グリムヴァルドが
それから数日後。
温泉街には穏やかな時間が流れていた。
ジンの傷もほとんど塞がっている。
左目は失われたまま。
義手もまだ構築出来ない。
だが。
少なくとも歩けるようにはなった。
宿の一室。
そこにはいつもの顔ぶれが集まっていた。
リザリア。
フィリス。
ミーナ。
アリア。
そして金級パーティ。
レヴィアナ。
ヴァレル。
シオン。
ルドヴィカ。
最近では半ば溜まり場になっていた。
その時だった。
コンコン。
扉が叩かれる。
誰かが来たらしい。
「どうぞ」
フィリスが答える。
扉が開く。
そして。
部屋にいた全員が思わずそちらを見た。
背の高い女性。
褐色の肌。
長い耳。
深い色の髪。
静かな威圧感。
長身の南方エルフ。
グリムヴァルドだった。
部屋の空気が僅かに変わる。
リザリアが眉を上げる。
レヴィアナも視線を向ける。
シオンは眼鏡を押し上げた。
グリムヴァルドはそんな反応を気にする事なく部屋へ入ってくる。
そして。
低く落ち着いた声で言った。
「ザイン」
全員の視線がジンへ向く。
グリムヴァルドは続ける。
「邪魔するぞ」
その声は相変わらず落ち着いていた。
だが。
次の瞬間。
彼女は言葉を失う。
視線が止まる。
ベッドの上。
白髪の少年。
そして。
左目の包帯。
グリムヴァルドは動かない。
数秒。
いや。
もっと長く感じた。
部屋も静まり返る。
彼女が何を見ているのか。
誰にでも分かったからだ。
やがて。
グリムヴァルドはゆっくりと近付く。
足音だけが響く。
ジンの前で立ち止まる。
見下ろす。
失われた左目。
白髪。
残った右目。
そして。
生きている事。
全てを確認するように。
しばらくして。
ようやく口を開いた。
「……聞いていた以上だな」
静かな声だった。
怒りでもない。
驚愕でもない。
ただ。
深く抑え込まれた感情がそこにあった。
ジンは少し困ったように笑う。
「ご心配をお掛けしました」
その言葉に。
グリムヴァルドの眉がぴくりと動く。
そして。
深くため息を吐いた。
「馬鹿者」
短い一言。
だが。
その言葉には安堵が滲んでいた。
本当に死んでいたら。
もう二度と会えなかったのだから。
グリムヴァルドは近くの椅子へ腰を下ろす。
そして。
改めてジンを見る。
まるで失われた時間を埋めるように。
じっと。
静かに。
その様子を見ていたアリア達は気付く。
この褐色のエルフもまた。
ジンの無事を確認しに来たのだと。
グリムヴァルドは椅子へ腰掛けたまま。
しばらくジンを見ていた。
誰も口を開かない。
そんな中。
彼女は突然言った。
「さて」
静かな声。
だが有無を言わせない響きがある。
「ザイン」
ジンが顔を上げる。
「出掛ける支度をしろ」
沈黙。
部屋全体が固まった。
最初に反応したのはジンだった。
「……はい?」
珍しく間の抜けた声だった。
ヴァレルも目を瞬かせる。
リザリアも眉を上げる。
アリアに至っては完全に固まっていた。
グリムヴァルドは続ける。
「聞こえなかったか?」
「いや、聞こえましたけど……」
ジンが困惑する。
「何処へですか?」
その問いに。
グリムヴァルドは即答した。
「私の故郷だ」
部屋が静まり返る。
誰も言葉を発しない。
グリムヴァルドは腕を組む。
そして。
全員を見回した。
「ここにいては駄目だ」
その一言で。
空気が変わる。
先程までの穏やかな空気が消える。
シオンが眼鏡を押し上げる。
「理由を伺っても?」
グリムヴァルドは頷く。
「簡単な話だ」
そして。
静かに言った。
「この街には既に二度潜入されている」
誰も反論出来ない。
事実だった。
暗部。
医務官。
受付嬢。
温泉街は既に破られている。
「ギルドにも潜伏されていた」
「長年だ」
「それほどの相手が一度失敗した程度で諦めると思うか?」
沈黙。
誰も答えない。
答えは分かっている。
あり得ない。
「次はもっと確実に来る」
グリムヴァルドの声は冷静だった。
感情ではなく経験から語っている。
「今度は運良く助かる保証も無い」
アリアの顔が強張る。
フィリスも黙り込む。
ミーナも不安そうな顔になる。
グリムヴァルドは続けた。
「私の故郷は南方エルフの集落だ」
「外部の者は簡単には入れん」
「土地勘も無い」
「監視も厳しい」
レヴィアナが興味深そうに聞いている。
グリムヴァルドはさらに言う。
「少なくとも」
その視線がジンへ向く。
「今の状態の貴様を置いておく場所ではない」
ジンは何も言えない。
左目。
義手喪失。
狙われる理由も不明。
確かに反論は難しかった。
そして。
グリムヴァルドは最後に言う。
「だから帰るぞ」
まるで決定事項のような口調だった。
ヴァレルが思わず笑う。
「おいおい」
「本人の意思は聞かないのか?」
