家族とは
医務室は静まり返っていた。
誰も軽々しく言葉を発せない。
ジンはベッドの上で黙っている。
アリアはその手を握ったまま。
しばらく沈黙した後。
アリアが再び口を開いた。
「……ジンは」
その声は小さかった。
だが。
誰も聞き逃さない。
「聖騎士団で暮らしていたの」
リザリア達が視線を向ける。
「私達と一緒に」
アリアは目を伏せる。
懐かしい記憶だった。
そして。
苦しい記憶だった。
「まだ子供だった」
「なのに戦場へ出ていたわ」
ヴァレルが顔をしかめる。
ルドヴィカも黙っている。
アリアは続けた。
「最前線にもいた」
「戦って」
「怪我人の世話もして」
「夜は眠れない団員達の話を聞いていた」
その言葉に。
リザリアの眉が動く。
何かがおかしい。
子供がやる事ではない。
アリアは苦しそうに笑った。
「ジンは優しかったから」
「誰かが泣いていたら放っておけなかった」
「誰かが苦しんでいたら側にいた」
「誰かが眠れない夜を過ごしていたら、一緒に起きていた」
沈黙。
アリアは拳を握る。
「だから利用された」
その一言が重かった。
「慰安係として」
誰も言葉を返せない。
アリアは続ける。
「誰も悪気なんて無かった」
「皆疲れていたの」
「戦争だったから」
「明日死ぬかもしれなかったから」
「でも」
声が震える。
「気付いたら皆がジンに頼っていた」
フィリスが目を閉じる。
ミーナも俯く。
否定出来なかった。
事実だから。
戦場から帰ればジンがいた。
眠れない夜にはジンがいた。
泣いている団員の隣にはジンがいた。
いつも。
いつも。
ジンがいた。
そして。
誰もその異常さに気付かなかった。
「私達も同罪よ」
アリアが静かに言う。
「守っているつもりだった」
「家族のつもりだった」
「でも気付かなかった」
「ジンがどれだけ疲れていたか」
「どれだけ消耗していたか」
医務室に沈黙が落ちる。
その時だった。
シオンがゆっくりと目を閉じた。
思い出したのだ。
戦後。
聖王国へ赴いた時の事を。
終戦処理。
資料確認。
生存者への聞き取り。
その中で。
何度も耳にした名前。
――ジン。
最初は気にも留めなかった。
だが。
妙だった。
その名前が出る度に。
聖騎士団員達の様子が変わる。
ある者は泣いた。
ある者はその場に崩れ落ちた。
ある者は慟哭した。
ある者は名前を聞いただけで会話を続けられなくなった。
当時は分からなかった。
戦争で死んだ仲間なのだろうと。
それくらいにしか思っていなかった。
だが。
今なら分かる。
シオンはゆっくりと目を開く。
そして。
静かに呟いた。
「そういう事だったのですか」
全員の視線が向く。
シオンはジンを見る。
白髪の少年。
失われた左腕。
失われた左目。
そして。
なお他人を責めない少年。
「戦後」
静かな声だった。
「聖騎士団員達は、ジンさんの名前を聞くだけで泣いていました」
医務室が静まり返る。
「慟哭する者もいました」
「まるで家族を失った人間のように」
シオンはそこで言葉を切る。
そして。
ようやく理解した。
彼らは少年を失った事を悲しんでいたのではない。
自分達が失わせた事を。
後悔していたのだ。
医務室の誰もが言葉を失った。
その中で。
ジンだけが少し困ったように笑った。
まるで。
自分の話ではないかのように。
医務室は静まり返っていた。
誰も口を挟まない。
アリアだけがゆっくりと言葉を続ける。
「今思えば……おかしかったのよ」
視線はジンへ向いていた。
眠るように横たわる少年。
白髪。
失われた左腕。
失われた左目。
だが。
アリアの脳裏に浮かぶのは昔の姿だった。
雪の日。
聖騎士団の門の前。
震えていた小さな少年。
「女性しかいない聖騎士団だった」
誰も反論しない。
事実だった。
聖騎士団に所属する戦闘員は女性のみ。
そんな場所に。
たった一人。
男の子がいた。
「黒髪で」
「黒い目で」
「東方の子供だった」
アリアは静かに続ける。
「西方の人間ですら辿り着くのが難しい場所よ」
「まして東方の子供が一人で来るなんて」
「普通なら無理だわ」
リザリアが眉をひそめる。
シオンも黙って聞いている。
確かにおかしい。
東方と西方。
文化も距離も違う。
幼い子供が一人で辿り着けるような距離ではない。
アリアは拳を握る。
「当時は誰も気にしなかった」
「可哀想な孤児だと思った」
「助けなきゃって思った」
「私も」
「ルシャ姉さんも」
「ベリアリアさんも」
「みんな」
