1. お待たせ、オーレリー
「君は一人でも平気だろう? 彼女は僕がいないと駄目なんだ」
王宮の大広間は、春の終わりの花の夜会で賑わっている。花の香りの中で、笑い声が弾む。最初の一曲は、楽師の壇の前で王子が婚約者と踊ることになっている。
第二王子アメデ殿下の白い手が、私の手を離した。右手の三つの指輪が、指の間をすり抜ける。握り返そうとしていた手を引き、扇を持ち直す。殿下は穏やかな声で続ける。
「幼馴染だから、放っておけないんだ。君なら、曲が終わるまで待てるさ」
淡い金の髪が、右の肩を滑った。殿下が取るのは、金の巻き毛を肩に下ろしたヴェロニクの手。彼女は私を見ない。楽師の弓が上がり、最初の音が床を渡る。私の前を空けたまま、踊りの輪が動きだす。護衛騎士のジスランさまも、壁ぎわにいる。
四年、一度も、殿下に名を呼ばれたことがない。私への呼びかけは、「君」だけだ。鏡の壁には、ゆるく編んで左の肩へ下ろした濃い栗色の髪と、深い緑の目。結んだ口だけは、笑う形に直しておく。
そばの令嬢が、扇の陰に口を隠した。
「また、ですわね。最初のお相手は、毎年同じですもの」
扇の骨を握る。白い骨は細く、力を込めても音を立てない。涙の代わりに、指へ筋がついた。第二王子宮の帳簿を四年預かっている手だ。
ヴェロニクは、殿下の乳姉妹。母が乳母だった娘を、殿下は「幼馴染」と呼ぶ。王は国境の視察で、王都にいない。
壁ぎわから、短く刈った金茶の髪が近づいた。鏡に、ジスランさまの肩が並ぶ。令嬢たちより高い私の肩も、彼の肩には届かない。扇を握る長い指まで鏡に映る。ジスランさまは私の隣で足を止める。
「殿下の婚約者を一人にしない。それも護衛の仕事です。ここにおります」
「お仕事を増やしてしまいましたのね。曲が終わるまで、ここで待つだけですわ。お邪魔はいたしません」
彼は私の手を見てから、顔を上げた。暗い青の目は、鏡の中の二人へ向かない。言葉が途切れても、ジスランさまの目は私から離れない。
「泣かないのですね」
「毎年のことですもの。今夜だけ、決まりが変わったわけではありませんわ。待つ場所も、もう覚えておりますわ」
「手が、白くなっています」
ジスランさまはヴェロニクの兄だ。その兄の前で、私は扇を持ち上げた。指を隠すつもりが、白い筋までよく見える。下ろせばいいのに、手が止まった。見ていてくださったの、の一句は、扇の骨と一緒に握ったままになる。曲は進む。閉じた扇の骨を、また揃える。
◇
曲が終わると、最後の音が天井へ逃げる。ヴェロニクが殿下の手をほどいた。細身の腕の先、白い手と三つの指輪が宙に残る。淡い青の目が、まっすぐ私を見る。壇の下から鏡の前を通って、彼女は歩いてくる。踊っていたときより、足取りが軽かった。令嬢たちの扇が、その足取りを追う。
ジスランさまが後ろへ下がる。彫りの深い顔の口元は動かず、顎の剃り跡だけが灯りに浮いた。空いた場所へ、ヴェロニクが入る。扇を持たないほうの私の手を取り、指先まで握り込む。
「お待たせ、オーレリー。今夜の分、全部覚えたわ」
殿下が選んだ幼馴染は、最初から私の味方だ。
学院で三年、同じ部屋で寝起きした親友。殿下の言葉を覚えて、届けてくれる。握られた手から先に力が抜けた。鏡の中の細面が緩む。結んでいた口も、彼女の名を呼ぶ形になる。
「お帰り、ヴェロニク。待ってたわ。扇を開くのも忘れるくらい」
「ほら、離して。扇のほうは逃げないわよ」
「分かってる。……思ったより、しっかり握ってたのね」
指から骨を離すと、殿下が追ってきた。指輪を回しながら、ヴェロニクへ言う。
「ヴェロニク、君までそちらへ行くことはない。僕の隣にいたはずだ」
「だって殿下、オーレリーは私の親友ですもの。ご存じなかった?」
