第5話 初めての抱擁
それから、一ヶ月ほどが経った。
公爵家での生活にも、ルシェルはすっかり慣れていた。
朝は授業。
昼は書斎。
夕方になると、庭で本を読む。
それが、いつもの一日だった。
その日も、ルシェルは庭の木陰で本を読んでいた。
開いているのは、魔力の流れについて書かれた古い魔法書。
分からない部分に、頭の中で印をつけていく。
「……お姉様」
不意に、声がした。
顔を上げると、少し離れた場所に、リディアが立っていた。
プラチナブロンドの髪を風に揺らして、小さな両手で、ぎゅっとスカートを握っている。
「何?」
「……べつに」
リディアは、ぷいと顔を背けた。
けれど、立ち去る様子はない。
この一ヶ月、ずっとこうだった。
近づいてくるわけでもなく、離れるわけでもなく。
少し遠くから、ルシェルを見ている。
――観察されている。
ルシェルは、そう受け取っていた。
悪い気はしない。
むしろ、自分と同じことをしているな、と思った。
「用がないなら、本を読むけど」
「……読めば、いいじゃない」
「うん」
ルシェルは視線を本に戻す。
リディアはしばらく黙っていたが、やがて、庭の奥へ歩いていった。
侍女が一人、少し後ろからついていく。
庭の奥には、小さな池があった。
石の縁に囲まれた、丸い池。
睡蓮が浮かび、水面が陽の光を反射している。
ルシェルは、特に気にしなかった。ページをめくる。
その時。
――ぱしゃん。
水の音。
それから、侍女の短い悲鳴。
「お嬢様!?」
ルシェルは、顔を上げた。
池の縁。
リディアが、石の縁の上に立っていた。
蝶でも追いかけていたのだろうか。
足元の苔に、小さな靴が滑る。
小さな身体が、ぐらりと傾いた。
背中から、池へ。
「あ――」
リディアの声。
侍女が手を伸ばす。
届かない。
間に合わない。
四歳の少女が、水面へ落ちていく。
――死ぬかも。
ルシェルは、そう思った。
池は深い。
四歳の子供なら、足がつかない。
侍女が飛び込むまでの数秒は、あまりにも長い。
考えるより先に、身体が動いていた。
胸の前に右手を突き出して、
――止まれ。
念じる。
その瞬間。
水面に触れる直前で、リディアの身体が、ぴたりと止まった。
「……え?」
リディアが、目を見開く。
宙に浮いている。
濡れていない。
小さな身体が、ふわりと、ゆっくり、池の縁へ戻されていく。
足が、石の縁に触れた。
ルシェルは、そこで力を緩めた。
リディアは、そのまま、地面にぺたんと座り込んだ。
「お嬢様! お嬢様、ご無事ですか!」
侍女が駆け寄る。
リディアを抱き上げ、全身を確かめる。
濡れていない。
傷もない。
侍女は、安堵と混乱が入り混じった顔をしていた。
「……よかった……滑ったのに、運よく……」
運がいい、で済ませるしかないのだろう。
侍女は、何が起きたのか見ていなかった。
見ていたのは、リディアが無事だったという結果だけ。
けれど。
リディアは、見ていた。
侍女の腕の中で、リディアは、ゆっくりと振り返った。
視線の先には、木陰のルシェルがいる。
左手に本を持ったまま、右手を胸の前に掲げて立ち上がっていた。
「……お姉様」
リディアの声は、震えていた。
「今の、なに?」
「何が?」
ルシェルは、できるだけ平坦に答えた。
「私、浮いた」
「滑って、転んだだけでしょ」
「違う。浮いたもの」
「気のせい」
「違う!」
リディアは、首を振った。
青い瞳が、ルシェルをまっすぐ見ている。
怖がっているのか。
驚いているのか。
それとも――。
そのどれでもない顔だった。
「お姉様は……変」
ぽつりと、リディアは言った。
「そう」
ルシェルは、短く頷いた。
反論する理由がない。
実際、変なのだから。
――そのとき。
「ルシェル!」
庭に、男の声が響いた。
屋敷のほうから、ベルファルグが走ってくる。
外套を羽織ったまま。
帰宅したばかりなのだろう。
息を切らしていた。
屋敷のテラスから、彼は、一部始終を見ていたのだ。
彼は、池の縁にいるリディアを見た。
侍女の腕の中で無事なのを、一瞬で確認する。
そして、真っ直ぐに、ルシェルのほうへ来た。
「ルシェル」
目の前で、膝をつく。
両肩を、掴まれた。
「怪我は? 頭は痛くないか? 気分は悪くないか?」
「……ない」
「本当に?」
「うん」
ベルファルグの手が、ほんの少し、震えていた。
次の瞬間。
ルシェルの身体は、強く、抱き締められていた。
「……!」
ルシェルは、目を瞬いた。
腕が、背中に回っている。
胸が、近い。
心臓の音が、聞こえた。
速い。
とても。
抱き締められるのは、初めてだった。
前世でも。今世でも。
手を握られたことはある。
けれど、これは、手とは全然違う。
温かくて。
重くて。
少し、苦しい。
「……苦しい」
「あ、ああ……すまない」
ベルファルグは、腕を緩めた。
けれど、離れはしなかった。
肩に手を置いたまま、ルシェルの顔を覗き込む。
「……見ていたよ。全部」
「…………」
「あの力を使って、体は何ともないのか?」
