第7話 本と手紙と、少しの時間
ルシェルがミラースト公爵家にやってきてから、あっという間に十年が経った。
* * *
ルシェルの誕生日には、毎年本のプレゼントが大量に届いた。
贈り主は、決まっていた。
星の図鑑、古代語の辞書、隣国の歴史書、古代錬金術入門。
「……お父様。この錬金術書ってちゃんと本物?」
「書店の者はそう言っていたが……」
「内容、半分くらい間違ってるけど」
「……そうか」
ベルファルグは、少しだけ肩を落とした。
翌年には、書店の者ではなく、自分で選んだ本が届いた。
あとで本人には言えなかったけれど、一番読み応えがあったのは結局私が自分で選んだ本だった。
そして、週に一度、夜の書斎で二人きりで過ごす時間もできた。
ベルファルグは書類を片付け、ルシェルは本を読む。
会話は少ない。
紅茶が冷めるころに、ベルファルグが「そろそろ寝なさい」と言い、ルシェルが「あと少し」と返す。
それが、毎週、繰り返された。
それに、ベルファルグが出張から戻るたびに、土産も増えていった。
隣国の珍しい鉱石。
真鍮の望遠鏡。
歯車だらけの古い懐中時計。
「お父様、これ、分解していい?」
「……壊すなよ」
「直すよ。前より正確にする」
一週間後、懐中時計は、市販のどの時計よりも正確に動いていた。
それをルシェルがベルファルグにあげたら、ベルファルグはそれを胸ポケットに入れて、一日中ご機嫌だった。
* * *
この十年の間に、レオナルドとの手紙も続いていた。
手紙のやり取りは最初こそ、ひどく堅苦しいものだった。
――拝啓、レオナルド殿下。お貸しいただいた『星の名前の由来』を拝読いたしました。つきましては、以下の通り、所感を申し上げます。
便箋五枚の、立派な感想文だった。
返ってきた手紙も、同じくらい堅苦しかった。
――ルシェル嬢。ご丁寧な感想、感謝いたします。第二章の見解について、いくつか異論がありますので、以下に記します。
七枚だった。
月に一度、二度と、手紙が往復するうちに、内容はどんどん難しくなっていった。
天体の運行。
物質の最小単位。
魔力の伝わり方についての仮説。
そのうち、レオナルドの手紙から、「拝啓」が消えた。
――ルシェル。昨日の返事読んだよ。第三章の注釈、やっぱり君の言う通りだった。悔しいから、今度は僕が君の間違いを探してみせるよ。
ルシェルはそれを読んで、少し考えてから返事を書いた。
――見つからないと思いますよ、きっと。
次の手紙には、「でも、探すのが楽しいんだ」と書かれていた。
そして、いつからか二人の手紙はすっかり砕けたものになっていった。
論文の応酬の合間に、近況やくだらない愚痴や、その日読んだ本の感想が当たり前のように混ざる。
父に対するほど砕けてはいない。
けれど、ルシェルにとって、レオナルドは、間違いなく、一番話の合う友人になっていた。
「お嬢様、また王宮から」
「ありがとう。そこに置いておいて」
侍女は、今日も微笑ましそうに机の上に手紙を置いて去っていく。
便箋の最後には、毎回一行だけ短い言葉が添えられていた。
――元気にしてる? 無理は、してない?
ルシェルはいつも、それを不思議に思いながら「元気ですよ。そっちはどうです?」とだけ書いて返すのだった。
* * *
十二歳の春、ルシェルは社交界デビューを果たしていた。
貴族の令嬢として、避けては通れない通過儀礼だった。
けれど、出発前。
ベルファルグは、真剣な顔でルシェルに言った。
「いいか、ルシェル。どうしても出なければならないもの以外は、出なくていい」
「……いいの?」
「ああ。お前が無理をして出る必要はない。断りの手紙は、私が書く」
「分かった。ありがとう、お父様」
ルシェルは、ほっとして頷いた。
実際、それからルシェルが出席する場は、ほとんどなかった。
例外は、王族が主催するパーティーや、お茶会だけ。
断れないからというのもあったが、ルシェルにとっては、それはそんなに悪い時間ではなかった。
なぜなら、そこには必ずレオナルドがいたからだ。
「ルシェル」
「殿下。……今日も、人が多いですね」
「うん。だから、あっちの庭に行こう。静かな場所を見つけておいたんだ」
「さすが……」
周りの視線をさらりと躱して、二人は並んで庭へ抜け出す。
誰にも邪魔されず、本の話や新しい仮説の話をする時間は、ルシェルにとって数少ない息抜きだった。
最初は、ベルファルグがルシェルの手を引いて会場に入っていた。
それが変わったのは、十四歳の夜会だった。
王宮の大広間の入口。
ベルファルグが、ルシェルに腕を差し出そうとした、そのとき。
先に、別の手がすっと伸びた。
「ルシェル。……僕に、エスコートさせてもらえないかな」
少しだけ背が伸びたレオナルドが、穏やかに微笑んでいた。
ルシェルは、きょとんとして、ベルファルグを見上げる。
「お父様、いい?」
「…………」
ベルファルグは、何かを飲み込むような顔で、たっぷり三秒、沈黙した。
それから、深く、息を吐いた。
「……殿下。娘を、くれぐれも、頼みます」
「はい。責任を持って」
「あと、最初のダンスの後は、必ず、私のところに戻すように」
「……努力します」
それから、パーティーのたびにルシェルの隣にはレオナルドが立つようになった。
やがて、貴族たちの間で、噂が広まっていった。
