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欠けた少年の帰る場所  作者: 羽衣月
冒険者
159/197

野営での風呂

街を出てから一週間。


旅は順調だった。


馬車は街道を進む。


車輪が土を踏み締める音。


馬の鼻息。


時折聞こえる鳥の鳴き声。


それだけだった。


季節も少しずつ変わり始めている。


街を出た頃は。


まだ雪が残っていた。


街道脇にも。


森の中にも。


白い雪が見えていた。


だが。


今は違う。


雪はほとんど消えていた。


日差しも暖かい。


風はまだ少し冷たいが。


冬の終わりを感じさせるものだった。


街道脇には新芽が顔を出し始めている。


小さな花も見えるようになっていた。


御者台のグリムヴァルドは空を見上げる。


「春が近いな」


静かな呟きだった。


アリアも頷く。


「そうね」


猫耳が風に揺れる。


そして。


蒼い瞳が前方を見た。


景色が変わってきている。


木々が増えた。


一本二本ではない。


見渡す限り。


森だった。


街道は森の中へ続いている。


深い森。


古い森。


長い年月を生きた大樹が立ち並んでいる。


木漏れ日が地面へ落ちる。


昼間だというのに。


少し薄暗い。


「すごいですね……」


幌の隙間から外を見たザインが呟く。


辺境街近くの森とも。


温泉街近くの森とも違う。


もっと深い。


もっと古い。


そんな空気があった。


「南方へ近付いている証拠だ」


グリムヴァルドが言う。


「この辺りから森が増える」


「まだエルフ領ではないがな」


馬車は進む。


鳥が飛ぶ。


小動物が木々の間を走る。


時折。


見た事の無い鮮やかな花も咲いていた。


ミーナは興味津々だった。


「綺麗……」


フィリスは早速記録帳へ何かを書き始めている。


アリアは相変わらず周囲を警戒していた。


そして。


グリムヴァルドだけが少し懐かしそうに森を見ていた。


彼女にとっては。


故郷へ続く景色なのかもしれない。


馬車は揺れる。


木漏れ日が幌を照らす。


深い森の街道を。


五人を乗せた馬車は静かに進み続けていた。


その日の夜。


一行は街道から少し外れた場所で休息を取る事にした。


近くには小川が流れている。


透明な水。


月明かりを反射して静かに輝いていた。


森へ入ってからというもの。


水には困らなくなった。


グリムヴァルドも探知魔術で周囲の安全を確認している。


今日はここで休む事になった。


焚き火が灯る。


ミーナが簡単な夕食を作る。


フィリスは記録帳へ何かを書いている。


アリアは弓の手入れをしていた。


そして。


ザインは小川へ向かっていた。


冷たい水を両手で掬う。


ぱしゃり。


顔を洗う。


思わず身震いした。


「冷たい……」


春が近いとはいえ。


夜の水はまだ冷たい。


それでも身体の汚れは落とさなければならない。


布を濡らす。


首筋を拭く。


腕を拭く。


顔を拭く。


片腕になってからは少し不便だ。


それでも慣れてしまった。


小川の水面に月が映る。


その様子を見ながら。


ふと。


ザインは温泉街を思い出した。


暖かな湯。


立ち昇る湯気。


身体の芯まで温まる感覚。


あれは心地良かった。


失った左腕の痛みも。


左目の違和感も。


湯へ浸かっている間だけは少し忘れられた。


思い出すだけで。


少し惜しくなる。


「……温泉」


ぽつりと呟く。


恋しくないと言えば嘘になる。


だが。


今は旅の途中だ。


深い森の中。


小川はあっても。


湯船などあるはずもない。


桶も無い。


風呂も無い。


冷たい水で身体を拭く。


それが旅人の日常だった。


ザインは小さく息を吐く。


濡れた布を絞る。


そして。


夜空を見上げた。


木々の隙間から星が見える。


温泉街は遠い。


辺境街も遠い。


今はただ。


南方へ向かって進むだけだった。


「何してるの?」


