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欠けた少年の帰る場所  作者: 羽衣月
冒険者
103/197

再会

ザインは、その後しばらく温泉街へ滞在した。


雪は深い。


吐く息は白い。


だが、この街は不思議と暖かかった。


湯煙。


灯り。


人の声。


辺境街とはまた違う賑わいがある。


ザインは時折、一日で終わるような簡単な依頼を受けた。


荷運び。


周辺魔獣の討伐。


護衛。


銀級になった今では、本気を出す必要すら無い仕事ばかりだった。


風の刃が一閃すれば終わる。


だから。


以前より、街を歩く時間の方が長かった。


甘味処へ寄ったり。


雪景色を眺めたり。


露店を覗いたり。


温かなパンを買ったり。


夜には宿へ戻り、個室風呂へ浸かる。


そんな生活を繰り返していた。


不思議だった。


こんな風に。


“次の戦場”を考えずに生きる時間が。


ジンには、ほとんど無かった。


だからだろうか。


少しずつ。


本当に少しずつ。


気が抜け始めていた。


まるで。


もう誰も追って来ないみたいに。


もう逃げなくても良いみたいに。


仮面を付けたままではある。


名前も“ザイン”のまま。


けれど。


以前ほど、周囲へ怯えなくなっていた。


宿の栗鼠獣人の受付嬢とも、普通に会話するようになった。


ギルドの受付嬢とも顔見知りになった。


エルカにも時折「働き過ぎるなよ」と笑われる。


レヴィアナ達とも、何度か顔を合わせた。


ヴァレルは相変わらず騒がしく。


シオンは妙に気を遣い。


ルドヴィカは無言で頭を撫でてくる。


レヴィアナは、やたら甘味処へ連れて行こうとしてきた。


そんな日々が、続いていた。


だから。


ザインは、気付いていなかった。


――少しずつ、“普通の生活”へ慣れ始めている事に。



宿へ戻る頃には、外はすっかり夜になっていた。


雪が静かに降っている。


温泉街特有の湯煙が、橙色の街灯にぼんやり照らされていた。


ザインは宿の扉を開ける。


暖かな空気。


木の匂い。


穏やかな喧騒。


辺境街の荒っぽい宿とは違う、落ち着いた空気だった。


「おかえりなさいませ〜」


栗鼠獣人の受付嬢が、ぱたぱたと尻尾を揺らしながら顔を上げる。


丸い耳。


柔らかな茶色の髪。


相変わらず愛想が良い。


ザインは軽く会釈した。


「ただいま戻りました」


そのまま部屋へ戻ろうとした時。


受付嬢が、思い出したように声を上げた。


「あっ、ザインさん!」


ザインが振り返る。


受付嬢はにこっと笑った。


「そういえば、お茶はいかがですか?」


「本日、新しい茶葉が入ったんですよ〜」


ザインは少しだけ目を瞬かせる。


それから。


小さく頷いた。


「……頂きます」


「ありがとうございます〜!」


受付嬢は嬉しそうに笑う。


それから、少し声を潜めた。


「あ、それとですね」


「なにやら、宿のオーナーが直接ご挨拶させていただきますので、お部屋へお持ちしますね!」


ザインは少しだけ首を傾げる。


オーナー。


銀級。


個室離れ。


なるほど。


そういうものなのかもしれない。


辺境街では、ほとんどグリムヴァルドの家へ戻っていた。


こういう“ちゃんとした宿”の流儀には、まだ慣れていない。


「……分かりました」


ザインは静かに頷いた。


そのまま一階離れへ戻る。


広めの部屋。


武器手入れ用の机。


個室風呂。


暖かな灯り。


外套を脱ぎ、杖を壁へ立て掛ける。


それから椅子へ腰掛け、ふぅ、と小さく息を吐いた。


最近。


少しだけ気が抜けている気がする。


悪い意味ではなく。


ちゃんと休めている。


そんな感覚だった。


窓の外では雪が降っている。


静かな夜だった。


コンコン――。


静かなノック音が、部屋へ響いた。


雪の夜。


暖かな灯り。


静寂の中だったから、やけに大きく聞こえる。


「失礼致します」


扉越しに聞こえてきたのは、柔らかな女の声だった。


「お茶をお持ちしました」


優しい声。


穏やかな響き。


その瞬間。


ザインの身体が、ぴたりと止まる。


――聞き覚えがあった。


黒い瞳が僅かに揺れる。


呼吸が止まりそうになる。


だが。


すぐに、はっとしたように仮面へ触れる。


ちゃんと付けている。


白い髪も隠れている。


左腕の義手も展開済み。


確認してから。


ザインは静かに返した。


「……どうぞ」


ガチャリ。


ゆっくり扉が開く。


暖かな廊下の灯り。


