戦争開始2年後…少年の単独任務とリオーネ
北の果ての丘陵地帯。
雪解け水を含んだ黒土は深くぬかるみ、踏み締めるたび不快な水音を立てていた。
辺りには無数の屍が転がっている。
砕けた槍。
潰れた兜。
泥に沈んだ軍旗。
聖王国と北方帝国。
二年目へ突入した冬季防衛戦は、既に消耗戦の域を超えていた。
吹き荒れる北風が死臭を運ぶ。
その最前線。
野営陣地中央の作戦机で、ハインリヒが地図を見下ろしていた。
銀髪には白いものが増え、頬には疲労が深く刻まれている。
それでも、その眼光だけは未だ鋭かった。
「ジン。東方迂回路の偵察結果は?」
低い問いかけ。
黒髪の青年が顔を上げる。
もう“少年”と呼ぶには危うい。
二年間の戦場が、彼から幼さを削り取っていた。
鉄灰色の外套は泥と乾いた血で汚れている。
「敵増援を確認しました」
感情を抑え込んだ声。
「騎馬兵三百。歩兵千五百」
沈黙が落ちる。
焚き火の火が風で揺れた。
「……想定より早い」
ルシャが険しい顔で呟く。
紅蓮の髪は肩口で短く切り揃えられていた。
かつての激情家というより、今は歴戦の兵士に近い空気を纏っている。
「補給路狙いだろうな」
ハインリヒが地図上を指で叩く。
東方迂回路。
狭い谷道。
もしここを突破されれば、防衛線は崩壊しかねない。
アリアが小さく舌打ちする。
「帝国側、本気で押し切るつもりだ……」
右耳の包帯が風で揺れる。
先月の砲撃戦の傷はまだ治りきっていない。
それでも彼女は前線を離れなかった。
ミーナも補給記録を抱えながら不安そうに眉を寄せる。
「後方物資、もう余裕ないよ……」
重苦しい空気。
その中で、ハインリヒが静かに顔を上げた。
「……東方迂回路の再偵察が必要だ」
誰も口を開かない。
危険すぎる任務だと分かっていた。
谷周辺には既に帝国の散兵が入り始めている。
遭遇すれば、生還は難しい。
「私が行く」
ルシャが即答する。
だがハインリヒは首を振った。
「駄目だ。お前は正面防衛の要だ」
「なら遊撃隊を――」
「人数が増えれば見つかる」
短く切り捨てる。
沈黙。
そして。
ハインリヒの視線が、静かにジンへ向いた。
「……単独潜入が最適だ」
空気が凍る。
アリアが即座に立ち上がった。
「待って!」
机を叩く。
「一人で行かせる気!?」
「夜間行動に最も適性がある」
ハインリヒの声は冷静だった。
「足音が軽い。隠密行動もできる。東方歩法の適性も高い」
「だからって!!」
アリアの声が震える。
ルシャも苦い顔をしたまま黙っていた。
否定できないのだ。
今の聖騎士団で、最も単独斥候に向いているのは確かにジンだった。
ジン本人は静かだった。
驚きも動揺も見せない。
ただ地図を見つめている。
「……行きます」
小さな声。
しかし迷いは無かった。
「敵配置だけ確認して戻ればいいんですよね」
あまりにも自然な返答。
まるで危険を危険と思っていないようだった。
その瞬間。
ルシャが乱暴にジンの胸倉を掴んだ。
「簡単に言うな」
黄玉色の瞳が怒りで揺れる。
「単独斥候はな……帰って来れない奴も多いんだ」
ジンは何も言わない。
ただ静かにルシャを見返していた。
その黒い瞳が、逆に彼女を苛立たせる。
「お前……最近、自分の命を軽く見すぎてる」
低い声。
怒鳴っているわけではない。
だからこそ重かった。
二年間。
ジンは戦い続けた。
