朝霧家
源蔵は湯船に背を預ける。
しばらく黙っていた。
板壁の向こうでは。
まだアリアが何やら騒いでいる。
ミーナの笑い声。
フィリスのため息。
水蓮の不思議そうな声。
賑やかだった。
源蔵はその様子を聞きながら。
ふっと笑う。
「愛されておるな」
ジンは顔を上げる。
「え?」
「お主じゃ」
源蔵は言った。
「家族がおるのだな」
静かな声だった。
ジンは少し考える。
そして。
自然に笑った。
「ええ」
迷いは無かった。
「みんな家族みたいなものですから」
源蔵は何も言わない。
ただ。
静かに頷いた。
湯気が立ち昇る。
その横顔は。
どこか安心したようにも見えた。
⸻
風呂から上がる。
客室へ戻る。
夜も更けていた。
布団が敷かれている。
旅の疲れもあった。
ジンは布団へ潜り込む。
暖かい。
思わず息が漏れる。
今日一日で。
色々な事があった。
火の国。
暁家。
攫われた子供達。
源蔵。
水蓮。
考える事は山ほどある。
だが。
瞼は重かった。
その時。
隣の布団が僅かに動く。
アリアだった。
いつもの事だった。
旅が始まってから。
いや。
もっと前からかもしれない。
アリアは自然とジンの傍へ来る。
そして。
そのまま抱き寄せる。
「アリア?」
「ん」
短い返事。
離す気は無いらしい。
ジンも慣れたものだった。
少し身じろぎして。
楽な姿勢を探す。
アリアの腕が背中へ回る。
以前より強い。
失うのが怖いとでも言うように。
離さないように。
静かに抱き締める。
部屋は暗い。
他の皆も寝静まっている。
聞こえるのは虫の声だけ。
しばらくして。
ジンの意識は少しずつ沈んでいく。
眠りの手前。
その時だった。
微かな声が聞こえる。
「……ごめんね」
小さな声だった。
眠気の中。
聞き間違いかと思うほどに。
ジンは薄く目を開く。
だが。
アリアは何も言わない。
ただ。
抱き締める腕だけが少し強くなる。
「……」
ジンは何も聞かなかった事にした。
そういう時もある。
アリアは時々こうなのだ。
理由は分からない。
だが。
嫌ではなかった。
暖かかった。
だから。
ジンは目を閉じる。
そして。
アリアの腕の中で。
ゆっくりと眠りへ落ちていった。
翌朝。
空はよく晴れていた。
港町の喧騒も少しずつ目を覚まし始めている。
屋敷の門前には。
源蔵。
水蓮。
そして門下生達が集まっていた。
見送りのためだ。
旅支度を終えた一行は門の前に並ぶ。
馬車は置いていく事になった。
馬も同様だ。
ここから先。
南方エルフの里へ向かう道は山と森が続く。
馬車で進めるような場所ではないらしい。
「預かっておこう」
源蔵が言う。
「帰って来る頃には綺麗にしておいてやる」
「ありがとうございます」
グリムヴァルドが頭を下げる。
源蔵は小さく頷いた。
そして。
視線がジンへ向く。
「ジン殿」
「はい?」
ジンが振り返る。
源蔵はしばらく言葉を探しているようだった。
やがて。
静かに口を開く。
「帰り際」
「うむ?」
「また寄って貰えると助かる」
ジンは首を傾げる。
「何かあるんですか?」
「ある」
短い返事だった。
「お主に渡したいものがある」
ジンは少し驚いた顔をする。
だが。
すぐに笑った。
「ありがとうございます」
「また寄らせてもらいますね」
源蔵は頷く。
その返事を聞いて。
どこか安心したようだった。
そして。
小さく息を吐く。
「ふむ……」
視線が少し遠くを見る。
昔を思い出しているようだった。
「いつでも」
源蔵は言う。
「ここへ来てよい」
一拍。
そして。
