静かな温泉街
情報共有は一段落していた。
これ以上は今すぐ答えの出る話ではない。
逃げた医務官。
受付嬢。
暗部。
女王。
魔導砲。
全てが繋がっている。
だが。
今優先すべき事は別だった。
ジンを休ませる事。
それだった。
フィリスが立ち上がる。
「……ジン君を宿へ連れて帰りましょう」
静かな声。
だが迷いは無い。
エルカも頷く。
「その方が良いですね」
ギルド内で襲撃が起きた。
しかも医務官と受付嬢が裏切っていた。
今となっては。
この建物が安全とは言えない。
レヴィアナも反対しなかった。
リザリアも同じだった。
ジンは少しだけ困ったように笑う。
「ご迷惑を……」
「黙っててください」
フィリスが即座に遮る。
珍しく強い口調だった。
ジンは口を閉じる。
少しだけ肩を竦めた。
その様子を見て。
アリアが立ち上がる。
「私が運ぶ」
即答だった。
迷いも無い。
昨夜から一度も離れていない。
当然のようにベッドへ近付く。
そして。
ジンを抱き上げようとした。
その瞬間。
ひょい。
「……え?」
アリアが固まる。
ジンも目を瞬かせる。
既に。
ルドヴィカがジンを持ち上げていた。
大柄な白熊獣人の女性。
まるで何でもない事のように。
軽々と。
ジンを抱えている。
「……」
無言。
何も言わない。
いつも通りだった。
アリアが固まる。
ルドヴィカを見る。
ルドヴィカも見返す。
数秒。
沈黙。
そして。
ルドヴィカは小さく頷いた。
まるで。
分かっている。
と言うように。
今のジンは重傷だ。
移動も慎重にしなければならない。
そして。
感情的になっているアリアより。
自分の方が適任だ。
そう言いたげだった。
アリアは口を開きかける。
だが。
何も言えなかった。
反論出来ない。
ルドヴィカの腕の中で。
ジンは少しだけ苦笑した。
「ルドヴィカさん……」
ルドヴィカは何も答えない。
ただ。
落とさないように抱え直した。
それだけだった。
リザリアが小さく鼻で笑う。
ヴァレルも苦笑する。
シオンは眼鏡を押し上げた。
そして。
一行は医務室を後にする。
廊下を歩く。
朝日が差し込むギルド。
昨日までと変わらないはずの景色。
だが。
もう誰も昨日と同じではなかった。
そして。
彼らは宿へ帰っていった。
今はただ。
傷付いた少年を休ませるために。
宿。
ジンの部屋。
ベッドへ寝かされたジンは静かに横になっていた。
左目には包帯。
顔色も悪い。
だが意識はある。
部屋にはリザリア。
フィリス。
アリア。
ミーナ。
そして金級パーティの面々が集まっていた。
そんな中。
コンコン。
控えめなノックが響く。
「失礼しますねぇ」
柔らかな声。
扉が開く。
入ってきたのはベリアリアだった。
大きな盆を抱えている。
湯気の立つお茶。
人数分。
部屋に人が集まっている事を察して持ってきたのだろう。
だが。
部屋へ入った瞬間。
ベリアリアの足が止まる。
「……え?」
視線がジンへ向く。
そして。
固まった。
左目。
包帯。
青白い顔。
ベッドに横たわる姿。
昨日までの姿とはあまりにも違う。
「ジン君……?」
困惑した声。
何が起きたのか理解出来ない。
そして。
部屋の中を見回す。
アリア。
ミーナ。
ベリアリアの瞳が大きく見開かれる。
「アリアちゃん……?」
「ミーナちゃん……?」
何故ここにいるのか。
どうして集まっているのか。
何が起きたのか。
何も分からない。
部屋は静まり返る。
誰もすぐには説明出来ない。
あまりにも情報量が多過ぎる。
その時。
ベッドの上のジンが少しだけ笑った。
弱々しい。
それでも昔と変わらない笑顔。
「ベリアリアさん」
掠れた声。
ベリアリアの視線が戻る。
ジンは静かに言った。
「ただいまです」
その言葉を聞いた瞬間。
ベリアリアの表情が揺れる。
何が起きたのか分からない。
