戦場
北風が嘶く平原。
春霜の名残が融けた大地は泥濘へ変わり、無数の軍靴によって踏み荒らされていた。
血。
泥。
火薬。
鉄。
戦場特有の臭気が冷たい風に混じっている。
その中を、黒髪の少年が疾駆していた。
「左翼維持しろ!!」
誰かの怒号が飛ぶ。
だが既に戦線は半ば崩れかけていた。
本来、補給担当班は後方支援が主任務だ。
しかし戦況悪化によって、今や全員が半ば前衛として扱われている。
ジンもまた例外ではなかった。
泥を蹴る。
息は乱れている。
それでも身体は迷わない。
記憶は無い。
だが肉体だけが知っていた。
戦場でどう動くべきかを。
東方武術――その基礎が、本能のように身体を動かしていく。
「死ねぇえ!!」
眼前へ帝国兵が飛び込んでくる。
鉄錆臭い息。
泥に汚れた戦斧。
振り下ろされた刃が風を裂いた。
だが。
「――シッ!!」
短い呼気。
次の瞬間、ジンの長槍が真っ直ぐ突き出される。
鋼鉄同士が激突する鈍い感触。
穂先が敵兵の胸部装甲を貫いた。
肉を裂き、骨へ到達する感覚が手元へ伝わる。
帝国兵の目が大きく見開かれた。
「ガッ……」
崩れ落ちる。
だが。
「……抜けない」
槍が抜けなかった。
楔状の穂先が鎖帷子へ深く食い込んでいる。
無理に引けば柄が折れる。
判断は一瞬だった。
ジンの右手が腰へ走る。
「これで……!」
鞘走り。
東方短剣特有の、乾いた摩擦音。
漆黒の刀身が泥濘の光を受ける。
反りを帯びた異国の刃。
それを抜き放った瞬間――
「っ!?」
朱色の線が走る。
帝国兵の首筋へ、斜めに刻まれた斬撃。
次の瞬間、血が噴き出した。
温かい鮮血が泥へ散る。
命を断った感触。
それを――知っている気がした。
(なんで……)
記憶はない。
なのに身体は迷わない。
刃の角度も。
重心も。
人を殺す距離感も。
まるで最初から知っていたかのように。
だが立ち止まる暇は無かった。
(迷ってる場合じゃない)
ジンは亡骸へ足を掛け、槍を引き抜こうとする。
その瞬間。
背後から殺気が走った。
「小僧ぉ!!」
反射的に振り返る。
帝国軽歩兵。
短矛を振りかぶっている。
「速――」
投擲。
風切り音。
回避が間に合わない。
そう悟った刹那だった。
ギィン!!
火花。
投槍が弾き飛ばされる。
視界の端で、紅蓮の髪が翻った。
「ぼさっとするな!!」
ルシャだった。
咆哮と同時に、新しい長槍が投げ渡される。
鈍い銀光。
補強済みの実戦槍。
ジンは反射的に掴み取った。
「ありがとうございます!」
礼を返すより早く、再び前へ踏み込む。
槍を構える。
重心を落とす。
東方短剣を腰帯へ戻した瞬間、身体の動きが切り替わった。
「来るなぁ!!」
恐慌した帝国兵が剣を滅茶苦茶に振り回す。
ジンは滑るような歩法で間合いへ侵入した。
次の瞬間。
槍の石突が敵兵の膝へ叩き込まれる。
ゴキッ
嫌な音。
膝関節が逆方向へ折れ曲がる。
「ぐぁぁっ!!」
敵兵が崩れる。
だがジンは追撃しなかった。
踵を返す。
無意味な虐殺を好む性格ではない。
しかし、その直後だった。
前方で重装歩兵の槍衾が形成される。
五名。
密集隊形。
完全な突撃陣形。
「分散して!!」
遠くからアリアの声が飛ぶ。
同時に矢の雨が降り注いだ。
ジンは迷わない。
最短距離。
泥を蹴る。
跳躍。
黒い影が帝国兵の頭上を飛び越えた。
その動きは、人間離れしていた。
記憶は無い。
それでも身体だけが知っている。
“戦技”として。
落下。
同時に槍を垂直へ叩き落とす。
「ギャアァァッ!!」
盾ごと喉を貫く。
骨を砕く感触。
だが既に次の動きへ移っていた。
槍を引き抜く。
横薙ぎ。
隣の兵士の肋骨が砕け散る。
「このガキィ!!」
狂乱した怒声。
槍先が喉元へ迫る。
紙一重で回避。
頬へ赤い線が走った。
熱い。
だが止まらない。
ジンはそのまま体重を乗せ、敵兵の脇腹へ肩から突っ込んだ。
「がっ……!!」
吹き飛ぶ兵士。
鎖帷子の留め具が弾け飛ぶ。
その隙。
再び東方短剣が抜き放たれる。
「……ごめんなさい」
無意識の謝罪。
次の瞬間、刃が閃いた。
逆袈裟。
胸甲の隙間を斬り裂き、血管を断つ。
鮮血。
崩れ落ちる帝国兵。
泥へ沈む身体。
「ジンくん!! 後退!!」
アリアの声。
そこでようやく気づく。
敵第二波が接近していた。
視界の端で、帝国旗が揺れている。
「了解!」
ジンは槍を杖代わりに立ち上がる。
呼吸は荒い。
両腕は震えていた。
だが、それは恐怖ではない。
昂揚だった。
記憶は無い。
自分が何者かも分からない。
それでも。
今、自分が誰かを守れたことだけは確かだった。
それだけで――十分だった。