声が小さくなる。
「でも」
沈黙。
アリアは俯いた。
「今思えば」
「まるで最初からそこに置かれていたみたいだった」
誰も喋らない。
フィリスが目を閉じる。
記録係だった彼女も同じ疑問へ辿り着いていた。
「拾われるために」
アリアが呟く。
「聖騎士団へ」
その言葉に。
医務室の空気が変わる。
エルカが腕を組む。
レヴィアナも表情を消した。
シオンは眼鏡を押し上げる。
そして静かに言う。
「つまり」
「誰かがジンさんを聖騎士団へ送り込んだ可能性がある、と」
アリアは答えない。
だが。
否定もしなかった。
ジン自身も黙っている。
分からないからだ。
幼い頃の記憶は無い。
自分がどこから来たのか。
なぜ聖騎士団にいたのか。
本当に知らない。
だからこそ。
その沈黙が重かった。
フィリスが小さく呟く。
「もしそうなら……」
眼鏡の奥の瞳が揺れる。
「ジン君は最初から利用されるために用意されていた事になります」
誰も否定出来なかった。
左腕。
魔石。
新型魔導砲。
追加切断計画。
そして昨夜の襲撃。
全てが一本の線で繋がり始めていた。
医務室に差し込む朝日だけが静かだった。
その中で。
ジンは窓の外を見る。
残された右目で。
遠い雪景色を見ながら。
小さく呟いた。
「……だったら」
皆が振り向く。
ジンは少しだけ困ったように笑った。
「僕は、誰だったんでしょうね」
その言葉に。
誰も答える事が出来なかった。
医務室は静まり返っていた。
アリアの話を聞いた後。
誰もすぐには口を開けなかった。
戦場。
子供。
切断。
魔導砲。
あまりにも重い話だった。
そして。
レヴィアナが静かに口を開く。
「それで」
金色の瞳がアリア達へ向く。
「あなた達は彼が逃げたのを追ったのね」
アリアの肩が震える。
レヴィアナは続ける。
「女王の命令で」
誰も否定しない。
「そして崖際まで追い詰めた」
静寂。
アリアは目を伏せた。
「……ええ」
小さな返事。
レヴィアナはしばらく黙る。
そして。
ぽつりと呟いた。
「信じられないわね」
その声には怒りが滲んでいた。
今まで聞いた話を頭の中で整理しているのだろう。
東方の子供。
女性だけの聖騎士団。
戦場。
魔導砲。
追加切断計画。
全てがおかしかった。
レヴィアナはゆっくりと立ち上がる。
そして。
アリア達を見る。
「あなた達は」
静かな声。
「いいように彼を扱っていたのね」
アリアが顔を上げる。
何も言えない。
レヴィアナは続けた。
「子供を」
医務室が静まり返る。
「しかも」
眉がひそめられる。
「慰安係って何?」
その言葉に。
フィリスも。
ミーナも。
アリアも。
言葉を失う。
レヴィアナは本気で理解出来なかった。
「初めて聞いたわ」
声が低くなる。
「子供でしょう?」
「戦場へ出して」
「怪我人の世話をさせて」
「精神的に疲弊した兵士の相手までさせて」
誰も反論しない。
出来ない。
「それを慰安係って呼ぶの?」
レヴィアナは呆れたように息を吐く。
「私にはただの搾取にしか聞こえないわ」
重い沈黙。
アリアの拳が震える。
分かっている。
今なら分かる。
だからこそ苦しい。
当時は気付かなかった。
皆が疲れていた。
皆が追い詰められていた。
そして。
ジンは優しかった。
だから甘えた。
頼った。
結果として。
子供一人に背負わせてしまった。
レヴィアナはベッドを見る。
そこには。
白髪の少年がいる。
失われた左腕。
失われた左目。
それでも誰も恨まない少年。
レヴィアナは静かに言った。
「よく壊れなかったわね」
その言葉に。
フィリスが小さく呟く。
「……壊れていたのかもしれません」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
だが。
医務室にいる全員には届いていた。
「よく壊れなかったわね」
レヴィアナの言葉が医務室に落ちる。
重い沈黙。
誰も何も言わない。
アリアは俯き。
フィリスも目を伏せる。
ミーナも唇を噛んでいた。
その時だった。
「違うんです」
掠れた声。
全員の視線が向く。
ベッドの上。
ジンだった。
レヴィアナが目を細める。
ジンはゆっくりと身体を起こそうとする。
だが。
左肩の傷が痛む。
アリアが慌てて支えた。
「無理しないで」
「大丈夫です」
そう言って。
ジンはレヴィアナを見る。
残った右目で。
真っ直ぐに。
「違うんです」
もう一度言った。
「レヴィアナさん」
医務室は静まり返る。