不意に後ろから声がした。


振り返る。


アリアだった。


弓の手入れを終えたらしい。


ザインは少し考える。


そして正直に答えた。


「温泉を思い出していました」


一瞬。


沈黙。


次の瞬間。


アリアは吹き出した。


「ふふっ」


珍しく笑っている。


「まだ一週間よ?」


「そうなんですけど」


「早すぎるでしょ」


その通りだった。


だが。


あの温泉は本当に快適だったのだ。


アリアは笑いながら小川へ近付く。


冷たい水を指先で触る。


そして。


すぐ顔をしかめた。


「うわ、冷たっ」


「ですよね」


「温泉が恋しくなる気持ちはちょっと分かったわ」


そんな他愛もない会話をしながら。


二人は小川の流れる音を聞いていた。


森の夜は静かだった。


「温泉入りたい……」


ぽつり。


ザインが呟いた。


小川のほとり。


冷たい水で身体を拭き終えたばかりだった。


春が近いとはいえ。


夜の水は冷たい。


身体を洗えない訳ではない。


だが。


温泉街で過ごした日々を思い出してしまう。


あの暖かな湯。


肩まで浸かった時の安心感。


身体の芯まで温まる感覚。


思い出せば思い出すほど恋しくなった。


「せめて暖かい湯に浸かりたい……」


誰に聞かせるでもなく呟く。


そして。


周囲を見回した。


流れる小川。


冷たい水。


森。


木。


冷たい水。


冷たい水。


冷たい水。


「うーん……」


現実は厳しい。


そんな時だった。


ふと。


少し離れた場所に何かを見つける。


「あれ?」


近付く。


そこにあったのは。


大きな樽だった。


かなり大きい。


しかも。


上部が切り取られている。


半分桶のような形になっていた。


「……」


ザインは樽を見る。


樽もそこにある。


しばらく見つめる。


「……」


樽も何も言わない。


しばらく考える。


そして。


再び樽を見る。


「……これ」


良くない考えが浮かんだ。


非常に良くない。


温泉街でグリムヴァルドに呆れられそうな発想だった。


樽。


ある。


小川。


ある。


火。


起こせる。


「お湯……作れませんかね?」


真顔だった。


まず樽へ水を入れる。


その後。


火属性魔術。


あるいは熱した石。


温める。


すると。


簡易風呂になるのではないか。


理屈としては間違っていない。


問題は。


かなり面倒そうな事だった。


それでも。


ザインは樽を見つめる。


温泉に飢えた男の目だった。


「何してるの?」


背後から声がした。


振り返る。


アリアだった。


ザインは樽を指差す。


「風呂です」


「は?」


アリアは樽を見る。


ザインを見る。


また樽を見る。


そして。


ゆっくりと言った。


「それ樽よ」


「でも入れそうです」


「入れそうだけど」


「お湯に出来ませんかね」


アリアは数秒黙った。


そして。


空を見上げた。


「……グリムヴァルドさーん」


呼び方が完全に保護者へ助けを求めるそれだった。


「ザインがまた何か始めようとしてるー」


「何だ今度は」


遠くからグリムヴァルドの声が返ってきた。


ザインは真面目だった。


本気で。


樽風呂を作れないか考えていたのである。


「グリムヴァルドさん……」


ザインが少し遠慮がちに声を掛ける。


焚き火の傍で本を読んでいたグリムヴァルドが顔を上げた。


「何だ」


ザインは樽を指差す。


「ここに水を入れてから」


一拍。


「炎の魔術でお湯に出来ませんかね?」


沈黙。


アリアが吹き出す。


「まだ諦めてなかったの」


「温泉は無理でもお風呂なら……」


本人は真剣だった。


グリムヴァルドは立ち上がる。


そして樽へ近付いた。


「ほう」


興味を持ったらしい。


樽の周囲を一周する。


木材の状態。


鉄の補強。


底の厚み。


指で軽く叩く。


コンコン。


しばらく無言で観察する。


やがて。


グリムヴァルドの視線が止まった。