「ミラースト公爵家のご令嬢、王太子殿下の婚約者最有力候補だとか」
「あれだけ親しげでは、無理もありませんわね」
「魔法が使えないのは、少々惜しいけれど……」
噂は、当然ルシェルの耳にも入った。
けれど、ルシェルは、特に何も思わなかった。
――事実じゃないし、どうでもいい。
その夜、書斎で、ベルファルグは、言いにくそうに切り出した。
「……ルシェル。最近の噂のことだが」
「聞いてる」
「もし嫌なら、はっきり断ればいい。殿下であろうと、お前の気持ちが一番大事だ」
「嫌?」
ルシェルは、首を傾げた。
「嫌とか、考えたことない」
「…………」
「殿下は友達だし。婚約とか、よく分からない」
ベルファルグは、安心したようなそうでないような。複雑な顔で深く頷いた。
しかしそんななか、噂の渦中のレオナルドは否定も肯定もせず、ただ、少し嬉しそうに微笑んでいたのだった。
。
もちろん、ルシェルはそんなことは知りもしなかった。
* * *
一方、リディアとの仲は、この十年で少しも良くならなかった。
リディアが五歳のときは、廊下ですれ違ってもぷいと顔を背けた。
七歳のときは、食卓で「お姉様は本ばっかり」と言った。
九歳のときは、ルシェルの誕生日の贈り物を見て、「お父様は、お姉様ばっかり」と泣いた。
十歳のとき、ルシェルが借りてきた大事な本が、庭の池に沈められた。
犯人は誰が見ても明らかだった。
「…………」
物陰に隠れているリディアは、そわそわしていた。
ルシェルは、水面を見つめた。
濡れた本は、もう読めない。
けれど。
「あの本、もう読み終わってたから、別にいいや」
「…………!」
「内容は全部覚えてるし」
ルシェルは、そのまま書斎へ戻っていった。
残されたリディアは、顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。
十二歳のとき、リディアは魔法の才能を認められた。
同年代の中でも群を抜いて優秀だと、家庭教師たちは口を揃えて褒めた。
「お姉様は、魔法も使えないのに」
その日の夕食で、リディアはそう言った。
ベルファルグが、すっと目を細める。
けれど、先に口を開いたのは、ルシェルだった。
「そうだね。リディア、すごいね」
「……っ」
「どうやって練習してるの? 魔力の流し方あとで教えて」
「だっ、誰が教えるもんですか!」
リディアは、椅子を蹴って食堂を出ていった。
マリアンヌが、困ったように微笑んで、「ごめんなさいね、ルシェル」と言う。
その声はとても優しかったが、ルシェルは特に何も感じなかった。
――なんで怒ったんだろう。
ルシェルは、心の底から、不思議だった。
リディアのほうは、知っていた。
あの日、庭で自分を助けたのが誰なのか。
あの日、目の前でありえないことが起きたのを、はっきりと見たのだ。
だから、余計に腹が立つ。
魔法も使えないくせに。
変なくせに。
それなのに、お父様も、殿下も、あの人ばかり。
その気持ちは、年を重ねるごとに少しずつ固くなっていった。
* * *
そして、ルシェルは、十六歳になった。
王立学院の入学を、明日に控えた夜。
部屋には、荷造り用の大きな鞄が置かれていた。
中身の半分以上は、本だった。
「お嬢様、さすがに多すぎます」
「これでもだいぶ減らしたんだ」
「あと、お召し替えの数も……」
「着られれば何でもいいって」
侍女が、ため息をついた。
その背後で、扉が叩かれる。
「ルシェル。入ってもいいか」
「どうぞ」
入ってきたベルファルグは、手に、小さな箱を持っていた。
「入学祝いだ」
「ありがとうございます。……開けていい?」
「ああ」
箱の中には、銀色の髪留めが入っていた。
細い鎖の先に、小さな、紫の石が揺れている。
「お守りだ。身につけていれば、何かあったとき私にすぐ分かる」
「…………」
「迷惑か?」
「ううん。……ありがとう、お父様」
ルシェルは、素直にそれを受け取った。
ベルファルグは、何かを言いかけてやめた。
それから、ルシェルの頭をそっと撫でた。
「無理はするな。力は……できるだけ使わないようにな」
「努力はします」
「それでいい」
十年前と、あまり変わらないやりとりだった。
ベルファルグが部屋を出ていくと、机の上に一通の手紙が残されていた。
王宮の紋章。レオナルドからだった。
――明日から、同じ学院だね。やっと、毎日会える。
楽しみすぎて、昨日は一睡もできなかった。
それだけが、短く書かれていた。
ルシェルは、首を傾げた。
「……眠れないなら、寝ればいいのに」
論文の応酬ばかりだった十年間に比べると、あまりにも簡単な文面だった。
ルシェルは、少し考えてから返事を書いた。
――私も、図書館が楽しみです。殿下もちゃんと寝てくださいね。
そして、廊下に出たところで、リディアと鉢合わせた。
十四歳になった妹は、腕を組んでこちらを睨んでいた。
「……お姉様」
「なに?」
「せいぜい、恥をかかないことね」
「うん。ありがとう」
「ありがとうじゃなくて!」
リディアはくるりと背を向けて、足音も荒く去っていった。
ルシェルは、その背中を不思議そうに見送った。
「……なんで怒ってるんだろう」
窓の外には、満月が浮かんでいた。
明日から、学院での生活が始まる。
ルシェルは鞄の中に、もう一冊だけ本を詰め込んだ。




