うそ
路地裏の空気が張り詰める。
ザインは木箱の陰から僅かに外を窺った。
敵はどこだ。
屋根か。
窓か。
それとも別の場所か。
見つけなければならない。
そう思った瞬間だった。
ぞわり。
背筋を冷たいものが走る。
殺気。
反射だった。
考えるより早く身体が動く。
「伏せて!」
ザインが叫ぶ。
自らも地面へ飛び込む。
次の瞬間。
轟音。
石壁が弾け飛んだ。
木片。
石片。
雪。
全部が吹き飛ぶ。
先程までザインの頭があった場所。
そこへ魔導弾が叩き込まれていた。
「っ……!」
フィリスが息を呑む。
今のは間違いなく致命傷だった。
少しでも反応が遅れていたら。
頭部を吹き飛ばされていた。
ザインは歯を食いしばる。
冷や汗が流れる。
見えている。
向こうはこちらを見失っていない。
いや。
見失わせる気が無い。
逃げても。
隠れても。
追い込まれている。
「居場所が……」
フィリスの声が震える。
「把握されています……!」
ザインも同じ結論だった。
逃げ場が無い。
少なくともこの路地裏には。
「走ります!」
即断だった。
ここに留まれば死ぬ。
それだけは分かる。
フィリスも頷く。
次の瞬間。
二人は飛び出した。
雪を蹴る。
路地を駆ける。
背後を振り返らない。
ただ前へ。
生き残るために。
だが。
ザインの表情が歪む。
左脚。
痛みが酷い。
包帯を巻いても出血は止まっていない。
踏み込む度に激痛が走る。
速度が出ない。
どうしても。
遅くなる。
フィリスも気付いていた。
ザインが必死に隠している事を。
左脚が限界に近い事を。
それでも。
ザインは走る。
歯を食いしばりながら。
一歩。
また一歩。
その時だった。
再び。
背筋へ嫌な感覚が走る。
殺気。
今度は先程より近い。
そして。
鋭かった。
ザインの表情が変わる。
来る。
そう理解した瞬間だった。
轟音。
夜の温泉街へ再び銃声が響く。
速い。
あまりにも速い。
視認する暇すら無い。
次の瞬間。
「――っ!!」
左肩を何かが貫いた。
肉が裂ける。
骨まで響く衝撃。
身体が大きく揺れる。
激痛。
呼吸が止まる。
視界が白く染まった。
「がぁっ!!」
声にならない悲鳴が漏れる。
血飛沫が雪へ散った。
フィリスが目を見開く。
「ザイン君!!」
左肩。
銃弾は完全に貫通していた。
大量の血が流れ出る。
脚の傷とは比べ物にならない。
意識が揺れる。
膝が折れそうになる。
そして。
その瞬間だった。
維持していた魔力が乱れる。
「っ……!」
左側で光が弾けた。
義手。
魔術で形成していた左腕。
肩を撃ち抜かれた衝撃で制御が崩壊する。
指先から。
肘から。
腕全体が砕けるように光へ変わる。
青白い魔力の粒子が夜空へ舞った。
雪の上へ何かが落ちる事は無い。
最初から実体ではない。
ただ。
そこにあった左腕が消えた。
フィリスの顔が青ざめる。
「そんな……」
だが。
ザインには返事をする余裕が無かった。
肩が熱い。
脚が痛い。
視界が揺れる。
それでも。
まだ倒れない。
倒れれば終わる。
戦場で嫌というほど学んだ。
だから。
右手だけは動いた。
生き残るために。
右手へ魔力を集中する。
意識が霞む。
それでも魔術を発動する。
地面が蠢く。
石畳の隙間から緑の蔦が噴き出した。
何本も。
何十本も。
雪を巻き上げながら。
木箱へ絡み付き。
壁を覆い。
路地裏全体へ広がる。
蔦が暴れる。
雪煙が舞う。
視界が白く染まる。
目眩まし。
攻撃ではない。
逃げるためだけの魔術。
生き残るためだけの魔術だった。
ザインは荒い呼吸を繰り返す。
肩を押さえる。
温かい血が指の隙間から流れ続けていた。
フィリスがすぐ横へ駆け寄る。
だが。
ザインは震える声で言った。
「まだ……止まらないでください……」
仮面の奥で息を吐く。
肩。
脚。
どちらも重傷だった。
それでも。
まだ生きている。
だから。
まだ諦めない。
蔦と雪煙の向こう側。
狙撃手の姿は見えない。
だが。
殺意だけは確かにそこにあった。
◇
屋根の上。
アリアは歯を食いしばった。
確かに当てた。
脚を撃った。
肩も撃った。
どちらも致命傷になってもおかしくない。
少なくとも。
まともに動ける状態ではないはずだった。
それなのに。
仮面の男はまだ逃げている。
まだ立っている。
まだ戦っている。