「ん?」


樽の外側だった。


下部。


地面に近い部分。


黒く汚れている。


しゃがみ込む。


指でなぞる。


黒い粉が付着した。


煤だった。


「なるほど」


グリムヴァルドが頷く。


ザインも覗き込む。


「何かありましたか?」


「これを見ろ」


指差した先には煤。


しかも下側だけに付着している。


上には無い。


不自然な汚れ方だった。


グリムヴァルドは小さく笑った。


「誰かが以前使ったらしい」


「使った?」


「風呂としてな」


ザインが目を見開く。


アリアも樽を見る。


グリムヴァルドは立ち上がる。


「樽の下で火を焚いた跡だ」


「水を入れる」


「下から熱する」


「簡易風呂の完成だ」


実に単純だった。


そして。


非常に合理的でもあった。


旅人か。


木こりか。


狩人か。


誰かが同じ事を考えたのだろう。


ザインの目が輝く。


「つまり」


「出来るな」


グリムヴァルドが即答する。


「やった」


思わず拳を握るザイン。


アリアは呆れた顔をする。


「そんなに嬉しい?」


「嬉しいです」


即答だった。


あまりにも即答だった。


ミーナがくすくす笑う。


フィリスも眼鏡の奥で少し笑っている。


グリムヴァルドは樽をもう一度見た。


そして。


少し考えた後。


「まあ」


「今日は時間もある」


静かな声だった。


「試してみるか」


その瞬間。


ザインの表情がぱっと明るくなった。


それを見たアリアは。


「子供みたい」


と小さく呟いたのだった。


結局。


やる事になった。


「本当にやるんですね……」


フィリスが少し呆れたように言う。


「本人があんな顔をしているからな」


グリムヴァルドが答える。


視線の先。


そこには期待に満ちた顔のザインがいた。


「ありがとうございます」


「まだ入れるとは言っていないぞ」


「入れますよね?」


「多分な」


グリムヴァルドも少し笑っていた。


まず。


樽を小川の近くまで運ぶ。


かなり大きい。


人一人が余裕で入れる大きさだった。


次に。


ザインが収納魔術を応用して水を汲む。


「おお」


ミーナが声を上げる。


空中へ浮かんだ水が樽へ流れ込んでいく。


ざばぁ。


ざばぁ。


何度も繰り返す。


やがて樽の七割ほどまで水が満たされた。


「成功です」


「それくらいなら最初から普通に出来るのね」


アリアが呟く。


「物を出す方が難しいんです」


ザインは真面目に答えた。


そして。


次はグリムヴァルドの番だった。


彼女は樽の縁へ手を置く。


静かに魔力を練る。


赤い光。


炎の魔力。


だが。


普段戦闘で使う炎とは違う。


圧縮。


さらに圧縮。


熱だけを閉じ込める。


やがて。


拳ほどの大きさの赤い光球が生まれた。


炎なのに燃え広がらない。


ただ熱だけを放っている。


「ほう……」


フィリスが感心する。


「そんな使い方も出来るんですね」


「炎そのものではなく熱を制御している」


グリムヴァルドはそう言って。


その光球を樽の中へ沈めた。


じゅわっ――


小さな音。


湯気が立ち昇る。


樽の水面が僅かに揺れる。


まるで巨大な鍋を温めているようだった。


ザインが樽を覗き込む。


「温まってますか?」


「まだだ」


「まだですか」


「まだだ」


しょんぼりする。


ミーナが笑う。


「焦り過ぎ」


それからしばらく。


五人は樽を囲んでいた。


湯気が増える。


少しずつ。


少しずつ。


冷たい水が温められていく。


やがて。


グリムヴァルドが指先を浸した。


温度を確かめる。


そして頷く。


「よし」


ザインが身を乗り出す。


「どうですか」


グリムヴァルドは湯気の立つ樽を見る。


そして。


少しだけ笑った。


「風呂だな」


その一言で。


ザインの顔が今日一番明るくなったのだった。


湯加減を確かめる。


熱すぎない。


ぬるくもない。


ちょうど良い。


