第3話 ここにいていい
馬車に揺られながら、ルシェルは窓の外を眺めていた。
もう既にゼロナイーズ王国を出て、アイフォール王国内に入っていた。
これまで暮らしていた町とは、何もかもが違う。
町並みが次から次へと変わっていく。
小さな家が減り、大きな建物が増えていく。
道も整えられ、行き交う人々の服装も、どこか上品になっていった。
「……大きい」
ルシェルが呟く。
「何がだ?」
「家」
馬車の進行方向。遠くに、巨大な屋敷が見えていた。
まるで城のような屋敷が建っている。
「あれが君の新しい家だ」
ベルファルグが言った。
「……家」
やがて馬車が大きな門をくぐった。
白い石造りの屋敷。広大な庭園。
手入れの行き届いた植木。
何人もの使用人が、馬車を迎えるために並んでいる。
「お帰りなさいませ、旦那様」
声が揃う。ルシェルは目を瞬いた。
「……何をしているの?」
「出迎えているんだよ」
「全員で?」
「そうだ」
「毎回?」
「まあ、普段はここまで大勢ではないが」
「面倒じゃない?」
「……そう思うか?」
「うん」
ベルファルグは苦笑した。
「お前は本当に正直だな」
馬車が止まる。扉が開き、先にベルファルグが降りた。
そして、ルシェルに手を差し出す。
「おいで」
ルシェルは、その手を見る。
少し迷ってから、その手を取った。
地面に降りる。
目の前には、たくさんの人。
使用人。
執事。
侍女。
ルシェルはそれらを眺めながら、少しだけ目を細めた。
――なるほど。貴族の家というのは、こういうものなのか。
前世では、こうしたものとは縁がなかった。
アルシエルとして生きていた頃は、研究施設や地下都市ばかりを見ていた。
華やかな庭園より、研究設備。
豪華な食事より、栄養効率。
美しい屋敷より、頑丈な建物。
そういうもののほうが、よほど興味深かった。
ベルファルグは使用人たちへ視線を向けた。
ルシェルの手は、繋いだままだ。
「今日からこの子も、この家の人間だ」
「かしこまりました」
使用人たちの視線が、一瞬だけルシェルへ集まった。けれど、誰も何も言わない。
ルシェルは少しだけ首を傾げた。
――貴族というのは、視線だけでも人を観察するらしい。覚えておこう。
「まず、妻に紹介しよう」
ベルファルグに手を引かれながら、屋敷の中へ入る。
しばらく廊下を歩くと、一人の女性がこちらへ歩いてきた。
プラチナブロンドの長い髪。澄んだ青い瞳。美しい女性だった。
彼女はベルファルグの隣にいるルシェルを見て――ほんの一瞬だけ、動きを止めた。
紫色の瞳。黒い髪。そして、その顔つき。何かが、脳裏に浮かんだのだろう。
――エメルダ。
けれど、次の瞬間には、女性は穏やかな笑顔を浮かべていた。
「お帰りなさいませ、あなた」
「ああ」
ベルファルグは淡々と返した。
それ以上の言葉はない。
妻に対する挨拶としては、それだけだった。
女性は微笑みを崩さない。
「こちらの方が……?」
「ああ」
ベルファルグはルシェルを見る。
愛おしいものを見る、温かく柔らかい瞳で。
「ルシェルだ。今日からここで暮らす」
「初めまして、ルシェル。私はマリアンヌ・ミラーストよ」
「……どうも」
ルシェルは頭を下げた。
そして、少し考えてから尋ねた。
「あなたが、これから私のお母さんなの?」
マリアンヌの笑顔が、ほんの少しだけ固まる。
「……ええ、そうよ」
それでも声は優しかった。
「そう」
ルシェルは頷く。
そして、マリアンヌの顔をじっと見つめた。
「よろしく……です」
「あら……こちらこそよろしくね、ルシェル」
マリアンヌは微笑む。すると――
「お父様!」
廊下の奥から、小さな女の子が駆けてきた。
プラチナブロンドの髪。
青い瞳。
マリアンヌとよく似ている。
まだ四歳ほどの少女だった。
「リディア」
ベルファルグが名前を呼ぶ。
リディアは嬉しそうに父親へ駆け寄る。
「お父様、おかえりなさい!」
「ああ。ただいま、リディア」
ベルファルグはルシェルの手は離さないまましゃがみ、リディアと目線を合わせた。
「今日はね、お母様とお庭にいたの!」
「そうか」
「それでね、お花を――」
リディアが楽しそうに話す。
ベルファルグはそれを遮ることなく聞いていた。
けれど、頭を撫でることもない。
抱き上げることもない。
手を繋ぐこともない。
ただ、父親として話を聞き、必要な言葉を返す。
リディアは笑った。
そしてようやく、ルシェルの存在に気づく。
「……その子、誰?」
「ルシェルだ」
ベルファルグが答える。
「今日から、この家で暮らす」
「……誰なの?」
「私の娘だ。ルシェルは……リディアより二つ上のお姉さんだな」
リディアが瞬きをする。
「お姉様?」
「ああ、そうなるな」
ルシェルはリディアを見つめた。
「どうも」
一言だけ挨拶をして、小さく頭を下げる。
リディアもルシェルを見つめた。
そして――
「……お父様と同じ目」
ぽつりと呟いた。
ルシェルの紫色の瞳。
ベルファルグと同じ色。
リディアの青い瞳とは違う。
「私ともお母様とも違うのね」
「そうだな」
ベルファルグは、ただ事実として答えた。
そこに優劣も、特別な意味も込めていない。
けれど、リディアは少しだけ不思議そうな顔をした。
そんなリディアの視界には、ルシェルの小さな手を優しく握ってやっているベルファルグの手も映っていた。
――どうして?