けれど。
ジンが帰ってきた時の言葉だけは覚えていた。
戦場から帰ってきた時。
遠征から帰ってきた時。
いつも言っていた言葉。
だから。
反射的に返していた。
「……おかえりなさい」
優しい声。
だが。
その瞳は包帯へ釘付けだった。
ベリアリアは盆を机へ置く。
そして急いでベッドへ近付く。
ジンの顔を見る。
包帯を見る。
傷を見る。
呼吸が浅くなる。
「ジン君……」
震える声。
「何があったんですか……?」
そっと頭へ手を置く。
確認するように。
確かめるように。
そこにいる事を。
生きている事を。
そして。
部屋の全員を見回した。
「誰か……説明してください」
困惑と不安が滲む声だった。
「一体何があったんですか……?」
部屋の空気が重くなる。
誰から説明するべきか。
全員が言葉を失っていた。
説明が終わる。
部屋は静まり返っていた。
誰も口を開かない。
ベリアリアは椅子へ腰掛けたまま俯いている。
大きな手は膝の上で組まれていた。
その表情は見えない。
長い沈黙。
ジンも何も言わない。
アリアも。
ミーナも。
フィリスも。
皆、ベリアリアの反応を待っていた。
やがて。
ベリアリアは小さく息を吐く。
「……そう」
それだけだった。
怒りも。
叫びも。
無い。
ただ。
酷く疲れた声だった。
ベリアリアはゆっくり顔を上げる。
視線はジンへ向く。
左腕。
左目。
白髪。
失われたもの。
増えてしまった傷。
全てを見つめる。
そして。
静かに言った。
「ここも安全じゃないのかもしれませんね」
部屋が静まる。
ベリアリアは窓の外を見る。
温泉街。
雪景色。
平和な街。
そう思っていた。
だから自分達はここへ来た。
だからジンも少しずつ笑うようになった。
なのに。
ギルドには裏切り者がいた。
長年潜伏していた人間達がいた。
そして。
ジンは再び狙われた。
ベリアリアは小さく笑う。
悲しそうな笑みだった。
「やっと安心できる場所を見つけたと思ったんですけどね」
誰も返事が出来ない。
リザリアも黙っている。
レヴィアナも腕を組んだままだ。
ベリアリアはジンを見る。
そして。
そっと頬へ手を添えた。
「ジン君」
優しい声。
母親のような声。
「少しだけ予定を変えましょう」
ジンが首を傾げる。
ベリアリアは微笑んだ。
「今度は私達が守ります」
静かな言葉だった。
だが。
そこには決意があった。
聖騎士団の時とは違う。
戦争の時とも違う。
今度は。
誰かの命令ではない。
誰かの都合でもない。
自分達の意思だ。
ベリアリアはそう決めていた。
そして。
その言葉に。
リザリアが静かに頷く。
レヴィアナも。
ルドヴィカも。
ヴァレルも。
シオンも。
誰も異論を挟まなかった。
この部屋にいる全員が。
同じ事を考えていたからだった。
それから。
数日が過ぎた。
温泉街には再び雪が降っていた。
帝国兵の警備は明らかに増えている。
門には常時兵士が立ち。
夜間の巡回も強化された。
ギルド周辺にも警備兵の姿が見られる。
だが。
それだけだった。
新たな襲撃は無い。
暗部の目撃情報も無い。
受付嬢も。
老医務官も。
姿を現さない。
まるで最初から存在しなかったかのように。
平和だった。
少なくとも表面上は。
ジンは宿で療養を続けていた。
左目の傷はまだ痛む。
時折。
失われたはずの左目が疼くような感覚もあった。
それでも。
少しずつ身体は回復していく。
部屋には誰かがいた。
朝はベリアリア。
昼はフィリス。
時々リザリア。
レヴィアナも顔を出す。
アリアとミーナは特に頻繁だった。
まるで目を離したら消えてしまうとでも思っているように。
ジンは少し困ったように笑う。
だが。
誰も離れようとはしなかった。
そして。
温泉街にも平穏が戻り始めていた。
宿屋は客を迎え。
商店は賑わい。
温泉には湯気が立ち昇る。