誰より危険な場所へ踏み込み、誰より早く敵陣へ入り、誰より静かに血を浴びてきた。
その結果――
“死”への感覚が少しずつ壊れ始めていた。
「……でも」
ようやくジンが口を開く。
「僕が行けば、皆が助かるかもしれない」
アリアが息を呑む。
ミーナが俯く。
誰も否定できなかった。
今の戦場では、その“可能性”が何より重い。
長い沈黙の後。
ハインリヒが静かに命令を下す。
「斥候任務を命じる」
軍議室の空気が重く沈んだ。
「目的は敵兵力の確認と進軍経路の特定。交戦は禁止。発見された場合は即時撤退」
ジンは頷く。
「了解しました」
ルシャがゆっくりと手を離す。
その顔には怒りより、強い不安が浮かんでいた。
「……絶対に戻れ」
短い言葉。
それが命令なのか願いなのか、もう分からなかった
夜明け前。
空はまだ薄暗く、北方の丘陵地帯には冷え切った霧が漂っていた。
吐く息は白い。
泥濘へ染み込んだ血の臭いが、湿った風と共に鼻を刺す。
ジンは単独で東方迂回路を進んでいた。
背には実戦槍。
腰には東方短剣。
二年間使い続けた黒灰色の外套は、もはや新品時の色を失っている。
斥候任務。
本来なら交戦は禁止。
敵兵力を確認し、帰還するだけの仕事だった。
だが――
丘を越えた瞬間、ジンの瞳が細まる。
(……いた)
帝国軍歩兵集団。
鋼鉄製の長槍を並べた密集槍衾隊。
霧の中でも分かる統制の取れた動き。
百……いや、二百以上。
進行方向から見て、聖王国側の側面を突くつもりだ。
ジンは素早く身を伏せる。
敵進路を確認し、撤退経路を頭の中で組み立てる。
その瞬間だった。
――ガキィン!!
背後から鋼鉄音。
続けざまに悲鳴。
ジンが即座に振り返る。
「まずい……!」
丘の下。
小規模部隊が包囲されていた。
十名前後。
蒼い外套。
聖騎士団の紋章。
帝国兵に押し込まれ、完全に孤立している。
中央には青髪の女性騎士。
細身の長剣を振るっているが、既に隊列が崩れ始めていた。
(誰か分からないけど……)
ジンの呼吸が浅くなる。
(同じ聖騎士団の仲間だ)
考えるより先に身体が動いていた。
泥を蹴る。
黒い影が斜面を駆け下りる。
戦場の喧騒が一気に近づいた。
「押し潰せ!!」
帝国兵の怒号。
その背後で、一人の聖騎士へ槍が迫る。
間に合わない。
――いや。
「下がって!!」
ジンが叫ぶ。
同時に東方短剣を抜き放った。
銀線のような軌跡。
次の瞬間、帝国兵の肘が宙を舞う。
「ギャアアアッ!!」
鮮血。
悲鳴。
だが止まらない。
ジンはそのまま地面へ刺していた槍を掴み、回転動作の勢いで投擲した。
轟音。
長槍が空気を裂く。
先程まで包囲されていた女性騎士の目前で――帝国兵の胸甲を貫いた。
「なっ……!」
敵兵が崩れ落ちる。
一瞬だけ包囲に穴が開いた。
「助かった!」
青髪の騎士が振り返る。
長身。
深い蒼色の髪。
瑠璃色の瞳。
疲弊しているはずなのに、その目だけは鋭かった。
「急いで! 第二波が来る!」
ジンが叫ぶ。
女性騎士は即座に理解した。
「後退隊形!!」
鋭い指示。
手信号。
生き残っていた騎士たちが素早く反応する。
練度は高い。
だが疲労が酷い。
中には既に満足に歩けない者もいた。
帝国側もすぐ異変に気づく。
「増援だ!!」
「黒髪のガキを殺せ!!」
敵兵が再編を始める。
ジンは短剣へ付着した血を振り払い、再び構えた。
その動きを見て、青髪の騎士が僅かに目を見開く。
(東方剣術……?)