ジンは言葉を探すように少し考えた。
そして。
静かに続ける。
「僕は……」
声は弱い。
だが。
迷いは無かった。
「みんなの事を助けたくて」
アリアの肩が震える。
フィリスも顔を上げる。
ジンは続けた。
「眠れない人がいたら心配だったし」
「泣いてる人がいたら放っておけなかったし」
「怪我してる人がいたら手伝いたかったんです」
昔を思い出しているようだった。
懐かしそうに。
少しだけ笑う。
「だから」
小さく息を吐く。
「自分でやった事なんです」
誰かに命令された訳じゃない。
少なくとも。
その部分だけは。
ジン自身が選んだ事だった。
レヴィアナは黙って聞いている。
ジンは続けた。
「確かに皆は僕に頼りました」
「でも」
少し困ったように笑う。
「僕も皆に助けてもらってました」
アリアを見る。
ミーナを見る。
フィリスを見る。
そして。
遠い誰かを思い出す。
「ルシャさんも」
「ベリアリアさんも」
「セレナさんも」
「リオーネさんも」
「みんな優しかったです」
その言葉に。
アリアが顔を覆う。
泣きそうになっていた。
ジンは気付いていない。
あるいは気付いていても言わない。
「だから」
静かな声。
「僕は後悔してないです」
医務室に沈黙が落ちる。
レヴィアナはしばらくジンを見つめていた。
やがて。
小さく息を吐く。
「あなたね」
呆れたような声。
だが怒りは無い。
「そういう所よ」
ジンが首を傾げる。
レヴィアナは額を押さえた。
「だから皆あなたに依存したのよ」
静かな声だった。
「だってあなた」
「自分が傷付いてるのに、人の心配ばかりするじゃない」
ジンは何も言えない。
レヴィアナは視線を逸らす。
少しだけ苦笑して。
そして小さく呟いた。
「本当に馬鹿なんだから」
その言葉には。
怒りではなく。
どこか悲しみが混じっていた。
ジンは少しだけ視線を落とした。
窓から差し込む朝日。
白いシーツ。
自分の右手を握るアリアとミーナ。
皆の顔を見渡す。
そして。
静かに口を開いた。
「僕が……」
言葉を探すように。
ゆっくりと。
「意図的に聖騎士団へ送り込まれていたとしても……」
医務室は静まり返っている。
誰も口を挟まない。
ジンは続けた。
「利用されるためだったとしても……」
残った右目を閉じる。
幼い頃の記憶は無い。
何も覚えていない。
どこから来たのかも。
誰の子なのかも。
何のためにそこへいたのかも。
分からない。
それでも。
分かる事はあった。
「僕には」
小さく息を吐く。
「聖騎士団が全てだったんです」
アリアの肩が震える。
フィリスが目を伏せる。
ミーナも唇を噛む。
ジンは続けた。
「家族でした」
静かな声。
迷いのない声。
「ルシャさんも」
「ベリアリアさんも」
「アリアも」
「ミーナも」
「フィリスさんも」
「セレナさんも」
「リオーネさんも」
一人一人の名前を口にする。
その度に。
呼ばれた者達の表情が揺れる。
「僕にとっては」
少しだけ笑う。
昔と変わらない。
優しい笑み。
「大切な人達だったんです」
医務室の空気が重くなる。
アリアは俯いた。
涙が落ちる。
ぽたり。
ぽたりと。
止まらない。
ジンはそれでも続けた。
「だから……」
声は少しだけ弱くなる。
「皆をあまり責めないでください」
レヴィアナが眉をひそめる。
ジンはゆっくり首を振った。
「確かに辛い事もありました」
「苦しい事もありました」
「でも」
そこで言葉を切る。
少しだけ考える。
そして。
静かに笑った。
「楽しかった事も沢山ありましたから」
沈黙。
誰も喋れない。
ジンは遠くを見る。
戦場で焼いたパン。
ミーナのクッキー。
アリアとの訓練。
ルシャに教わった槍。
ベリアリアの大きな手。
フィリスと読んだ本。
何気ない日々。
全部思い出せる。
だから。
憎めなかった。
恨めなかった。
ジンは最後に小さく言った。
「僕は……」
声が掠れる。
それでも。
はっきりと言った。
「皆の事が好きでしたから」
静寂。
その言葉が。
誰よりもアリア達の胸へ深く突き刺さった。
責められる方が楽だった。
怒られる方が楽だった。
恨まれる方が楽だった。
けれど。
ジンはそれをしない。
だからこそ。
アリアは顔を覆う。
ミーナも涙を堪えられない。
フィリスも眼鏡の奥で目を閉じる。
そして。
レヴィアナはただ一言。
小さく呟いた。
「……本当に救いようがないくらい優しいわね」
それは呆れでもあり。
どこか悲しみを含んだ言葉でもあった。