「何なのよ……!」
思わず声が漏れる。
理解出来なかった。
魔導歩兵銃。
帝国が誇る新兵器。
人体へ命中すれば骨ごと砕く威力を持つ。
その銃弾を二発受けて。
まだ動く。
あり得ない。
だが。
現実だった。
アリアは銃を構え直す。
照準を合わせようとした。
その時だった。
路地裏から何かが噴き出す。
緑色。
植物。
蔦。
「……は?」
アリアは目を見開いた。
蔦だった。
無数の蔦。
石畳を突き破り。
木箱へ絡み付き。
路地全体を覆い始める。
雪煙も混じる。
視界が悪い。
狙いが付けられない。
そして何より。
道そのものが塞がれていく。
アリアは舌打ちした。
「チッ」
隠蔽。
目眩まし。
逃走用の魔術。
そこまでは分かる。
だが。
植物魔術。
それもこれほどの規模。
暗部が使うような魔術ではない。
一瞬だけ違和感が過る。
だが。
今は考えている場合ではなかった。
逃がせば終わりだ。
アリアは魔導歩兵銃を背へ戻す。
そして腰のナイフを抜いた。
屋根から飛び降りる。
雪を蹴る。
着地。
そのまま路地へ飛び込む。
目の前には蔦の壁。
生き物のように蠢いている。
アリアは躊躇しなかった。
一閃。
ナイフが振るわれる。
蔦が切断される。
さらにもう一閃。
二閃。
三閃。
次々と道を塞ぐ植物を斬り払う。
切られた蔦が雪へ落ちる。
だが。
数が多い。
それでも止まらない。
アリアの瞳は獲物を追う猟兵のものだった。
仮面の男。
フィリス。
二人とも逃がさない。
あの日の答えを聞くまでは。
いや。
今は違う。
まずはあの男だ。
あの異常な反応速度。
二発受けても倒れない生命力。
そして。
この植物魔術。
危険だ。
危険過ぎる。
だからこそ。
逃がせない。
アリアは蔦を斬り払いながら路地の奥へ駆ける。
雪が舞う。
冷たい夜風が吹く。
そして。
追撃が始まった。
ザインは壁へ身体を預けた。
呼吸が荒い。
左脚。
左肩。
どちらも血が流れている。
まともに戦える状態ではない。
だが。
追手は確実に近付いている。
逃げ切れない。
ならば。
先に仕掛ける。
右手へ魔力を集める。
冷たい夜風が指先へ集まった。
慣れた感覚だった。
何度も使ってきた。
ずっと頼ってきた魔術。
風の刃。
圧縮された風が幾重にも重なる。
ザインは路地裏の出口を見る。
蔦。
雪煙。
その向こう。
確実に誰かが来ている。
「……!」
右手を振る。
次の瞬間。
風の刃が放たれた。
轟ッ――
空気を裂く音。
雪が舞う。
蔦が揺れる。
白い雪煙が巻き上がる。
出口へ向かって一直線に飛ぶ。
そして。
その奥。
雪煙の向こう。
何かが動いた。
人影。
気配。
確かにそこにいる。
ザインの瞳が細まる。
追手だ。
間違いなく。
こちらを追って来ている。
◇
路地裏の入口付近。
アリアは咄嗟に身を伏せていた。
次の瞬間。
風が唸りを上げる。
風の刃。
圧縮された空気が雪を巻き上げながら通り過ぎる。
建物の壁へ深い傷が刻まれた。
雪煙が舞う。
静寂。
アリアは物陰へ身体を押し付けたまま動かない。
だが。
その瞳は大きく見開かれていた。
「……嘘」
小さく呟く。
自分は隠れていた。
足音も立てていない。
視界も通っていない。
それなのに。
攻撃が飛んできた。
偶然か。
いや。
違う。
あの風の刃は明らかにこちらを牽制していた。
アリアは歯を食いしばる。
冷や汗が頬を伝う。
二発。
確かに命中した。
脚。
肩。
普通なら動けなくなる。
それなのに。
反撃してきた。
しかも。
こちらの接近に反応して。
「私の気配に反応した……?」
信じられなかった。
あの距離で。
あの状態で。
だが現実だった。
あの仮面の男は危険だ。
今まで戦ってきた相手とは違う。
負傷してなお。
狩られる側ではなく。
こちらを狩ろうとしている。
アリアはゆっくり息を吐く。
感情を押し込める。
迷いを消す。
もう捕縛ではない。
尋問でもない。
最初の一撃で脚を狙った時とは違う。
今ははっきり理解していた。
生かしておけば危険だ。
フィリスから話を聞けばいい。
情報はそこから得られる。
ならば。
優先すべきは。
あの仮面の男を仕留める事。
アリアは静かに魔導歩兵銃を構え直す。
雪が降る。
夜風が吹く。
照準の先には蔦の壁。
雪煙。
その向こうにいるであろう仮面の男。
