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欠けた少年の帰る場所  作者: 羽衣月
冒険者
147/197

アリアと

夜。


宿の部屋。


窓の外では雪が静かに降っていた。


ジンはベッドの上で本を閉じる。


左目を失ってから読書も少し疲れやすくなった。


肩を回し。


小さく息を吐く。


「……」


そして。


ふと思う。


温泉街へ来てから色々あった。


襲撃。


負傷。


療養。


まともに湯船へ浸かれていない。


「アリア」


ジンが声を掛ける。


部屋の椅子に座っていたアリアが顔を上げた。


「なに?」


「その……」


ジンは少し言いづらそうに頭を掻く。


「久しぶりにお風呂に入りたいのですが」


アリアの耳がぴくりと動く。


数秒後。


立ち上がった。


「分かった」


即答だった。


そして当然のようにジンへ近付いてくる。


「え?」


次の瞬間。


アリアはジンの上着へ手を伸ばしていた。


「ちょ、ちょっと」


ジンが慌てる。


アリアは止まらない。


昔と同じだった。


怪我をした時。


熱を出した時。


戦場から戻った時。


いつもこうだった。


「アリア?」


「動かないで」


真剣な顔。


ジンは困惑する。


「あの……」


アリアは服の留め具へ手を掛ける。


「アリア?」


「なに」


「僕……子供ではないのですが」


沈黙。


アリアは数秒止まった。


そして。


じっとジンを見る。


「知ってる」


「なら――」


「知ってるけど」


アリアは即答した。


「今のジン、一人で転んでもおかしくないじゃない」


ジンが言葉に詰まる。


左目。


左肩。


左脚。


確かにまだ万全ではない。


だが。


「そこまででは……」


「ある」


即答。


迷いがない。


部屋の隅ではフィリスが眼鏡を押し上げていた。


ミーナも小さく頷いている。


どうやら味方はいないらしい。


ジンは天井を見上げた。


「フィリスさん」


「私も賛成です」


「ミーナ」


「私もです」


即答だった。


ジンは項垂れる。


アリアはそんな様子を見ながら。


少しだけ昔を思い出していた。


雪の日。


小さな黒髪の少年。


怪我だらけで帰ってきた少年。


一人で何でもやろうとしていた少年。


そして今。


白髪になったその少年は。


また傷だらけになっている。


だから。


アリアは譲らなかった。


「駄目」


静かな声。


だが断固としている。


「今のジンは一人で湯船に入れない」


ジンは苦笑する。


反論しようとして。


やめた。


アリアの顔を見れば分かる。


絶対に譲らない。


それどころか。


昨夜からまともに眠ってすらいない顔だった。


「……分かりました」


観念したように言う。


すると。


アリアは少しだけ安心したような顔を見せた。


その表情を見て。


ジンは何も言えなくなる。


過保護だと思う。


思うのだが。


それ以上に。


心配を掛けてしまった事だけは理解していた。


「一応……」


ジンは少し困ったように笑った。


「蔦の魔術で身体を支えながらなら、お風呂には入れると思うのですが」


アリアは無言だった。


ジンは続ける。


「歩く事も出来ますし」


「転ぶ事も――」


「ある」


即答だった。


ジンが口を閉じる。


アリアは腕を組んでいる。


その表情は真剣そのものだった。


「でも」


「ある」


「まだ言ってません」


「言わなくても分かる」


ジンは困ったように笑う。


フィリスが眼鏡を押し上げる。


ミーナは少しだけ苦笑していた。


アリアはジンを見る。


残った右目。


失われた左目。


失われた左腕。


そして。


数日前まで死にかけていた身体。


その全てが目に入る。


だから。


譲れなかった。


「ジン」


静かな声だった。


「私ね」


少し言葉を探す。


「二回、あなたを失ったと思ったの」


部屋が静かになる。


ジンも黙る。


アリアは続けた。


「崖の時」


「そして今回」


震える声。


「二回とも」


「本当にもう会えないと思った」


ジンは視線を落とす。


アリアは小さく息を吐く。


「だから」


そこで言葉を切った。


そして。


少しだけ困ったように笑う。


「今の私はまともじゃないの」


正直な言葉だった。


「過保護なのも分かってる」


「心配し過ぎなのも分かってる」


「でも」


金色の瞳が真っ直ぐジンを見る。


「一人にはしたくない」


部屋が静まり返る。


ジンは返事が出来なかった。


アリアの顔を見れば分かる。


理屈ではない。


これは理屈じゃない。


恐怖なのだ。


失う事への。


もう届かなくなる事への。


だから。


蔦の魔術で支えられるとか。


歩けるとか。


そんな話ではなかった。


アリアは小さく言った。


「せめて治るまでは」


「私が一緒にいる」


それは確認でも提案でもない。


決意だった。


ジンはしばらく黙っていたが。


やがて。


小さく苦笑した。


「……分かりました」


観念したように答える。


その返事を聞いて。


アリアはようやく少しだけ安心した顔を見せた。


その顔を見て。


ジンはそれ以上何も言わなかった。


言えなかった。


彼女がどれだけ怖い思いをしたのか。


それだけは。


十分過ぎるほど伝わっていたからだった。


夜。


宿の浴場。


温泉の湯気が静かに立ち昇っていた。


ジンはゆっくりと湯船へ身体を沈める。