首を横に振る。
「いや」
その言葉を訂正する。
「帰ってきてよいからの」
門前が静かになる。
ジンは目を瞬かせた。
源蔵はそれ以上多くを語らない。
ただ。
穏やかな顔をしていた。
「暁家とは親交があった」
「お主の家じゃ」
「じゃから」
少しだけ笑う。
「遠慮はいらん」
ジンは何も言えなかった。
火の国。
暁家。
昨日まで。
自分とは関係のない話だと思っていた。
だが。
今は違う。
知らないはずなのに。
懐かしいような気がする。
そんな不思議な感覚だった。
「……はい」
ジンは静かに頷く。
源蔵も頷いた。
それで十分だった。
その様子を。
水蓮は少し離れた場所から見ていた。
アリアも見ていた。
グリムヴァルドも。
フィリスも。
ミーナも。
やがて。
一行は歩き出す。
港町を抜け。
東の海岸線へ向けて。
南方エルフの里への旅路はまだ続く。
門の前では。
源蔵と水蓮がその背中を見送っていた。
姿が小さくなっていく。
見えなくなるその直前。
源蔵はぽつりと呟いた。
「生きておったか……」
誰に聞かせるでもない声だった。
風が吹く。
朝の潮風が門前を通り抜けていく。
源蔵はしばらくその先を見つめていた。
まるで。
遠い昔に失われた何かを見送るように。
朝霧家の館を後にする。
港町の喧騒を背に。
一行は南へ向かって歩いていた。
海風が吹く。
街道は整備されているが。
徐々に人通りは少なくなっていく。
門下生達に貰った干し肉を齧りながら。
ジンはふと気になっていた事を口にした。
「そういえば」
隣を歩くグリムヴァルドを見る。
「港町のギルドには寄らなくて良いんですか?」
港町ともなれば大きな冒険者ギルドがあるはずだ。
依頼の確認。
情報収集。
補給。
色々出来る事は多い。
だが。
グリムヴァルドは首を横に振った。
「寄らぬ」
即答だった。
ジンが首を傾げる。
グリムヴァルドは続けた。
「今はお主を人目に晒すのは危険と判断した」
その言葉に。
アリアも小さく頷く。
「私もそう思う」
フィリスも反対しなかった。
ジンは少し考える。
そして。
「ああ……」
温泉街の件を思い出した。
グリムヴァルドは言う。
「温泉街ギルドの件もある」
声は静かだった。
だが。
その目は笑っていない。
ジンの死亡偽装。
生体解体未遂。
暗部の介入。
そして。
未だに誰が裏で動いていたのか全ては分かっていない。
「少なくとも」
グリムヴァルドは前を見る。
「私には信用出来ん」
港町のギルドが悪い訳ではない。
だが。
今は違う。
慎重になるべき時だった。
「このまま私の里へ向かう」
「分かりました」
ジンも素直に頷く。
反論はしなかった。
温泉街の一件で。
自分が狙われている可能性は理解していたからだ。
すると。
アリアが横から口を挟む。
「それに」
「ん?」
「今のジン目立つし」
「え?」
アリアは指を差す。
白い髪。
仮面。
左腕の無い身体。
どれか一つでも目立つ。
全部揃っている。
「うっ……」
ジンは言葉に詰まる。
フィリスも頷いた。
「正直かなり目立ちます」
「街中なら半日で噂になりますね」
「なるほど……」
ジンは少し肩を落とした。
その様子を見て。
ミーナが笑う。
「大丈夫だよぉ」
「うん?」
「ジンは昔から目立ってたし」
「そうでしたっけ?」
「そうだよぉ」
ミーナは楽しそうだった。
一行の空気が少し和らぐ。
そうして。
海岸線沿いの道を進む。
その先にあるのは。
南方エルフの里。
グリムヴァルドの故郷。
そして。
ジン達の知らない新たな土地だった。