アリアの瞳から迷いが消えた。
「……次で終わらせる」
低く呟く。
そして。
再びゆっくりと狙撃位置を変え始めた。
◇
路地裏の奥。
ザインは荒い呼吸を繰り返していた。
左脚。
左肩。
どちらも痛む。
血も止まっていない。
それでも。
立っていた。
倒れれば終わる。
それだけは分かっていた。
右手へ魔力を集める。
風が集まる。
そして。
再び放つ。
風の刃。
轟ッ――
圧縮された風が雪を巻き上げながら飛ぶ。
路地裏の出口。
蔦の隙間。
雪煙の向こう。
だが。
反応が無い。
何も。
避けた気配も。
動く気配も。
返ってこない。
「……?」
ザインの眉が僅かに動く。
おかしい。
先程までは確かにいた。
殺気もあった。
気配もあった。
それなのに。
今は静か過ぎる。
その瞬間だった。
路地裏の出口。
雪煙を突き破るように人影が飛び出してくる。
速い。
迷いが無い。
一直線。
ザインは反射的に視線を向ける。
そして。
固まった。
「――――」
息が止まる。
知っている。
その姿を。
その毛並みを。
その瞳を。
忘れるはずがない。
青い毛並み。
猫獣人。
そして。
見慣れた顔。
アリア。
アリア・エルレインだった。
時間が止まったように感じた。
どうして。
何故ここに。
そんな言葉が頭をよぎる。
だが。
その間にも。
アリアは止まらない。
飛び出した勢いのまま。
魔導歩兵銃を構える。
迷いの無い動作。
戦場で何度も見た動きだった。
「っ……!」
ザインの身体が反応しようとする。
だが遅い。
傷が深過ぎる。
そして何より。
目の前に現れた人物に意識を奪われていた。
次の瞬間。
轟音。
銃声が夜へ響く。
魔導弾が一直線に飛ぶ。
回避は間に合わない。
衝撃。
仮面へ命中する。
凄まじい音。
仮面が砕ける。
吹き飛ぶ。
破片が夜空へ散る。
「がっ――!」
ザインの身体が後方へ吹き飛ばされた。
背中から雪へ叩き付けられる。
視界が揺れる。
頭部へ激痛が走る。
額から頬へ。
鋭い裂傷。
血が流れる。
白い雪へ赤が落ちる。
そして。
仮面は無かった。
長い間隠してきた顔。
火傷跡。
白い髪。
その全てが。
雪明かりの下へ晒される。
静寂。
ほんの一瞬。
誰も動かなかった。
その場の時間だけが止まったかのように。
砕け散った仮面の破片が雪の上へ降り注ぐ。
静寂。
誰も動かなかった。
ザインは雪の上へ倒れている。
頭部から血が流れる。
白い髪が赤く染まる。
額には裂傷。
呼吸は荒い。
左肩は撃ち抜かれ。
左脚も貫かれている。
満身創痍だった。
そして。
隠し続けていた顔が露わになっていた。
フィリスの顔から血の気が引く。
その瞬間。
考えるより先に声が出ていた。
「ジン君!!!!!」
悲鳴にも似た叫び。
温泉街の夜へ響く。
フィリス自身。
口にしてから気付いた。
隠していた名前だった。
誰にも知られてはいけない名前だった。
だが。
そんな事を考える余裕は無かった。
フィリスは転がるザインへ駆け寄る。
震える手で肩を支える。
「ジン君!」
「ジン君!!」
返事は無い。
意識はある。
だが朦朧としていた。
そして。
少し離れた場所。
銃を構えたままのアリアは。
その光景を見ていた。
動けない。
呼吸すら忘れていた。
耳に残る。
今の叫び。
聞き間違えるはずがない。
ジン君。
そう呼んだ。
フィリスは。
確かにそう呼んだ。
アリアの視線がゆっくりと動く。
雪の上へ倒れる少年を見る。
白い髪。
火傷跡。
失われた左腕。
そして。
その顔。
ずっと探していた。
何度も夢に見た。
忘れた事など一度も無かった。
「……うそ」
声が漏れる。
小さく。
震えながら。
信じられなかった。
あり得ない。
だって。
ジンは。
あの日。
崖から落ちた。
自分が撃った。
ルシャが斬った。
血だらけになって。
雪の中へ消えた。
だから。
死んだと思っていた。
ずっと。
ずっと。
そう思っていた。
なのに。
そこにいる。
雪の上に。
血だらけになって。
自分が撃った相手として。
そこにいる。
アリアの手から力が抜ける。
魔導歩兵銃が僅かに下がる。
視界が揺れる。
心臓が痛い。
呼吸が苦しい。
頭が真っ白になる。
「うそ……」
もう一度。
同じ言葉が漏れた。
それしか言えなかった。
目の前の現実を。
まだ受け入れられなかった。