殿下の菫色の目が、私たちの間で止まる。甘えた声で笑うヴェロニクの、小さな顎と八重歯。殿下は指輪から指を離した。
「へっ?! そ、そんなことは聞いていないぞ。二人とも、ずっと同じ夜会にいたのに」
私は扇を持ち直す。口元へは上げずに、殿下へ顔を向けた。
「お尋ねになりませんでしたから。お話しする機会は、いつも次の曲までのお預けでしたわ」
差し出される殿下の手を、扇で塞がない。ただ、取らない。白い手が動きを止めた。殿下は、私の扇へ目を落とす。
「君はいつも黙っている。待ってくれるから、困っていないんだと思うさ」
「まあ、殿下。ご丁寧にありがとう存じます。私にお尋ねになったのは、四年で三度。今夜のは、お答えを待っていらっしゃらなかったもの」
ヴェロニクが私へ顔を寄せ、殿下には届かない低さで笑った。八重歯が、今度は隠れない。
「あいつ、返事を待つのも苦手なのね。四度目、来るかしら?」
殿下はヴェロニクを呼ぶ。
「ヴェロニク! 次の曲だ。僕と踊る分まで、ここで話してしまうつもりだな」
「次はオーレリーと踊るの。女同士でも、踊れるでしょう? 殿下の分は、さっき済みましたもの」
殿下の手を誰も取らず、そばの令嬢の扇がそちらへ向いた。その令嬢が、扇の陰でささやく。
「殿下が、お一人。次の曲をお待ちになるのは、殿下ですわね」
ヴェロニクの手に、私の手を預ける。鏡の中の濃い栗色と金が、並んで回った。扇は閉じたままでいい。
◇
曲のあと、二人で柱の陰へ入る。小柄なヴェロニクは足取りも軽い。私の袖を握って、声を落とした。
「花の夜会の夜の分よ。『あの女は帳簿しか見ない。君は違う』。あいつが口にしたとおり。足しても、減らしてもいないわ」
「では、余白に日付をつけるわね。数字の行は読んでくださるもの。その隣なら、お言葉も目に入りますわ」
帳簿の余白へ、今夜の日付とともに書くと決める。袖の布が、私とヴェロニクの間でぴんと張った。八重歯を見せているのに、彼女の声は笑っていない。
「日付も、あいつの言葉も、間違えないわ。だけど、腹が立つ。あなたの書く手は私が知ってる。あんな言い方、ないじゃない」
「怒ってくれて、ありがとう。そこは、余白には書かないでおくね」
「そういうところよ! 私の怒った分まで、きれいに収めないで。今夜くらい、その指を休ませていいのよ」
「休ませるつもりなんだけど……指のほうが、なかなか言うことを聞かないだけ」
「だったら、私の手を握って。帳簿より柔らかいわよ。強く握ったって、怒らないわ」
袖をつかんでいた手が、私の前で開く。私は扇を持ち替えた。空いた指の筋を見て、伸ばす手を止める。
「握ったら、痛いかもしれないわよ? ふふっ」
「いいに決まってるじゃない。ほら、遠慮しないで」
差し出した指に、ヴェロニクの指が重なった。私は、握る力を少し緩める。空いた隙間を、彼女の指が埋めてくれた。
「うん。今夜の分は、あとで。余白は、殿下から婚約を解いていただく日まで足りるはず。そのときも、私の隣にいてね」
「いるわよ。今、手まで握ってるじゃない。……兄さまが、こっちを見てるわ。護衛の目じゃないみたい」
「護衛の目よ。殿下の婚約者を、見張っていらっしゃるの」
手を離したヴェロニクが、また私の袖を握る。布越しにも、温かかった。柱の陰には燭台の火が届かない。壁ぎわでは、長身のジスランさまがこちらを見ていた。騎士の肩の下、右手の甲に古い傷がある。私を見ている目が、鏡を通さずそこにある。
柱の端で、殿下の指輪が灯りを返した。整った顔の薄い唇が、笑う形に開く。目は笑っていない。
「ヴェロニク、次の曲は僕と。君も、待つくらいはできるはずさ」
ヴェロニクが、私の袖を握り直した。私は扇を開く。骨が、端まできれいに広がる。殿下の白い手へ、扇の先を向けた。
「では殿下、次はどちらを優先なさいます?」




