フィリス
エルカの狐耳が、ぴくりと立つ。
次の瞬間。
彼女は即座にフィリスの前へ立ち塞がった。
庇うように。
いや。
遮るように。
ギルドマスターとしての動きだった。
琥珀色の瞳が鋭く細められる。
「……待ちなさい」
低い声。
医務室の空気が、再び張り詰める。
たった今。
この鳥獣人は、“ジン”という名前を口にした。
それは。
今この場で極秘として扱われている名前だ。
ヴァレルも表情を消している。
シオンも警戒したまま。
レヴィアナの魔法陣も、まだ消えていない。
フィリスは、はっとしたように立ち止まった。
涙で濡れた眼鏡。
乱れた呼吸。
だが。
エルカの警戒に気付いた瞬間、青ざめる。
「ち、違っ……!」
言葉が上手く出ない。
その様子を。
ザインは寝台の上から静かに見ていた。
そして。
小さく息を吐く。
「……大丈夫ですよ」
掠れた声。
エルカが少しだけ振り返る。
ザインは、フィリスを見る。
雪まみれの鳥獣人。
ずっと探してくれていた人。
あの日。
自分を逃がそうとしてくれた人。
ザインは、少しだけ困ったように笑った。
「フィリスさんは……」
そこで少し言葉に詰まる。
黒い瞳が揺れる。
それから。
静かに続けた。
「……僕の」
「僕の、命の恩人ですから」
その言葉が落ちた瞬間。
フィリスの瞳から、また涙が溢れた。
エルカは、しばらくフィリスを見ていた。
やがて。
ゆっくりと警戒を解く。
狐耳が、少しだけ下がった。
フィリスは、その場で何度も頷く。
「っ……!」
「わ、私は……!」
涙声。
「ジン君を助けたくて……!」
震える声だった。
そこには。
敵意なんて欠片も無かった。
フィリスは、震える瞳でザインを見ていた。
そして。
ようやく気付く。
仮面が無い。
隠されていた顔が、露わになっている。
白く変わった髪。
左側を走る雷傷。
痩せた輪郭。
そして。
昔よりずっと静かになってしまった黒い瞳。
フィリスの呼吸が止まる。
「……ジン君」
掠れた声。
その名前を呼んだ瞬間。
今まで押し込めていた感情が、一気に溢れ出した。
ようやく会えた。
ずっと探していた。
崖下へ落ちたあと。
血痕しか残っていなかった。
どこを探しても居なかった。
毎日。
毎日。
“死んでいたらどうしよう”って考えていた。
そして何より。
――1人で逃がしてしまった。
あの日。
一緒に逃げるはずだった。
なのに。
自分は残って。
ジンだけが、あの雪山へ消えていった。
その後悔が。
罪悪感が。
全部、今ここで爆発した。
フィリスの瞳から、大粒の涙がぼろぼろ落ちる。
「っ……!」
呼吸が震える。
「よかった……」
声にならない。
羽毛混じりの肩が、小刻みに震えていた。
「生きてて……」
涙声。
「本当に……」
そこまで言って。
もう耐え切れなかった。
フィリスは、その場で泣き崩れる。
長い間ずっと張り詰めていた糸が、ようやく切れたみたいだった。
ザインは、その姿を静かに見ていた。
それから。
少しだけ困ったように笑う。
昔と同じ。
優しい笑い方だった。
「……ごめんなさい」
小さな声。
「心配かけました」
フィリスがようやく落ち着いた頃。
医務室の空気も、少しだけ静かになっていた。
フィリスは、ザインの隣へ椅子を引いて座る。
まだ目元は赤い。
だが。
今はちゃんと話を聞こうとしていた。
そして。
先ほどの襲撃について説明を受ける。
長身の男。
投げナイフ。
細剣。
爆発魔術。
そして。
“暁ジン”という名前を知っていた事。
話を聞いていくうちに。
フィリスの顔色が、みるみる青くなっていった。
「……まさか」
掠れた声。
眼鏡の奥の瞳が揺れる。
「元聖王国の暗部が……」
唇が震える。
「まだ、この子を狙っているんですか……!?」
医務室が静まり返る。
シオンが静かに言う。
「断定は出来ません」
「ですが、可能性はあります」
レヴィアナも腕を組んだまま頷いた。
「少なくとも、“普通の人間”じゃなかったわね」
ヴァレルが舌打ちする。
「しかも相当強ぇ」
フィリスは、ゆっくりザインを見る。
包帯だらけの身体。
失われた義手。
疲弊した顔。
そして。
それでも平気そうに笑おうとしている黒い瞳。
その姿を見た瞬間。
フィリスの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
――まただ。
――またこの子は、1人で危険な目に遭ってる。
フィリスは、無意識にザインの服の裾を握っていた。
「……ジン君」
小さな声。
心配そうな目。
まるで。
少しでも目を離したら、またどこかへ消えてしまいそうで怖いみたいだった。
エルカは、静かに腕を組んだまま言った。
「とりあえず、街の警戒は強めたわ」
狐耳がぴくりと揺れる。
「ここに居れば、ひとまず安心でしょう」
その言葉に。
ヴァレルも頷く。
「今、街に金級かなり集まってるしな」
レヴィアナも肩を竦めた。
「少なくとも、さっきみたいに好き勝手はさせないわ」
シオンは静かに付け加える。
「夜間巡回も増やします」
ルドヴィカは無言のまま、壁へ寄り掛かっていた。
だが。
その空気には、“守る側”の意思があった。
そして。
エルカは改めてザインを見る。
傷だらけの白髪の少年。
砕けた仮面。
静かな黒い瞳。
エルカは少しだけ真面目な顔になった。
「……なんで貴方が狙われてるかは、まだ分からない」
静かな声。
「でも、そのうちちゃんと話してちょうだいね」
ザインは少し黙る。
それから。
小さく頷いた。
「……はい」
その夜。
ザインは、ルドヴィカに抱えられながら宿へ戻る事になった。
「……自分で歩けます」
「駄目」
即答だった。
白熊獣人の腕はびくともしない。
フィリスが少し困った顔で後ろを歩いている。
ヴァレルは、その様子を見て笑っていた。
「完全に保護されてんな坊主」
「うるさいです……」
そして。
宿へ戻る。
扉を開けた瞬間。
ベリアリアが、ぱたぱたとこちらへやって来た。
白と灰色の髪。
柔らかな瞳。
だが。
ルドヴィカに抱えられたザインを見た瞬間、その顔色が変わる。
「ジン君!?」
その直後。
フィリスと目が合った。
「……あ」
フィリスが目を見開く。
「お久しぶりです、ベリアリアさん……」
ベリアリアも驚いていた。
「フィリスちゃん……!?」
だが。
すぐに視線がザインへ戻る。
包帯。
血の跡。
消えた義手。
ベリアリアの顔が、痛々しそうに歪む。
「……また」
掠れた声。
「またたくさん怪我をして……この子は……」
そこへ。
ヴァレル達が事情を説明する。
襲撃。
暗殺者。
“暁ジン”という名前。
元聖王国暗部らしき男。
話を聞くほど。
ベリアリアの顔から血の気が引いていった。
「そんな……」
細い指が、ぎゅっと握られる。
そして。
ベリアリアは、静かにザインを見る。
まるで。
今にも消えてしまいそうなものを見るみたいに。
それから。
優しく笑った。
少しだけ震えながら。
「……大丈夫よ」
柔らかな声。
「何かあったら」
「私が、ジンを守るわ」
その言葉に。
ザインの黒い瞳が、静かに揺れた。