そして。


「宿の主人の、ベリアリアでございます」


その声と共に現れた人物を見た瞬間。


ザインの思考が、止まった。


大きな身体。


白と灰色が混ざった柔らかな長髪。


牛獣人特有の角。


包み込むように穏やかな瞳。


白い宿衣。


そして。


優し過ぎるくらい柔らかな空気。


聖騎士団の癒術騎士。


ベリアリアだった。


ザインの黒い瞳が、見開かれる。


心臓が跳ねる。


頭が真っ白になる。


だが。


ベリアリアは、何も言わなかった。


驚いた様子も無い。


気付いていないのか。


それとも。


気付かない振りをしているのか。


分からない。


ベリアリアはザインの仮面を一瞥した後、静かに部屋へ入ってくる。


そして。


何事も無いように。


慣れた手付きで、テーブルへお茶を並べ始めた。


湯気。


茶葉の香り。


カップの触れ合う小さな音。


その全部が妙に現実感を失っていた。


「銀級の冒険者さんがお泊まりになるなんて、久しぶりなんですよ〜」


ベリアリアは穏やかに笑いながら、お茶を注いでいた。


白と灰色の長髪が、柔らかく揺れる。


湯気が立ち昇る。


部屋の空気は暖かい。


まるで昔と変わらない。


だからこそ。


ザインは動けなかった。


黒い瞳が、ただベリアリアを見ている。


頭が真っ白だった。


聖騎士団。


医務室。


暖かな大きな手。


眠る前に掛けられた毛布。


全部が、一瞬で蘇る。


ベリアリアは、そんなザインへ気付かず話を続ける。


「温泉街も最近は落ち着いてましたから」


「しかも銀級となると、やっぱりちょっと緊張しますねぇ」


柔らかな声。


優しい笑い方。


何も変わっていない。


ザインは、何も言えなかった。


喉が動かない。


声が出ない。


ただ固まっている。


やがて。


ベリアリアの手が止まった。


「あの……お客様?」


少し心配そうな声。


ザインは反応できない。


ベリアリアは、そっとザインを覗き込む。


仮面。


黒外套。


そして。


仮面の奥。


黒い瞳。


その瞬間。


ベリアリアの表情が、止まった。


呼吸が止まる。


黒い瞳。


見間違えるはずがない。


けれど。


あり得ない。


だって。


あの子は。


崖下へ――。


ベリアリアの瞳が揺れる。


「……え」


小さな声。


ザインと、目が合う。


その瞬間。


ザインの口から、自然に声が零れた。


掠れた声。


震える声。


「ベリ……アリア……さん?」


ベリアリアの瞳が、大きく見開かれる。


手から、かちゃり、とティーカップが鳴った。


揺れている。


白と灰色の長髪の奥で。


優しい瞳が、信じられないものを見るように震えていた。


今。


確かに聞こえた。


忘れるはずのない声。


何度も名前を呼んでくれた声。


眠る前に「おやすみ」と言ってくれた声。


怪我をして帰って来る度に、「大丈夫ですよ」と笑ってくれた声。


その子が。


今。


目の前に居る。


ベリアリアの喉が震える。


呼吸が浅くなる。


黒い瞳を見つめたまま、動けない。


あり得ない。


だって。


あの崖で。


あの雪の中で。


あの子は――。


「……っ」


唇が震える。


そして。


掠れた声が、零れた。


「ジン……?」


その名前が落ちた瞬間。


部屋の空気が止まる。


ザイン――いや、ジンの肩が小さく震えた。


ベリアリアは、一歩、ふらつくように近付く。


大きな手が、震えていた。


「……貴方、なの?」


信じたい。


でも信じるのが怖い。


そんな声だった。


「ジン……なの……?」


涙が滲み始めていた。


優しい癒術騎士の顔が、今にも崩れそうだった。


ザインは動けない。


椅子へ座ったまま。


ただ。


その光景を固まって見ていた。


ジンは、しばらく動かなかった。


黒い瞳が、ただベリアリアを見ている。


白と灰色の髪。


優しい瞳。


柔らかな声。


何も変わっていない。


変わってしまったのは、自分だけみたいだった。


やがて。


ジンは静かに手を伸ばす。


仮面へ触れる。


僅かに震える指。


ゆっくり。


本当にゆっくりと。


仮面を外した。


白い髪が零れる。


左側の雷傷。


幼さの残る顔。


そして。


黒い瞳。


全部、晒した。


ベリアリアの呼吸が止まる。


ジンは静かに口を開く。


「……お久しぶりです」


掠れた声。


少しだけ震えている。


「ベリアリアさん――」


言い切る前だった。


ガタンッ!!