久しぶりだった。


温かな湯。


冷えた身体が少しずつ解けていく。


思わず息が漏れる。


「……気持ちいいですね」


小さく呟く。


その隣にはアリアがいた。


当然のように。


何も言わず。


同じ湯船へ浸かっている。


ジンも今さら何も言わなかった。


昔からそうだった。


戦場から帰った日。


怪我をした日。


熱を出した日。


気付けばアリアやベリアリアが傍にいた。


だから。


どこか懐かしかった。


家族みたいだった。


静かな時間が流れる。


アリアはジンを見る。


白い髪。


失われた左腕。


そして。


身体に残る無数の傷。


ゆっくりと手を伸ばす。


肩。


銃創。


まだ新しい傷跡。


アリアの指先が震える。


そこをなぞる。


優しく。


壊れ物に触れるように。


そして。


胸元。


さらに古い傷。


雷撃が貫いた跡。


崖の日。


自分が撃った傷。


忘れられるはずがない。


アリアは静かに指を這わせる。


一つ。


また一つ。


傷跡を辿る。


ジンは何も言わない。


ただ静かに湯へ浸かっている。


アリアの手が震えている事にも気付いていた。


だから何も言わなかった。


やがて。


ぽたり。


小さな音。


涙だった。


湯面へ落ちる。


波紋が広がる。


アリアは俯いていた。


肩が震えている。


声は出さない。


ただ。


静かに泣いていた。


ジンの身体へ残る傷。


その多くを知っている。


その多くに自分が関わっている。


そして。


最後に。


左肩の付け根へ触れる。


そこには何も無い。


失われた左腕。


アリアの呼吸が乱れる。


涙が止まらない。


「……ごめんね」


掠れた声。


消えそうな声。


「ごめんね……ジン」


何度目かも分からない謝罪だった。


それでも。


言わずにはいられない。


ジンはしばらく黙っていた。


湯気が二人の間を流れる。


そして。


静かに口を開いた。


「アリア」


アリアが顔を上げる。


涙で濡れた瞳。


ジンは少しだけ困ったように笑った。


昔と変わらない。


優しい笑顔。


「のぼせますよ」


アリアは一瞬ぽかんとする。


そして。


思わず泣き笑いのような顔になった。


本当に。


変わらない。


傷だらけになっても。


欠けてしまっても。


この人は変わらない。


だから余計に。


アリアは涙を拭いながら。


ジンの肩へ額をそっと預けた。


温泉の湯気の中。


二人はしばらく何も言わず。


ただ静かに湯船へ浸かっていた。


湯気が静かに揺れている。


温かな湯。


静かな夜。


アリアはジンの肩へ額を預けたままだった。


だが。


その肩は小さく震えている。


涙は止まっていない。


しばらく沈黙が続く。


やがて。


アリアが小さく口を開いた。


「ねぇ……」


震える声。


ジンは静かに顔を向ける。


アリアは俯いていた。


湯面を見つめている。


まるで顔を見られたくないように。


「本当に……」


言葉が詰まる。


喉が震える。


「もう……怒ってないの?」


ぽたり。


涙が湯へ落ちる。


アリアは続ける。


「私……」


声が掠れる。


「崖で撃ったのよ……?」


「連れ戻したいなんて言い訳して」


「脚を撃った……」


呼吸が乱れる。


「今回だって……」


震える指がジンの肩の傷へ触れる。


「また撃った……」


「また傷付けた……」


「また死なせかけた……」


涙が止まらない。


何度も謝った。


それでも足りない。


許されるとも思っていない。


だから。


聞かずにはいられなかった。


「本当に……?」


小さな声。


子供のような声だった。


「怒ってないの……?」


ジンはしばらく黙っていた。


温泉の湯気が二人の間を流れる。


そして。


静かに答える。


「何も」


優しい声だった。


「最初から怒ってなんかいないですよ」


アリアの肩が震える。


ジンは続けた。


「崖の時も」


「今回も」


「怒ってないです」


アリアは顔を上げる。


涙でぐしゃぐしゃになった顔。


ジンは少しだけ笑った。


昔と変わらない。


困ったような笑顔。


「だって」


小さく息を吐く。


「アリアですから」


その言葉に。


アリアの瞳が揺れる。


ジンは湯面を見る。


静かに。


穏やかに。


「崖の時も」


「本当は撃ちたくなかったんでしょう?」


アリアは何も言えない。


図星だった。


「今回も」


「暗部だと思ったから撃った」


「僕だと分かった後は」


少しだけ笑う。


「泣きながら止血してましたし」


アリアは顔を覆う。


その通りだった。


何も言い返せない。


ジンは続ける。


「だから」


静かな声。


「怒る理由が無いんです」


沈黙。


アリアの涙がまた落ちる。


ぽたり。


ぽたり。


止まらない。


ジンは空いている右手をゆっくり動かす。


そして。


昔と同じように。


そっとアリアの頭へ置いた。


「むしろ」


小さく笑う。


「また会えて良かったです」


アリアは耐えられなかった。


声を押し殺しながら泣く。


肩が震える。


まるで迷子の子供のように。


ジンは何も言わない。


ただ。


昔と同じように頭を撫でていた。


それだけで十分だった。


少なくとも今夜だけは。


二人とも。


家族だった頃のままでいられた。

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