グリムヴァルドは即答した。
「聞いている」
「今聞いた」
「返事はまだですけど」
シオンが静かに突っ込む。
部屋に少しだけ笑いが生まれる。
だが。
グリムヴァルドの表情は真剣だった。
彼女は本気で言っている。
それは誰の目にも明らかだった。
やがて。
グリムヴァルドはジンを見る。
保護者のような目で。
「ザイン」
静かな声。
「貴様は少し休め」
「戦う事も」
「追われる事も」
「全部だ」
部屋が静まる。
そして。
皆の視線がジンへ集まった。
その提案を。
ジンがどう受け止めるのか。
誰もが待っていた。
「えっと……その……」
ジンは困ったように周囲を見回した。
リザリア。
フィリス。
ミーナ。
アリア。
そして金級パーティ。
誰か助けて欲しい。
そんな視線だった。
だが。
誰よりも早く動いたのはグリムヴァルドだった。
「立て」
「え?」
「出掛ける支度だ」
「え?」
ジンが二度聞き返した頃には。
グリムヴァルドは既に部屋の荷物へ手を伸ばしていた。
替えの服。
薬。
生活用品。
必要そうな物を次々と纏め始める。
その様子に。
アリアとミーナは顔を見合わせた。
誰だろう。
そんな顔だった。
一方。
フィリスだけは小さく息を吐く。
以前会った事がある。
南方エルフの集落の長。
そして。
ザインを気に掛けていた人物。
だからこそ。
今の行動にも納得していた。
「グリムヴァルドさん……?」
ジンが声を掛ける。
だが。
返ってきたのは短い言葉だった。
「だめなんだ」
荷物を纏める手は止まらない。
「ここにいてはだめなんだ」
部屋が静まる。
その声には焦りがあった。
そして。
珍しく感情も。
その時だった。
レヴィアナが立ち上がる。
「ちょっと待ちなさいよ!」
部屋の空気が揺れる。
「ザインは怪我人よ!」
グリムヴァルドは振り返らない。
レヴィアナは続ける。
「まだ様子を見るべきだわ!」
「それに私達だって――」
そこで。
言葉が止まった。
グリムヴァルドが振り返ったからだ。
褐色の瞳。
普段は落ち着いているその瞳が。
今は強い感情を宿していた。
「だめなのだ」
低い声。
重い声。
「お前達は金級パーティだろう」
レヴィアナも黙る。
グリムヴァルドは続ける。
「そのお前達がいたとて」
その視線が一人一人へ向く。
レヴィアナ。
ヴァレル。
シオン。
ルドヴィカ。
そしてリザリア。
「どうだった?」
誰も答えない。
「ザインは安全だったのか?」
沈黙。
誰も反論出来ない。
「お前達がいた」
「リザリアもいた」
「それでも」
その視線がジンへ向く。
左目の包帯。
失われた場所。
「この有様だ」
部屋が静まり返る。
レヴィアナが唇を噛む。
事実だからだ。
誰も見抜けなかった。
受付嬢も。
医務官も。
そして。
ジンは左目を失った。
それが結果だった。
グリムヴァルドは深く息を吐く。
「次は無い」
静かな声だった。
だが。
その場の誰よりも重かった。
「左腕を失った」
「左目も失った」
「次は何だ?」
誰も答えない。
答えられない。
アリアは思わずジンを見る。
ミーナも同じだった。
二人ともグリムヴァルドの事は知らない。
だが。
この女性が本気でジンを心配している事だけは分かった。
グリムヴァルドは再びジンへ近付く。
そして。
有無を言わせぬように肩へ手を置いた。
「行くぞ」
ジンは困ったように笑う。
フィリスを見る。
フィリスはしばらく黙っていた。
やがて。
小さく頷く。
グリムヴァルドが本気である事を知っていたからだ。
そして。
グリムヴァルドは静かに言った。
「今度こそ」
声が少しだけ震える。
珍しく。
本当に珍しく。
感情が滲む。
「守らせろ」
部屋は静まり返る。
その言葉に込められた重さを。
誰もが感じていた。
「行くぞ」
グリムヴァルドがそう言った時だった。
コンコン。
扉が叩かれる。
そして。
返事を待たずに扉が開いた。
「何か騒がしいですねぇ――」
ベリアリアだった。
いつもの柔らかな笑顔。
だが。
部屋の空気を感じ取った瞬間。
その表情が変わる。
視線が向く。
グリムヴァルド。
ジン。
荷物。
そして。
困惑している全員。
ベリアリアは状況を察した。
「……ジン君を連れて行くんですか?」
静かな声だった。
グリムヴァルドは頷く。
「そうだ」
短い返答。
ベリアリアはジンを見る。
そして。
ゆっくり首を振った。
「連れて行かせません」
部屋が静まる。
ベリアリアは前へ出る。
大きな身体がグリムヴァルドと向き合う。
「ジンは私達で守ります」
穏やかな声だった。
だが。
一歩も引く気は無い。
「これからは大丈夫です」
「もう二度と同じ事は――」
「違う」
低い声。
グリムヴァルドだった。
ベリアリアが言葉を止める。