「では」


誰に言うでもなく呟いて。


ザインは樽へ入った。


ちゃぷん。


肩まで浸かる。


その瞬間だった。


「はぁぁぁぁぁ……」


大きな息が漏れる。


全身から力が抜けた。


暖かい。


ただ暖かい。


それだけなのに。


身体が喜んでいた。


肩の傷。


歩き続けた足。


冷えた身体。


全てが少しずつ解けていく。


湯気が立ち昇る。


森の夜はまだ冷たい。


だが。


湯の中だけは別世界だった。


「生き返る……」


ぽつりと呟く。


本気だった。


一週間。


たった一週間。


されど一週間。


その間ずっと冷たい水で身体を拭いていた。


だからこそ。


湯船のありがたみが身に染みる。


「そんなに違う?」


アリアが呆れたように言う。


ザインは即答した。


「違います」


「即答ね」


「全然違います」


即答だった。


ミーナが笑う。


フィリスも眼鏡を押し上げながら湯気を眺めていた。


グリムヴァルドは焚き火の傍に座っている。


その表情は少し満足そうだった。


湯気の向こう。


ザインは目を閉じる。


温泉街を思い出す。


暖かな湯。


静かな時間。


あの頃を。


だが。


今の湯も悪くない。


樽風呂。


森の中。


仲間達の声。


それもまた旅の思い出になるだろう。


「……ふぅ」


再び息を吐く。


身体の芯まで温まっていく。


思わず。


もう出たくなくなっていた。


「ザイン」


グリムヴァルドが声を掛ける。


「何ですか?」


「茹で上がる前には出て来い」


「はい」


返事はした。


だが。


その返事に説得力は無かった。


本人は既に。


あとどれくらい入ろうか真剣に考えていたからだった。


結局。


全員が順番に樽風呂へ入った。


最初はザイン。


その後はミーナ。


フィリス。


アリア。


そして最後にグリムヴァルド。


一人ずつ。


湯を入れ替えるほどの余裕は無い。


だが。


旅の途中で湯船に浸かれるだけでも十分だった。


ミーナは湯から上がると幸せそうな顔をしていた。


「生き返ったぁ……」


普段より少しだらしない声だった。


フィリスも眼鏡を外していた。


「これは確かに良いですね」


珍しく素直に認めている。


アリアに至っては。


最初は興味無さそうだった。


だが。


実際に入ると。


なかなか出てこなかった。


「アリア」


グリムヴァルドが声を掛ける。


「まだ入るのか?」


「あと少し」


即答だった。


ザインは少しだけ笑った。


最後にグリムヴァルドが入る頃には。


樽の湯もかなり冷めていた。


それでも。


彼女は特に気にしない。


静かに湯へ浸かる。


森の音を聞きながら。


しばらく目を閉じていた。


やがて。


全員が風呂を終える。


樽の湯は小川へ流した。


焚き火も小さくなっている。


見上げれば。


空は完全に夜だった。


木々の隙間から星が見える。


深い森。


静かな夜。


昼間に聞こえていた鳥の声も無い。


代わりに。


虫の音と小川のせせらぎだけが聞こえていた。


五人は焚き火の周りへ戻る。


身体は温まっている。


湯気の名残もある。


冷たい夜風すら心地良く感じた。


「まさか森の中で風呂に入れるとはな」


グリムヴァルドが呟く。


「ザインのおかげですね」


フィリスが言う。


「樽を見つけたのはザインですし」


ザインは少し照れ臭そうに頭を掻いた。


「温泉に入りたかっただけなんですけどね」


その言葉に。


アリアが小さく笑う。


「その割には良い発見だったじゃない」


焚き火がぱちりと音を立てる。


暖かな時間だった。


旅の途中。


何気ない夜。


けれど。


きっと後になれば思い出す。


そんな夜だった。


森の奥で風が吹く。


小川が流れる。


そして五人は。


久しぶりに身体の疲れを癒したまま。


静かな夜を過ごしていた。

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