だが考える暇は無い。
彼女は部下たちを先導しながら、ジンへ視線を向ける。
「あなた……もしかして……」
そこで初めて、彼女はジンの存在へ意識を向けた。
黒髪。
黒目。
東方風の武具。
噂だけは聞いていた。
聖騎士団に保護された記憶喪失の少年。
「ジンと言います」
短い返答。
「後衛所属です」
戦場では長々と名乗る余裕など無い。
青髪の騎士は一瞬だけ黙る。
視線が僅かに揺れた。
東方由来の容姿は、この大陸では珍しい。
特に戦場では目立つ。
「……ありがとう」
礼儀正しい口調。
だがどこか距離がある。
それは敵意ではなく、“測りかねている”空気だった。
聖騎士団内部にも派閥は存在する。
前線組。
王都守備組。
外様部隊。
そして――東方出身の異邦人。
ジン自身も、その視線には慣れていた。
だから気にしない。
「話は後で!」
短剣を構え直す。
「今は生き残るのが先です!」
高地からの撤退路は、既に半ば崩壊していた。
春先の雪解けで脆くなった山道は泥に沈み、踏み外せばそのまま谷底へ転落しかねない。
冷たい霧が立ち込める中、聖騎士団の小隊は急斜面を駆け下りていた。
その先頭を走るのは、蒼髪の女性騎士――リオーネ。
長身。
細身の体躯。
だが、その剣筋には一切の迷いがなかった。
「前方、伏兵!」
誰かが叫ぶ。
次の瞬間。
岩陰から帝国兵が飛び出してきた。
「囲め!!」
怒号。
槍衾。
退路を断つように左右から敵兵が雪崩れ込む。
罠だった。
帝国側は最初から、この撤退路へ誘導するつもりだったのだ。
「散開するな!」
リオーネが即座に指示を飛ばす。
同時に、その身体が前へ出た。
ギィン!!
剣閃。
一瞬遅れて、帝国兵の槍が宙を舞う。
速い。
いや、異常なほど正確だった。
踏み込みは最小限。
無駄な力みがない。
蒼い髪が霧の中で翻るたび、帝国兵が一人ずつ崩れ落ちていく。
「う、うわぁっ!!」
敵兵が恐慌する。
リオーネは止まらない。
斬る。
受け流す。
突き崩す。
まるで舞うような剣技だった。
ジンは思わず息を呑む。
(強い……)
今まで見てきた聖騎士たちとも違う。
実戦の中で極限まで磨かれた、“殺し切る剣”だった。
「私はリオーネ」
斬撃の合間。
背中越しに声が飛ぶ。
「聖騎士団第四大隊長だ」
息すら乱れていない。
そのまま敵兵の喉元へ剣を突き込みながら続ける。
「以後よろしく頼む」
「は、はい……!」
ジンが返そうとした瞬間だった。
背後の岩場からさらに帝国兵が現れる。
「来る!!」
咄嗟に槍を構える。
だが狭い山道では長柄武器が邪魔になる。
一瞬の判断。
ジンは槍を捨てた。
代わりに左右の腰から東方短剣を引き抜く。
二刀。
既に身体へ染み込んだ戦闘姿勢。
記憶の無い東方武術。
それでも、この一年で肉体は完全に型を覚え始めていた。
「――疾ッ」
踏み込み。
跳躍。
黒い影が敵陣へ飛び込む。
左右の短剣が十字を描いた。
次の瞬間。
帝国兵二人の喉元から血飛沫が噴き上がる。
「なっ……!」
リオーネが目を見開く。
ジンは止まらない。
着地と同時に身体を捻る。
左短剣で敵の槍を逸らし、右短剣で脇腹を裂く。
返す動作でさらに一人の膝裏を断つ。
あまりにも滑らかな連撃。
まるで最初から戦場で生きてきた人間の動きだった。
(これが……東方武術……?)