「……別に、そうでもないけど」
「そうか……よかった……」
ベルファルグは、深く息を吐いた。
そして、少し離れた場所にいるリディアと侍女に、視線を向ける。
「リディアは、無事だな」
「はい、旦那様。濡れてもおりません」
「そうか」
彼は、本当に、安堵した声で言った。
それから、ルシェルを見る。
「ありがとう、ルシェル。リディアを助けてくれて」
「……うん」
ルシェルは、少し考えた。
「……お礼を言われることなの?」
「ああ」
「そう……そうなんだ……」
「そうだな」
それだけだった。
ベルファルグは、一瞬、言葉に詰まって。
それから、小さく笑った。
泣きそうな顔で。
* * *
その夜。
ルシェルは、ベルファルグの書斎に呼ばれた。
壁一面の本棚。
机の上のランプ。
向かいの椅子に座ると、ベルファルグは、静かに口を開いた。
「ルシェル。いつから、あの力を使えるんだ?」
「……三歳のとき」
「孤児院で?」
「熱が下がったあとから。気づいたら、できた」
半分は、本当のことだ。前世のことは、言っていない。
言うべきかどうか。
ルシェルは、まだ決めていなかった。
「そうか」
ベルファルグは、それ以上、詮索しなかった。
代わりに、椅子から立ち上がり、ルシェルの前に膝をつく。
「いいか、ルシェル。大切な話だ」
「うん」
「あの力は、私以外の誰にも、見せてはいけない」
「……隠せってこと?」
「そうだ」
「それは……面倒」
「面倒でも、だ」
ベルファルグは、真剣な目をしていた。
「魔法の使えない子供が、魔法とは違う、未知の力を持っている。それを知れば、人はどうすると思う?」
「……調べたがる」
「それもある。だが、恐れる者もいるだろう。利用しようとする者もいる」
ルシェルは、黙った。
それは、分かる。
前世で、嫌というほど見てきたことだ。
――最初は、誰もが歓迎した。けれど。
「君を、そういう目に遭わせたくない」
「……守る、ってこと?」
「ああ。守りたい」
ルシェルは、その言葉を、少し考えた。
守る。
前世で、あまり縁のなかった言葉だ。
意味は、分かる。でも、実感がない。
けれど、先ほどの腕の感触は、まだ残っていた。
「……分かった」
「本当か?」
「努力する」
ベルファルグは、目を丸くして、それから、吹き出した。
「努力、か」
「院長が、そう言ってた。それで十分だって」
「……ああ。それで十分だ」
彼は、ルシェルの頭に、そっと手を置いた。
大きな手。少し、不器用な撫で方だった。
「だが、無理はするな。あの力を使ったら、必ず私に言いなさい。頭が重くなるのだろう?」
「うん」
「約束だ」
「……約束」
* * *
同じ頃。
リディアは、自分の部屋の窓辺に座っていた。
月が出ている。
けれど、眠れなかった。
まぶたを閉じると、あの光景が浮かぶ。
背中から落ちていく感覚。
水の冷たさが、すぐそこまで来ていた。
それが、ぴたりと止まった。
お姉様は、変。
そう思う。
絶対に、おかしい。
「リディア」
扉が開いて、父が入ってきた。
リディアは、慌てて顔を上げる。
「お父様……」
「眠れないのか」
「……うん」
ベルファルグは、リディアの隣に腰を下ろした。
頭を撫でることはなかった。
けれど、目線を合わせて、静かに言った。
「リディア。今日、庭で見たことは、誰にも話してはいけない」
「……お姉様のこと?」
「ああ。お母様にもだ」
「どうして?」
「お姉様を、守るためだ」
その言葉に、リディアの胸が、きゅっと小さく痛んだ。
――お姉様を、守る。
また、お姉様。
お父様は、わたしのことは、そんなふうに言ってくれない。
そう思ってしまった自分が、嫌だった。
けれど、頷くしかなかった。
「……分かった」
「ありがとう。いい子だ」
父が部屋を出ていく。
一人になって、リディアは、窓の外を見た。
月の光が、庭の池を照らしている。
助けてくれた。それは、分かっている。
お礼を言わなきゃ、と思った。
でも、言えなかった。
どうして言えなかったのか。
自分でも、分からなかった。
* * *
数日後。
朝食の席で、ベルファルグが言った。
「ルシェル。来月、王宮でお茶会がある」
「お茶会?」
「王妃様が主催される。貴族の家の子供たちも、招かれている」
ルシェルは、パンをちぎる手を止めた。
「面倒そう」
「そう言うと思った」
ベルファルグは、苦笑する。
「だが、君も、公爵家の娘だ。一度は顔を出しておいたほうがいい」
「……行かないと、だめ?」
「だめではない。ただ、私が、君を連れていきたい」
ルシェルは、少し考えた。
隣の席で、リディアが、そっとこちらを見ている。
マリアンヌは、微笑みを崩さない。
「……王宮に、本はある?」
「ある。この国で一番大きな図書室がある」
「行く」
即答だった。
ベルファルグは、肩を揺らして笑った。
「王子殿下も、お見えになるそうだ」
「ふうん」
ルシェルは、それほど関心を示さず、スープを口に運んだ。
――王子。まあ、どうでもいい。




