欠けた少年はさらに欠ける
医務室。
薄暗い灯り。
窓の外では雪が降り続いている。
ジンはベッドの上で目を覚ましていた。
身体は重い。
頭もぼんやりする。
そして何より。
動けない。
腕。
脚。
胴体。
革の拘束具によって固定されていた。
完全に。
逃げられないように。
ジンは困惑した表情を浮かべる。
「……あの」
掠れた声。
「これは……?」
老医務官は穏やかに笑った。
いつもと変わらない。
優しい老人の顔。
「心配せんでも良い」
そう言って椅子へ腰掛ける。
「これも仕事なんじゃ」
ジンは意味が分からない。
仕事。
何の。
誰の。
聞こうとしたその時だった。
――ガチャリ。
医務室の扉が開く。
老医務官が振り返る。
ジンも視線を向ける。
そして。
固まった。
そこにいたのはカティアだった。
だが。
様子がおかしい。
首筋へ一本のナイフが当てられている。
少しでも動けば血が流れる距離。
カティアは険しい表情のまま立っていた。
そして。
その背後。
ナイフを握る女性。
栗色の毛並み。
見慣れた制服。
温泉街ギルドの受付嬢。
いつも笑顔で冒険者を迎えていた女性。
その彼女が。
楽しそうに微笑んでいた。
「いやぁ」
受付嬢は困ったように笑う。
「見つかっちゃいましたねぇ」
軽い口調。
まるで雑談だった。
だが。
ナイフだけは微動だにしない。
カティアの首筋へぴたりと添えられている。
ジンの顔から血の気が引く。
「カティアさん……!?」
身体を起こそうとする。
だが拘束具が邪魔をする。
革が軋む。
それでも動けない。
受付嬢はその様子を見て笑った。
「暴れないでくださいよぉ」
穏やかな声。
「せっかく助けたんですから」
助けた。
その言葉にジンの表情が変わる。
老医務官は黙っていた。
受付嬢は楽しそうに続ける。
「死んだ事になってもらうの、大変だったんですから」
静寂。
カティアの瞳が細まる。
ジンは言葉を失う。
医務室の空気が変わる。
先程までの静かな空気ではない。
何か。
決定的におかしい。
そんな空気だった。
受付嬢はナイフをくるりと回す。
そして。
医務官へ向かって軽く会釈する。
「先生」
「上手くいきましたねぇ」
老医務官は小さく鼻を鳴らした。
「全くじゃ」
その口調は。
まるで長年の知り合い同士のようだった。
ジンは拘束されたまま二人を見る。
嫌な予感がする。
とても。
とても嫌な予感だった。
受付嬢はそんなジンを見て。
にこりと笑った。
「さて」
「どこから説明しましょうか?」
医務室。
静寂。
雪の降る音だけが窓の向こうから聞こえてくる。
受付嬢はカティアの首筋へナイフを当てたまま微笑んでいた。
「とりあえず、時間も無いですし」
気の抜けた声。
まるで明日の天気でも話しているようだった。
「取れるところを先に取ってくれますぅ?」
老医務官へ向けてそう言う。
老医務官は眉を顰めた。
「お前さんなぁ……」
ため息。
「人使いが荒いのぅ」
受付嬢は肩を竦める。
「いやぁ、私今両手塞がってますし?」
ナイフを軽く揺らす。
「あなたが直接やってくださいな」
老医務官は再び大きくため息を吐いた。
「年寄りを酷使せんでくれるかのぅ……」
そう言いながら。
ゆっくりとジンのベッドへ近付いていく。
ジンは拘束具を鳴らした。
嫌な予感しかしない。
カティアも表情を強張らせる。
「何をする気ですか」
返事は無い。
老医務官はベッドの傍へ立つ。
そして。
申し訳なさそうな顔でジンを見下ろした。
「すまんのう、坊主」
静かな声。
「これも仕事なんじゃ」
その言葉の意味を考える暇は無かった。
次の瞬間。
ジンの身体が強張る。
「あ……?」
理解が追いつかない。
何が起きたのか分からない。
だが。
直後。
凄まじい激痛が走った。
「あああああああああっ!!」
医務室へ絶叫が響く。
拘束具が激しく軋む。
ベッドが揺れる。
ジンは必死にもがく。
だが逃げられない。
痛い。
何が起きているのか分からない。
ただ。
何かを奪われている。
そんな感覚だけがあった。
カティアの顔から血の気が引く。
「やめろ!!」
思わず叫ぶ。
しかし受付嬢は動じない。
むしろ困ったように笑った。
「だから静かにしてくださいって」
まるでこちらの方が非常識であるかのような口調だった。
やがて。
老医務官が一歩下がる。
ジンは荒い呼吸を繰り返していた。
全身が震えている。
視界も定まらない。
意識が飛びそうになる。
老医務官は掌の中の物を見つめる。
そして小さく頷いた。
「これで一つじゃな」
受付嬢の笑みが深くなる。
「ええ」
満足そうな声。
「順調ですねぇ」
その会話を聞きながら。
カティアは理解する。
この二人は最初から繋がっていた。
そして。
今、自分達の知らない何かが進行しているのだと。
医務室。
ジンは荒い呼吸を繰り返していた。
身体が震える。
拘束具が軋む。
痛い。
頭が割れそうだった。
何が起きたのか理解出来ない。
だが。
徐々に。
徐々に理解してしまう。
左側の視界。
見えない。
何も。
見えない。
「……ぁ」
声が漏れる。
呼吸が乱れる。
理解した。
理解してしまった。
左目。
左目が無い。
奪われた。
失った。
また。
まただ。
左腕。
そして今度は左目。
ジンの顔から血の気が引いていく。
「なん……で……」
掠れた声。
老医務官はその様子を見ながら小さく息を吐いた。
「すまんのう」
申し訳なさそうな顔。
だが。
その手は止まらない。
老医務官はジンを見下ろす。
そして静かに言った。
「もう一つ……頂きたいところじゃが」
その言葉に。
カティアの顔が凍り付く。
「貴様……!」
受付嬢は相変わらず笑っていた。
まるで他人事のように。
その時だった。
廊下の向こう。
足音。
誰かが走ってくる。
一人ではない。
複数。
慌ただしい。
明らかに異常を察した者達の足音だった。
リザリアか。
ヴァレルか。
シオンか。
あるいは全員か。
カティアとジンの悲鳴はギルド中へ響いていた。
気付かないはずがない。
老医務官も足音を聞いた。
そして。
小さく肩を竦める。
「……もう時間切れじゃのう」
残念そうな声だった。
受付嬢も頷く。
「そうですねぇ」
いつもの気の抜けた声。
温泉街で毎日聞いていた声。
それなのに。
今は異様に不気味だった。
受付嬢はナイフを下ろす。
そして笑った。
「では」
軽く会釈する。
まるで仕事終わりの挨拶のように。
「ここらでお暇しましょうかぁ」
直後。
廊下の向こうから扉へ向かって駆けてくる足音がさらに近付く。
そして。
医務室の扉が勢いよく開かれようとしていた。




