少年参戦
雪化粧した古城の廊下。
石壁の隙間から吹き込む冷気が、夜の静寂をさらに鋭くしていた。
窓の外では吹雪が荒れ狂っている。
白銀の嵐が城壁を叩き、時折、獣の唸り声のような風音が長く廊下を這った。
ジンは肩で息をしていた。
訓練場から走ってきたせいで、黒髪には細かな雪が溶け残っている。
まだ幼さの残る顔立ち。
だが三年半の鍛錬によって、その身体つきは確実に変わっていた。
細かった腕には筋肉がつき、視線にも以前の弱々しさはない。
それでも――
今だけは、漆黒の瞳が隠しきれない動揺に揺れていた。
「団長……本当なのですか」
執務室の扉を叩いてから三秒。
震える声が、凍りついた空気を裂く。
室内は静かだった。
暖炉の火だけが揺れている。
聖王国騎士団長、ハインリヒ=フォン=クラウゼヴィッツは、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
五十を越えてなお衰えを感じさせない体躯。
古傷が刻まれた両腕。
純血人間種でありながら、魔力循環術によって肉体劣化を極限まで抑制している特異な存在。
その眼差しは、今夜やけに重かった。
「明日正午」
低い声。
冷えた刃のような響きだった。
「前線へ赴け。戦闘補助員として従軍してもらう」
一拍。
暖炉の火が揺れる。
そして。
「ジン――君を正式に聖騎士団所属騎士とする」
空気が止まった。
ジンの指先が微かに震える。
正式所属。
三年半。
訓練生として過ごしてきた時間。
雑用。
補給。
治療補助。
槍術訓練。
その全てが脳裏を過った。
「……はいっ!」
返事は反射的だった。
床板を強く踏み締める。
記憶はない。
故郷も知らない。
家族の顔すら思い出せない。
それでも、たった一つだけ理解していることがあった。
戦争とは、人が死ぬ場所だ。
訓練とは違う。
木槍も模擬剣も存在しない。
本物の血と悲鳴が飛び交う世界。
聖騎士団で過ごした三年半は温かかった。
だからこそ、その場所を守りたい。
ようやく皆の役に立てる。
その想いだけが、恐怖を押し潰していた。
「戦闘補助員の主任務は補給任務だ」
腕を組んだルシャが口を開く。
紅蓮の髪が暖炉の火を受け、炎のように揺れていた。
黄玉色の瞳が真っ直ぐジンを見据える。
「……だが前線近くだ」
その声音には苛立ちと焦燥が滲んでいた。
「なぜ君なんだ」
問いというより、怒りに近い。
ハインリヒは重く息を吐き、机上の書類へ目を落とした。
「犠牲者が出すぎた」
羊皮紙が風で揺れる。
そこへ記された名前の多くに、黒線が引かれていた。
戦死。
重傷。
戦線離脱。
この半年で、二十五名。
聖騎士団創設以来、最悪の損耗率だった。
獣人。
人間。
エルフ。
混成部隊ゆえに連携負担も大きい。
そして何より、人手が足りない。
「ミーナちゃん、ずっと泣いてたのよ……」
ベリアリアが低く呟く。
牛獣人の双角がランタンの灯りを鈍く反射した。
「治療兵が足りないからって……まだ十代前半の子まで前線へ送るなんて……」
その声は怒りというより悲鳴だった。
「私たちだけで十分なのに!」
アリアが声を荒げる。
水色の猫耳が激しく揺れていた。
彼女の拳は小刻みに震えている。
ハインリヒは静かに目を閉じる。
「合理性だけなら、これは正しい判断だ」
苦しげな声。
「西方魔術基礎教程を修了した若年者から順次徴用する。王国法典に基づいた非常措置だ」
それは“戦争の論理”だった。
平時ではありえない。
だが今の聖王国には、もう選択肢が少ない。
「拒否権はある」
ハインリヒがゆっくりと言う。
「……だが拒否した場合、不名誉除籍となる」
重苦しい沈黙。
暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いた。
ジンは俯く。
胃の奥が冷えていく。
怖い。
当たり前だった。
まだ十代。
戦場など、本来立つべき場所ではない。
それでも――
皆が、自分を止めてくれている。
その事実が、少しだけ嬉しかった。
守られている。
家族のように。
そう感じてしまった。
だからこそ。
「行きます」
即答だった。
沈黙から逃げたわけではない。
むしろ逆だった。
考え続ければ、きっと怖くなる。
だから答えるしかなかった。
記憶の無い自分には、“今”しかない。
そして今、自分が守りたいものは決まっている。
「皆のために」
その想いだけが、凍りついた心を動かしていた。
「……分かった」
ハインリヒが目を伏せる。
初めて、人間らしい悲しみが見えた。
「出発は明朝。槍兵隊所属とする」
◇
執務室を出た瞬間、アリアが勢いよく抱きついてきた。
「ダメだったら逃げてきて!」
水色の尻尾がぶわっと膨らむ。
「私たち絶対怒らないから!」