いつも通りの日常。
事件など無かったかのような景色。
だが。
全員が分かっていた。
終わっていない。
何も終わっていない。
老医務官も。
受付嬢も。
暗部も。
まだどこかにいる。
そして。
ジンを狙う理由も分かっていない。
だからこそ。
皆は束の間の平和を大切にしていた。
その平和がいつまで続くのか。
誰にも分からなかったからだ。
窓の外では雪が降っている。
白く染まった温泉街。
その景色を眺めながら。
ジンは静かに息を吐いた。
今だけは。
何も起きないで欲しい。
そう思えるくらいには。
少しだけ穏やかな時間が流れていた。
数日後。
温泉街。
宿の一室。
窓の外では雪が静かに降っていた。
ジンは椅子へ腰掛けている。
身体はだいぶ回復していた。
左肩の傷も。
脚の傷も。
まだ完治ではない。
それでも日常生活には支障が無い程度には戻っていた。
そして。
ジンは自分の左腕を見る。
失われた肩口。
何も無い空間。
「……」
小さく息を吐く。
そして魔力を練り上げる。
慣れた感覚。
何度も繰り返した動作。
肩口から魔力が溢れ出す。
淡い光。
そして。
義手の形を作ろうとする。
いつも通りなら。
それで終わる。
左腕が現れる。
指も動く。
物も持てる。
だが。
今日は違った。
魔力が揺らぐ。
腕の形になりかけたそれが。
ぼろりと崩れた。
霧のように。
砂のように。
形を保てない。
「……あれ?」
ジンは眉をひそめる。
もう一度。
魔力を練る。
肩口から義手を構築する。
だが。
同じだった。
腕の輪郭は出来る。
だが。
維持出来ない。
数秒で崩壊する。
ジンは困惑する。
「そんな……」
もう一度。
またもう一度。
何度試しても同じだった。
形成出来る。
だが維持出来ない。
その時。
背後から声が聞こえた。
「まだ無理をしちゃ駄目よ」
レヴィアナだった。
いつの間にか部屋へ来ていたらしい。
ジンが振り返る。
レヴィアナは窓際へ寄り掛かっていた。
腕を組みながら。
じっとジンを見ている。
「レヴィアナさん……」
レヴィアナはため息を吐く。
そして。
ジンの左目の包帯を見る。
正確には。
その奥。
失われたものを見るように。
「目はね」
静かな声だった。
「魔力を見る器官でもあるの」
ジンは黙って聞く。
レヴィアナは続けた。
「人は魔力を感じる」
「でも魔術師は魔力を見る」
「流れを」
「形を」
「構造を」
「無意識にね」
ジンは自分の肩口を見る。
レヴィアナは頷いた。
「今の貴方は多分」
少し言い淀む。
そして。
静かに告げた。
「義手は構築できないわ」
沈黙。
ジンの表情が固まる。
レヴィアナは視線を逸らさない。
「正確には」
「構築精度が足りないのよ」
「以前の貴方は魔力構造を両目で認識していた」
「今は片方失った」
「だから維持出来ない」
ジンは左手の無い肩口を見る。
何も無い。
ずっと当たり前に使っていた義手。
左腕を失ってから。
ずっと一緒だったもの。
それすら。
失われた。
レヴィアナは少しだけ表情を和らげる。
「でも安心しなさい」
ジンが顔を上げる。
「不可能とは言ってないわ」
レヴィアナは椅子を引く。
そして向かいへ座った。
金色の瞳が真っ直ぐ向く。
「一からやり直すだけよ」
少しだけ笑う。
「元々、義手なんて魔術を使う人間の方がおかしいんだから」
ジンは思わず苦笑した。
確かにそうだった。
レヴィアナは続ける。
「貴方はまた覚えるわ」
「歩いた時みたいに」
「剣を振った時みたいに」
「義手も」
「最初から」
窓の外では雪が降っている。
ジンは肩口を見る。
何も無い。
けれど。
少しだけ。
希望も見えた気がした。
レヴィアナは立ち上がる。
そして。
珍しく優しい声で言った。
「焦らない事」
「今の貴方は回復中なんだから」
その言葉に。
ジンは静かに頷いた。




