苦笑する。
「まぁ……」
疲れていないと言えば嘘になる。
朝霧家を出て。
森を抜け。
エルフの里へ辿り着き。
自分の過去を知り。
魔眼の移植まで受けた。
一日で起きた事とは思えない。
アリアはそんなジンを見て。
小さく息を吐いた。
「寝なさいな」
そう言うと。
自然な動作でジンを引き寄せる。
「え」
ジンが何か言う前に。
アリアの腕が背中へ回る。
ふわりと柔らかい感触。
青い髪が頬に触れる。
温かかった。
「アリアさん?」
「だめ」
即答だった。
「今日は患者さんなんだから」
反論は許さないらしい。
ジンは少し困った顔になる。
だが。
不思議と嫌ではなかった。
アリアはそっとジンの頭を抱える。
まるで。
小さな子供にするように。
「目も移植したばかり」
「身体も疲れてる」
「だから寝る」
「命令?」
「命令」
アリアは迷いなく頷いた。
ジンは小さく笑う。
「分かりました」
ようやく観念する。
アリアも満足そうだった。
そして。
優しく背中を撫でる。
一定のリズム。
心地良い温もり。
左目の疼きも。
頭の重さも。
少しずつ遠ざかっていく。
「おやすみ」
アリアが小さく呟く。
ジンは目を閉じた。
「おやすみなさい」
返事をすると。
すぐ近くから。
安心したような吐息が聞こえた。
波の音が響く。
穏やかな夜だった。
そして。
意識が沈み始めた頃。
また聞こえた。
小さな声。
かすれるような声。
「……ごめんね」
ジンの意識が僅かに浮上する。
聞き間違いではなかった。
確かに。
アリアの声だった。
「……ごめんね」
抱き締める腕が少しだけ強くなる。
震えるように。
縋るように。
まるで。
何かを許して欲しいと願うように。
「……」
ジンは目を開かなかった。
何に対しての謝罪なのか。
知っている。
左腕の事。
聖騎士団の事。
あの日々の事。
アリアは今も。
全部抱えたままなのだろう。
何度も。
何度も。
同じ夢を見るのかもしれない。
だから。
眠る前になると。
時々こうして零してしまう。
「ごめんね」
ジンは何も言わなかった。
ただ。
アリアの肩へ静かに額を預ける。
それだけだった。
それだけで。
少しだけ。
抱き締める力が弱まった気がした。
やがて。
波の音だけが残る。
そして二人は。
静かな夜の中へ沈んでいった。