「こら!」
ルシャの拳骨が落ちた。
「甘やかすな馬鹿者」
そう言いながらも、彼女の声は震えていた。
少し沈黙してから、そっぽを向いたまま呟く。
「……帰ってきたら飲み明かすぞ」
不器用な励ましだった。
ベリアリアは涙を堪えながら、大量の治癒薬を押し付けてくる。
「ちゃんと使うのよ」
大きな青い瞳が潤んでいた。
ジンはそれを大事そうに受け取った。
「ありがとうございます」
自然と笑みが零れる。
記憶の空白は埋まらない。
自分が何者なのかも分からない。
それでも。
この場所で得た絆だけは、本物だった。
聖王国西門の詰め所は、朝靄に深く包まれていた。
白く濁った空気の中、出征準備に追われる兵士たちの声が低く響いている。
革鎧の軋む音。
馬の鼻息。
輜重車の車輪音。
戦争へ向かう朝特有の、張り詰めた空気だった。
その片隅で、ジンは鉄灰色の騎士外套を整えていた。
まだ身体に馴染みきっていない正式騎士の装束。
肩口へ刻まれた聖騎士団紋章が、やけに重く感じる。
その姿を、セレナが静かに見つめていた。
白い巻き毛は朝露で少し湿っている。
羊獣人特有の柔らかな雰囲気は変わらない。
けれど今日の彼女は、どこか酷く疲れて見えた。
「……これを持っていきなさい」
差し出されたのは、小さな護符だった。
掌へ収まる程度の大きさ。
銀糸で編み込まれた外殻には、複雑な魔方陣が刻まれている。
淡い治癒光が微かに脈動していた。
「私の一族に伝わるものです」
セレナが小さく微笑む。
だがその声は僅かに震えていた。
「治癒術式が込められています……強いものではありませんけど」
医療班長である彼女は、既に数え切れない負傷兵を見てきた。
戻ってこなかった騎士も。
治せなかった傷も。
だからこそ、その瞳には隠しきれない恐怖が宿っている。
ジンは護符を受け取る。
ほんのり温かい。
「ありがとうございます」
外套の内ポケットへ、大事そうにしまい込む。
「……必ず戻ります」
偽りのない言葉だった。
記憶はない。
それでも、この場所で過ごした時間だけは本物だ。
皆の役に立ちたい。
その想いだけは、確かに胸の中へ根付いていた。
その時だった。
視界の端で、紫色が揺れる。
フィリスだった。
記録係の鳥獣人少女。
薄紫の髪と、小さな翼。
いつもなら皮肉交じりに喋る彼女が、今日は妙に静かだった。
眼鏡の奥の瞳は赤い。
泣いていたのだろう。
「ジン君……」
声が掠れている。
言葉を絞り出すだけで精一杯のようだった。
「帰ってきて……ください」
小さく震える声。
「約束……して」
ジンは静かに頷く。
風が吹く。
フィリスの紫髪がふわりと舞い、小さな翼が不安そうに揺れた。
門外では、補給班が慌ただしく輜重車を並べていた。
白い毛並みのミーナが、大きな荷箱を抱えながらこちらを見つける。
「ジンくーん!」
汗を拭きながら駆け寄ってきた。
以前より少し背が伸びている。
補給班として働き続けたことで、身体つきも随分しっかりしてきていた。
「お昼の豆粥、ちゃんと持った!?」
無理に明るくしているのが分かる声だった。
ジンは苦笑しながら、小ぶりな乾糧袋を見せる。
「もちろん」
「よしっ!」
ミーナが安心したように笑う。
その尻尾だけが、落ち着かないように揺れていた。
「じゃあ行ってきまーす!」
今度はアリアが荷車の上から大きく手を振る。
水色の毛並み。
背負った長弓。
以前より遥かに騎士らしくなった姿。
けれど弓籠手の紐を必要以上に強く締めているあたり、やはり緊張しているのだろう。
「一緒に行けるから安心だよ!」
そう笑うアリアの肩を、ルシャが無言で叩いた。
紅蓮の髪が朝風に揺れる。
黄玉色の瞳は相変わらず鋭い。
だがその奥には、以前よりずっと深い優しさがあった。
「出撃準備完了!」
ハインリヒの声が城壁へ響く。
重厚な鎧。
鍛え抜かれた肉体。
魔力循環術で強化された筋肉が、鎧の隙間から僅かに覗いていた。
騎士たちの空気が一気に張り詰める。
その中で、ハインリヒは最後にジンへ視線を向けた。
「ジン」
低く、穏やかな声だった。
「辛くなったら撤退信号を上げろ」
団長としてではなく、一人の大人としての声音。
「私は規則より命を優先する」
ジンは小さく頷く。
背中へ、皆の視線を感じる。
ベリアリア
セレナ。
フィリス。
ミーナ。
アリア。
ルシャ。
記憶は戻らない。
それでも今なら、“大切”という感情の意味だけは分かる気がした。
やがて西門が軋みを上げて開いていく。
冷たい早春の風が吹き抜けた。
ジンは前を向く。
振り返らない。
見送りの群衆の中に、親の姿はない。
故郷も知らない。
家族も思い出せない。
それでも。
今の自分には、帰りたい場所がある。
それだけで、前へ進む理由には十分だった。