リオーネの胸中へ疑問が走る。
だが今は考えている暇がない。
「右から来る!」
「了解です!」
二人は自然に連携していた。
リオーネが正面を崩し、ジンが隙を突く。
山道という狭地形も味方した。
帝国兵は人数を活かし切れない。
何度か伏兵と遭遇し、その度に短い戦闘が発生する。
泥。
血。
怒号。
戦場の匂いが肺へ染み込んでいく。
それでも二人は止まらなかった。
やがて。
霧の向こうに、聖王国側の狼煙が見え始める。
「……安全圏だ」
リオーネがようやく剣を下ろした。
周囲の騎士たちも安堵したように息を吐く。
ジンは肩で呼吸しながら短剣の血を払った。
両腕が熱い。
心臓が早鐘のように鳴っている。
だが不思議と恐怖は薄かった。
代わりに残っていたのは――
“戦えた”
という実感だった。
野営地へ辿り着いた頃には、既に日が落ちていた。
北方の夜は早い。
薄紫だった空は完全に藍へ沈み、吹き抜ける寒風が焚き火の炎を不安定に揺らしている。
あちこちで負傷兵の呻き声が響いていた。
治癒術の光。
鉄鍋で煮られる薄い粥。
泥に汚れた鎧を脱ぎ捨てる騎士たち。
それが今の聖王国軍の日常だった。
ジンはようやく腰の短剣を外し、深く息を吐く。
指先が震えている。
寒さだけではない。
戦闘の昂揚が、まだ身体の奥へ残っていた。
「こちらへ」
声を掛けたのはリオーネだった。
焚き火の傍。
紫紺の外套は煤と泥で汚れている。
長身。
端正な顔立ち。
蒼い髪。
一見すれば王都貴族の令嬢にも見える。
だが、その目の下には深い疲労が刻まれていた。
戦場を生き抜いてきた者特有の影だった。
「正式に挨拶が遅れたな」
リオーネが静かに振り返る。
焚き火の橙色が、瑠璃色の瞳へ揺れていた。
「私はリオーネ・フォン・ヴェルファイア。聖騎士団第四大隊長だ」
その名乗りには誇りと重責が滲んでいた。
ジンは少し姿勢を正す。
「ジンです」
短く答える。
「前衛の皆さんとは……あまり接点がなくて……」
言葉が僅かに濁る。
聖騎士団内部にも見えない壁は存在していた。
王都直属。
前線部隊。
補給担当。
外様。
そして――東方出身の記憶喪失者。
自分が完全には馴染めていないことくらい、ジン自身も理解している。
だが。
「気にしなくていい」
リオーネは穏やかに微笑んだ。
優雅な所作だった。
けれど、その指先にはまだ乾き切らない血が付着している。
戦場の現実が、そこに残っていた。
「貴方が居なければ、多くの部下を失っていた」
静かな感謝だった。
リオーネが右手を差し出す。
ジンも応じる。
硬い握手。
そのまま自然な流れで頬が触れ合う。
聖騎士流の礼式。
だが、そこに打算的な気配は無かった。
純粋な敬意だった。
ジンは少しだけ目を伏せる。
こんな風に正面から感謝を向けられることへ、まだ慣れていない。
「……どうして、あんな少数で動いていたんですか?」
焚き火の火を見つめながら尋ねる。
リオーネの表情が少しだけ引き締まった。
「新型魔導砲の偵察だ」
短い返答。
だが、それだけで十分重い。
第四大隊。
聖騎士団の中でも特殊任務を担う部隊。
情報統制が厳しく、他部隊との交流も少ない。
秘密兵器運用。
帝国魔術解析。
前線深部潜入。
噂程度には聞いたことがあった。
(だから……前衛とも距離があったのか)
ジンは小さく納得する。
記憶喪失の自分は、そういう意味でも余計に浮いて見えるのだろう。
「噂には聞いていた」
リオーネがぽつりと呟く。
焚き火の火が彼女の横顔を赤く照らした。
「東方系の記憶喪失児童が戦場へ出ていると」
ジンは何も答えなかった。
否定も肯定もしない。
夜の闇が深くなる。
遠くで狼の遠吠えが響いた。
「……共に戦ってくれるか」
唐突な言葉だった。
だが、その声音には真剣さがあった。
聖騎士団内で、どこか孤立していた少年へ向けられた手。
ジンは一瞬だけ驚いたように目を見開く。
けれど。
「勿論です」
答えは早かった。
記憶は無い。
それでも恩義だけは忘れない。
それが今のジンを支える価値観だった。
「良かった」
リオーネが静かに頷く。
疲労に沈んでいた表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
「明日の黎明作戦では、本格的に協力を願う」
焚き火が爆ぜる。
夜風が吹く。
それは単なる会話ではなかった。
契約。
あるいは、新たな繋がり。
少年の戦争の日々は、また一つ大きく変わろうとしていた。




