アリアは…
その時だった。
コンコン、と。
補給室の扉が叩かれる。
外から帝国兵の声。
「エルレイン様!報告があります!」
アリアは振り向きもしない。
苛立ち混じりの声が飛ぶ。
「後になさい」
即答だった。
補給室には先ほどから重苦しい空気が流れている。
今は誰にも邪魔されたくなかった。
だが。
扉の向こうの兵士は続けた。
「……例の件の報告なんですが」
その瞬間。
アリアの目が細まる。
補給室が静まり返った。
数秒の沈黙。
やがてアリアは低く言った。
「……続けなさい」
扉の向こうから報告が始まる。
「例の暗部と思われる人物が、温泉街に出没した模様です」
ミーナの耳がぴくりと動く。
温泉街。
机の上の手紙。
フィリス。
嫌な予感が胸をよぎった。
帝国兵は続ける。
「目撃者によると、男は仮面を着用していた模様です」
アリアは無言。
だが視線が鋭くなる。
「現地では死者が二名確認されています」
「身元は帝国偵察兵です」
補給室が静まり返る。
「二名とも急所への一撃による即死」
「発見時には既に死亡していました」
アリアは黙る。
その瞳がゆっくり細くなる。
帝国兵はさらに続けた。
「また、現地の金級冒険者パーティが犯人と思われる人物と交戦」
「銀級冒険者一名が負傷」
「犯人は逃走した模様です」
報告が終わる。
しばらく誰も喋らない。
やがて。
アリアがぽつりと呟いた。
「帝国偵察兵を二人……」
低い声。
「しかも気付かれずに殺した」
尾がゆっくり揺れる。
それは彼女が何かを考えている時の癖だった。
「仮面を付けている……」
小さな呟き。
そして。
「ただの殺人犯じゃないわね」
その声は冷たかった。
「訓練を受けてる」
「しかも相当な手練れ」
帝国兵は黙って聞いている。
アリアはゆっくり立ち上がった。
椅子が小さく音を立てる。
窓の外を見る。
北方。
温泉街のある方向。
そして。
ぽつりと呟く。
「温泉街……」
その言葉に。
ミーナの心臓が大きく跳ねた。
アリアはしばらく考え込む。
そして帝国兵へ命じた。
「現地の報告書は全部私の所へ回しなさい」
「はっ!」
敬礼する兵士。
アリアは続ける。
「温泉街周辺にいる猟兵にも伝達」
「単独で追うな」
「相手は偵察兵二名を殺している」
「実力が分からない以上、無駄死にはさせない」
帝国兵が再び敬礼する。
「了解しました」
扉が閉まる。
補給室に静寂が戻る。
だが。
ミーナには分かっていた。
アリアはこの件を追う。
必ず。
そして。
もし温泉街へ向かえば。
フィリスと出会うかもしれない。
ミーナは机の上の手紙を見た。
そこには。
フィリスからの何気ない近況報告。
そして。
自分だけが知っている暗号。
震える手で、そっと封筒を握り締めた。
アリアは、しばらく動かなかった。
窓の外。
北方。
温泉街のある方角を見つめている。
補給室には重い沈黙だけが残っていた。
やがて。
アリアは踵を返す。
そのまま部屋の壁際へ向かった。
そこには帝国猟兵用の武器棚がある。
アリアは迷いなく一本の武器を手に取った。
帝国の新型兵器。
魔導歩兵銃。
最近になって帝国が実用化したばかりの兵器だ。
魔力を利用して特殊弾を撃ち出す。
まだ正式配備数も少ない。
アリアは慣れた手付きで弾倉を確認する。
カチリ。
無機質な音。
弾を装填する。
補給室の空気がさらに冷えた気がした。
ミーナは何も言えない。
アリアの様子が明らかにおかしかった。
殺気。
怒り。
執念。
それらが抑え切れず漏れ出している。
帝国兵ですら近寄れない空気だった。
アリアは銃を肩へ掛ける。
腰の短剣。
背中の弓。
そして魔導歩兵銃。
完全武装だった。
そのまま扉へ向かう。
ミーナは小さく声を出す。
「アリアさん……」
だが。
アリアは振り返らない。
扉の前で立ち止まる。
長い尾が静かに揺れる。
そして。
低く呟いた。
「私が……」
声には感情が無かった。
だからこそ恐ろしい。
「殺すわ」
誰を。
とは言わない。
だが。
ミーナには分かった。
温泉街に現れた犯人を。
そして。
ジンを死へ追いやったと思っている“誰か”を。
アリアは本気だった。
次の瞬間。
扉が開く。
凄まじい殺気だけを残して。
アリアは補給室を後にした。
バタン――
扉が閉まる。
ようやく空気が戻る。
ミーナは椅子へ座り込んだ。
身体が震えている。
止まらない。
先ほどまでのアリアは。
まるで獲物を見つけた猛獣だった。
ミーナは机の上の手紙を見る。
フィリス。
温泉街。
そしてジン。
震える手で封筒を握り締める。
「……フィリスちゃん」
小さな声。
「早く……逃げて……」
ミーナは知らなかった。
その温泉街にいるのが。
フィリスだけではなく。
アリアが死んだと思い込んでいる少年本人でもある事を。
アリアが去った後。
補給室には静寂が戻っていた。
先ほどまで充満していた殺気の残滓だけが、まだ空気に残っている気がする。
ミーナは椅子に座ったまま動けなかった。
震える手。
机の上の手紙。
フィリスからの手紙。
そして。
その中に隠された暗号。
『ジンみつけた』
『生きている』
何度見ても変わらない。
フィリスの筆跡だった。
ミーナは唇を噛む。
「……だめ」
小さな声。
「だめだよ……」
アリアは本気だった。
温泉街へ向かう。
犯人を追うために。
そしてもし。
もしそこでフィリスと会ったら。
フィリスはきっと話す。
ジンが生きている事を。
その瞬間何が起きるか。
ミーナには分からなかった。
だが。
良い事にはならない気がした。
机の上のクッキーを見る。
ジンの事を思い出す。
静かに笑う少年。
クッキーを食べながら、
「美味しいです」
と笑ってくれたあの顔。
そして。
ミーナは突然立ち上がった。
ガタンッ!!
椅子が倒れる。
周囲の補給兵達が驚いて振り返る。
ミーナは叫んだ。
「し、しばらく休暇をもらいます!!」
補給兵達がぽかんとする。
「は?」
「急に?」
「え?」
だが。
ミーナはもう聞いていない。
引き出しを開ける。
荷物をまとめる。
保存食。
着替え。
毛布。
最低限の旅装。
慌ただしく準備していく。
周囲は完全に置いていかれていた。
「ちょ、班長!?」
「どこ行くんですか!?」
ミーナは振り返る。
その目は真剣だった。
「温泉街!」
周囲が更に固まる。
ミーナは荷物を抱える。
そして。
小さく呟いた。
「アリアさんを止めなきゃ……」
震える声。
「ジン君は生きてるんだって……」
誰にも聞こえないくらい小さな声だった。
だが。
その言葉には強い決意があった。
ミーナは駆け出す。
補給室を飛び出す。
帝国の詰所を抜ける。
冬の空気が頬を刺す。
北方。
温泉街。
だが。
ミーナの足が少し止まる。
アリアは帝国猟兵だ。
しかも最精鋭。
移動手段も。
装備も。
身体能力も。
全部が違う。
普通に考えれば追いつけない。
それでも。
ミーナは拳を握る。
「……追いつかなきゃ」
誰に言うでもなく呟く。
そして。
雪の中へ走り出した。
温泉街へ。
家族を守るために。