グリムヴァルドはベリアリアを見る。
大きな牛獣人の女性。
優しい目。
守ろうとしている目。
その姿を見て。
理解した。
この人もまた。
ザインを大切に思っている。
家族なのだと。
だからこそ。
苦しそうに目を閉じる。
「そうか」
小さく呟く。
「お前も……ザインの家族なのだな」
ベリアリアは何も言わない。
だが否定もしなかった。
グリムヴァルドは唇を噛む。
拳が震えている。
そして。
再び顔を上げた。
「それでも」
声が震える。
「だめだ」
誰も動かない。
グリムヴァルドは続ける。
「だめなんだ……」
苦しそうな声。
今まで見た事もない姿だった。
「本当に……」
肩が震える。
「本当にだめなんだ!」
部屋に響く声。
誰もが目を見開く。
普段のグリムヴァルドなら。
こんな声は出さない。
感情を爆発させたりしない。
なのに。
今は違った。
「左腕を失った!」
震える声。
「左目も失った!」
褐色のエルフの瞳から涙が溢れる。
「次は何だ!?」
誰も答えられない。
グリムヴァルドは叫ぶ。
「次は命か!?」
沈黙。
重い沈黙。
そして。
とうとう。
グリムヴァルドは崩れ落ちるように膝をついた。
ぽたり。
涙が床へ落ちる。
「頼む……」
小さな声。
先程までの強さが無い。
ただ。
一人の女性の声だった。
「頼む……」
肩が震える。
「もう……」
声が掠れる。
「こいつを……」
視線がジンへ向く。
白髪の少年。
失われた左腕。
失われた左目。
それでも困ったように笑っている少年。
グリムヴァルドは泣いていた。
子供のように。
堪えきれずに。
「もう……こいつを失わせないでくれ……」
誰も喋れない。
「頼む……」
震える声。
「頼むから……」
部屋は静まり返る。
ベリアリアも。
レヴィアナも。
リザリアも。
誰も言葉を発せない。
その場にいた全員が。
ようやく理解した。
グリムヴァルドは怒っていたのではない。
怖かったのだ。
失う事が。
この少年が本当にいなくなってしまう事が。
だから。
必死だった。
必死に連れて行こうとしていた。
その姿を見て。
ジンは何も言えなくなる。
胸の奥が少しだけ痛んだ。
自分でも知らないうちに。
こんなにも心配を掛けていたのだと。
初めて気付いたように。
グリムヴァルドは膝をついたままだった。
涙が止まらない。
普段の彼女を知る者なら誰も信じられない姿だった。
南方エルフの長。
落ち着き払い。
誰よりも冷静で。
誰よりも頼れる女性。
その彼女が今。
一人の少年へ縋っていた。
「私にとっても……」
震える声。
「こいつは大事な家族なんだ……」
部屋は静まり返る。
誰も口を挟まない。
グリムヴァルドは涙を拭おうともせず続ける。
「頼む……」
声が掠れる。
「頼むから連れて行かせてくれ……」
ジンを見上げる。
まるで子供を失いかけた親のような目だった。
「治療だって施せる」
震える手が握られる。
「南方には西方に無い術もある」
「薬もある」
「精霊術もある」
「目だって……」
そこで言葉が詰まる。
失われた左目を見る。
包帯の下。
二度と戻らないかもしれない場所。
グリムヴァルドは唇を噛んだ。
「故郷なら……」
小さな声。
「治せるかもしれない……」
誰も何も言わない。
可能性は分からない。
本当に治せるかも分からない。
だが。
グリムヴァルドは本気だった。
藁にも縋る思いだった。
「だから……」
彼女はとうとうジンの手を握った。
強く。
震えながら。
「頼む……」
その姿を見て。
ベリアリアも何も言えなくなる。
リザリアも黙る。
レヴィアナも視線を伏せる。
誰もが知っていた。
これは所有権の話ではない。
誰が面倒を見るかの話でもない。
誰もが同じだった。
皆。
ジンを失いたくないだけなのだ。
グリムヴァルドは泣いていた。
本当に。
ただそれだけだった。
「頼む……ザイン……」
縋るような声。
「今度こそ守らせてくれ……」
ジンは黙っていた。
部屋の全員を見る。
アリア。
ミーナ。
フィリス。
ベリアリア。
リザリア。
レヴィアナ。
ヴァレル。
シオン。
ルドヴィカ。
そして。
目の前で泣いているグリムヴァルド。
全員が。
同じ目をしていた。
失いたくない。
その目だった。
ジンはしばらく何も言わなかった。
やがて。
困ったように小さく笑う。
昔から変わらない。
優しい笑み。
そして。
震えるグリムヴァルドの手を。
そっと握り返した。
「グリムヴァルドさん」
静かな声。
部屋中が息を呑む。
「泣かないでください」
その言葉に。
グリムヴァルドの肩が震える。
ジンは少しだけ困ったように笑った。
「そんな顔されたら……」
視線を逸らす。
本当に困っているように。
「断れないじゃないですか」