椅子が大きく揺れる。


次の瞬間。


ベリアリアが、ジンへ抱き付いていた。


「――ッ!!」


凄い勢いだった。


大きな身体。


温かな腕。


強く。


壊れそうなくらい強く。


抱き締められる。


「ジン……!!」


涙声だった。


ベリアリアの肩が震えている。


「ジン……ジン……!!」


何度も名前を呼ぶ。


まるで。


本当に生きているか確かめるみたいに。


ジンの身体が硬直する。


何が起きたのか、一瞬分からなかった。


けれど。


胸元へ顔を押し付けられる。


温かい。


昔と同じ匂いだった。


医務室で。


眠る前に。


何度も感じた安心する匂い。


ベリアリアは泣いていた。


ぽろぽろと。


止まらないみたいに。


「良かった……!」


「生きて……っ、生きててぇ……!!」


声が崩れる。


ジンの黒い瞳が、ゆっくり見開かれる。


抱き締められている。


責められていない。


怯えられていない。


ただ。


“生きていて良かった”と泣かれている。


その事実が。


ジンには、信じられなかった。


ベリアリアは泣いていた。


ぽろぽろと。


大きな身体を震わせながら。


まるで。


いなくなった息子が、突然帰って来たみたいに。


ジンを抱き締める腕へ、さらに力が入る。


離したらまた消えてしまいそうで。


怖いみたいに。


「ジン……っ」


掠れた声。


涙で滲んでいる。


ジンは、まだ上手く動けなかった。


抱き締められたまま。


ただ、黒い瞳を揺らしている。


ベリアリアは震える声で続けた。


「貴方が……崖下に落ちたって聞いて……」


言葉が崩れる。


「探したのよ……」


白と灰色の髪が揺れる。


涙が、ジンの肩へ落ちていく。


「雪の中を……皆で……」


呼吸が乱れていた。


思い出すだけで苦しいのだろう。


「でも……」


抱き締める力が、少し強くなる。


「残ってたの……血の跡だけだった……」


ジンの瞳が、僅かに揺れる。


雪。


崖。


赤い血。


雷撃。


全部が一瞬で蘇る。


ベリアリアは泣きながら続けた。


「それで……」


声が震える。


「もう……死んじゃったんだって……思ってたぁ……!!」


堰を切ったように涙が溢れる。


ベリアリアは顔を伏せた。


大きな身体を小さく丸めながら、ジンへしがみ付いている。


ずっと。


抱え続けていたのだろう。


助けられなかった罪悪感を。


失った喪失感を。


ジンは、何も言えなかった。


ただ。


抱き締められたまま。


ゆっくり。


震える右手を持ち上げる。


そして。


昔みたいに。


ぎこちなく、ベリアリアの背中へ触れた。


しばらくして。


ベリアリアの涙は、ようやく少し落ち着いていた。


それでも目元は赤い。


白と灰色の長髪も、少し乱れている。


ジンは静かに椅子へ座り直していた。


仮面はもう外している。


黒い瞳。


左側の雷傷。


その全部を晒したまま。


テーブルには、少し冷め始めたお茶。


湯気がゆっくり揺れている。


ベリアリアは、ジンの隣へ座っていた。


距離が近い。


昔と同じだった。


医務室で怪我の治療をした後。


こうして隣へ座り、温かい飲み物を飲ませてくれた。


そんな記憶が蘇る。


ベリアリアはカップを両手で包み込みながら、ふわりと笑った。


優しい笑顔だった。


昔と何も変わらない。


「……ちゃんと、お茶飲めるくらい元気そうで良かったです」


ジンは少しだけ目を伏せる。


「……はい」


掠れた声。


でも。


さっきより、ずっと落ち着いていた。


ベリアリアは、ちらりとジンを見る。


白い髪。


痩せた身体。


失われた左腕。


見ているだけで胸が苦しくなる。


それでも。


生きている。


隣に居る。


その事実だけで、涙が出そうだった。


ベリアリアは、小さく笑う。


「白い髪も、似合ってますねぇ」


ジンが少し目を瞬かせる。


「……そうですか?」


「はい」


柔らかな声。


「でも私は、黒髪のジンも好きでしたよ」


その言葉に。


ジンの黒い瞳が、少しだけ揺れた。


懐かしい響きだった。


“好きでしたよ”。


昔からベリアリアは、そういう言い方をする。


優しく。


当たり前みたいに。


ジンは静かにカップへ口を付ける。


温かい。


胸の奥まで、少しずつ解けていくみたいだった。


窓の外では雪が降っている。


温泉街の夜は静かだった。


けれど今のジンには。


その静けさが、少しだけ心地良かった。


ベリアリアは、静かにジンを見つめていた。


黒い瞳。


白い髪。


そして。


顔の左側へ残る、痛々しい雷傷。


その傷を見た瞬間から。


彼女は、ずっと気付いていた。


ベリアリアの大きな手が、そっと伸びる。


まるで壊れ物に触れるみたいに。


指先が、ゆっくり傷跡を撫でた。


優しい手だった。


癒術騎士の手。


昔、何度もジンの怪我を治してくれた手。


「……これは」


掠れた声。


ベリアリアの瞳が、少しだけ揺れる。


「私の知らない傷ですねぇ……」


ジンの肩が、僅かに震える。


ベリアリアは、傷跡を撫でたまま静かに目を伏せた。


雷の焼痕。


鋭く抉れた傷。


見間違えるはずがない。


彼女は、あの雷弓を知っている。


よく知っている。


何度も隣で見てきた。


だから。


ぽつりと。


静かに呟いた。


「……アリアちゃんの弓、ね……」


その瞬間。


ジンの黒い瞳が、ゆっくり揺れる。


否定しなかった。


出来なかった。


ベリアリアは、少し苦しそうに笑う。


「そうですか……」


「本当に……あの子達……」


言葉が続かない。


責めたい訳じゃない。


きっと。


あの場に居た全員が壊れていた。


分かっている。


でも。


こうして実際に傷跡を見ると。


胸が苦しかった。


ベリアリアは、そっとジンの頬を包む。


「痛かったでしょう……」


優しい声だった。


母親みたいな声。


ジンはしばらく黙っていた。


それから。


小さく、小さく笑う。


「……結構、痛かったです」


少し冗談みたいに言う。


その笑い方が。


逆に痛々しかった。


ベリアリアは、また泣きそうな顔をした。


ベリアリアの手が、そっとジンの頬へ触れていた。


雷傷をなぞる指先は、ひどく優しい。


まるで。


壊れてしまったものを、必死に扱うみたいに。


ベリアリアは静かに目を伏せる。


白と灰色の長髪が、肩から流れ落ちた。


「……あの子達」


掠れた声だった。


「貴方を傷付けてから……相当、ショックだったみたいなのよ」


ジンの黒い瞳が、少し揺れる。


ベリアリアは続けた。


「本当に……貴方を傷付けるつもりじゃ、無かったみたいなの」


暖かな部屋。


静かな夜。


その中で、ベリアリアの声だけが静かに響く。


「ずっと、泣いてた子も居たし……」


「壊れたみたいに、何も喋れなくなった子も居た」


その言葉に。


ジンは、何も返せなかった。


崖。


雪。


雷。


斬撃。


全部を思い出しているのかもしれない。


ベリアリアは、そんなジンの頬を優しく撫でる。


「だから……」


少しだけ、困ったように笑った。


涙を堪えるみたいな笑み。


「もし……会えたとしたら」


優しい声だった。


本当に優しい声。


「責めないであげてちょうだいね」


ジンの黒い瞳が、ゆっくり伏せられる。


しばらく沈黙が続いた。


暖炉の火が、小さく鳴る。


やがて。


ジンは小さく息を吐いた。


「……責めて、ないですよ」


掠れた声。


でも。


嘘では無かった。


「皆……壊れてましたから」


静かな言葉だった。


怒りではなく。


諦めでもなく。


ただ。


本当にそう思っているみたいに。


ベリアリアは、その返答を聞いて目を細める。


そして。


泣きそうな顔で、少しだけ笑った。


「……貴方は、本当に優しい子ですねぇ」


「……そういえば」


ジンは、静かにカップを置いた。


黒い瞳が、少しだけ揺れる。


「ルシャさんや……アリアは、どうなったんですか?」


その名前が出た瞬間。


ベリアリアの表情が、少し曇る。


白と灰色の髪が、静かに揺れた。


しばらく。


彼女は答えなかった。


まるで。


言葉を探しているみたいに。


やがて。


ベリアリアは静かに首を横へ振る。


「……分からないわ」


掠れた声だった。


「私……あの後、すぐに聖騎士団を辞めちゃったから……」


ジンの黒い瞳が、静かに伏せられる。


ベリアリアは続けた。


「貴方が崖下へ落ちてから……皆、壊れちゃって」


「聖騎士団も、もうまともじゃなかったの」


暖炉の火が、小さく鳴る。


「私は……あそこに居られなくなって」


少し苦しそうに笑う。


「逃げるみたいに辞めちゃった」


ジンは静かに聞いていた。


ベリアリアはカップを両手で包み込む。


「最後に見た時は……」


そこまで言って、少し目を伏せた。


「皆、ちゃんと眠れてなかったわねぇ……」


優しい声だった。


責めるでもなく。


ただ、疲れ切った誰か達を思い出すみたいに。


ジンは何も言わない。


窓の外を見る。


雪が降っている。


しばらく沈黙が続いた後。


ベリアリアが、そっと笑った。


「でも」


優しい声。


「もし生きてるって知ったら……きっと皆、泣くわよ」


その言葉に。


ジンの黒い瞳が、ほんの少しだけ揺れた。


ジンは、しばらく何も言わなかった。


窓の外を見ている。


雪。


湯煙。


静かな温泉街の夜。


その横顔は、どこか幼かった。


やがて。


ぽつりと。


小さく言葉が零れる。


「……僕」


黒い瞳が、静かに伏せられる。


「家族に、殺されそうになったんだって……思ってました」


掠れた声だった。


感情を押し殺した声。


でも。


ずっと胸の奥へ刺さっていた言葉なのだと分かる。


ベリアリアは何も言わない。


ただ静かに聞いている。


ジンは続けた。


「崖に追い込まれて」


「脚を射抜かれて」


「斬られて」


指先が、少し震える。


「だから……嫌われたんだって」


「もう要らないんだって……」


そこまで言って。


ジンは、小さく息を吐いた。


そして。


少しだけ。


本当に少しだけ。


安心したみたいに笑った。


「……でも、違ったんですね」


黒い瞳が、ゆっくり細められる。


「それだけ知れて……良かった……」


その笑顔は。


ひどく儚かった。


怒りじゃない。


恨みでもない。


ただ。


ずっと怖かった事が、少しだけ解けたみたいな顔だった。


ベリアリアは、その表情を見た瞬間。


また泣きそうになる。


この子は。


最後まで。


“家族だったかどうか”を気にしていたのだ。


恨まれていたか。


捨てられたか。


そこばかり気にしていた。


ベリアリアは、静かにジンの頭を抱き寄せる。


大きな胸元へ。


優しく。


包み込むように。


「……当たり前でしょう?」


涙混じりの声だった。


「皆、貴方の事……大好きだったのよ」


「……良かった……」


ジンは、小さく呟いた。


本当に。


胸の奥から零れ落ちたみたいな声だった。


黒い瞳が、ゆっくり閉じられる。


張り詰めていたものが。


少しずつ。


少しずつ解けていく。


ベリアリアは何も言わず、ただ優しく抱き締めていた。


大きな腕。


暖かな体温。


昔と同じだった。


ジンは、ゆっくりその胸元へ顔を埋める。


白と灰色の髪から、懐かしい香りがした。


薬草。


温かい毛布。


医務室。


眠る前に聞こえた優しい声。


全部を思い出す。


ジンの肩が、小さく震える。


そして。


掠れた声で。


そっと言った。


「……ずっと」


言葉が詰まる。


まるで。


子供みたいに。


「……会いたかったです」


黒い瞳が、ゆっくり伏せられる。


「ベリアリアさん……」


その瞬間。


ベリアリアの瞳から、また涙が溢れた。


「……っ」


抱き締める力が、少し強くなる。


まるで。


もう二度と離さないみたいに。


ベリアリアは泣き笑いみたいな顔で、ジンの白い髪を撫でた。


「私もよぉ……」


震える声。


「私も……ずっと……会いたかったぁ……」


暖かな部屋。


雪の夜。


静かな温泉街。


その一室だけが。


まるで。


失くした家族を取り戻したみたいに、温かかった。

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