そんな疑問が、小さな胸の中に生まれた。
けれど、それが何なのか。
この時のリディアには、まだ分からなかった。
「ルシェル」
ベルファルグが呼ぶ。
「屋敷を案内しよう」
「はい」
ルシェルはベルファルグについて歩き出した。
その背中を、リディアは黙って見つめていた。
マリアンヌもまた、二人の後ろ姿を見つめていた。
ベルファルグは、昔からそういう人だった。
妻には夫としての責務を果たす。
娘には父親として必要なことを与える。
家族として守るべきものは守る。
けれど――そこに、エメルダへ向けたような感情はない。
マリアンヌは、それを知っていた。
だからこそ。
目の前にいる黒髪と紫の瞳の少女が、ひどく眩しく見えた。
* * *
「ここが食堂だ」
「……大きい」
長いテーブル。
何人座るのか分からないほどの椅子。
ルシェルは興味深そうに眺めた。
「そして、こちらが書斎だ」
「……!」
その瞬間、ルシェルの目が変わった。
壁一面に並ぶ本。
魔法書。
歴史書。
医学書。
見たことのない本まで大量にある。
「……全部、読んでいい?」
ベルファルグは少しだけ目を細めた。
「もちろんだ」
「全部?」
「ああ」
「最高……」
即答だった。
ベルファルグは小さく息を吐く。
どうやら、この子は本当に本が好きらしい。
「必要な本があれば、取り寄せよう」
「……ありがとう」
ルシェルは本棚を見上げた。
こんな場所が、自分の家になる。
まだ実感はない。
けれど――少なくとも、ここには読んでみたい本がたくさんある。
それだけで、少しだけ嬉しかった。
* * *
夕食の時間。
テーブルには、孤児院では見たこともないような料理が並んでいた。
肉。
魚。
野菜。
スープ。
焼きたてのパン。
ルシェルは料理を一つずつ眺める。
「……全部、食べていいの?」
「ああ」
「残しても?」
「食べられるだけ食べればいい」
「テーブルマナーとか、分からないけど……」
「気にしなくていい。そんなものは、ゆっくり覚えていけばいいさ」
「そう……」
ベルファルグの優しい声がけに、ルシェルはようやく静かに食事を始めた。
一口。
「……美味しい」
ぽつりと漏れた言葉。ベルファルグはそれを聞いて、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「そうか」
「うん」
横に座るリディアは、そんな二人を見ていた。
父親は自分にも優しい。
必要なものは買ってくれる。
困ったことがあれば助けてくれる。
誕生日には贈り物もくれる。
でも――ルシェルを見る時の父親は、少し違う。
声も。
表情も。
どこか柔らかい。
四歳のリディアには、その違いを言葉にすることはできなかった。
ただ、胸の奥に、小さな引っかかりだけが残った。
* * *
夜。
ルシェルは与えられた部屋にいた。
ベッド。
机。
衣装棚。
そして、ベルファルグが用意してくれた本。
部屋の中を一通り見回してから、ルシェルはベッドに腰を下ろした。
すると、扉が軽く叩かれた。
「ルシェル」
「どうぞ」
入ってきたのはベルファルグだった。
「必要そうなものは予め用意させたが……他に何か必要なものはあるか?」
「今のところはないかな」
「そうか」
ベルファルグはそれだけ言って、部屋を出ようとする。
その背中を見て、ルシェルは口を開いた。
「ねえ……本当にここにいていいの?」
ベルファルグが振り返る。
「もちろんだ」
「本当に?」
「ああ」
「追い出さない?」
「追い出す理由がない」
迷いのない返答だった。
ルシェルは少しだけ黙る。
そして、小さく頷いた。
「……分かった」
「何かあれば、いつでも呼びなさい」
「うん」
「おやすみ、ルシェル」
「おやすみなさい、お父さん」
ベルファルグは一瞬だけ足を止め、静かに微笑んだ。
「ああ。おやすみ」
扉が閉まる。一
人になった部屋で、ルシェルはベッドに横になった。
天井を見る。
家族。
父親。
母親。
姉妹。
知識としては知っている。
前世の自分にも、親と呼べる存在は一応いたはずだ。
とはいえ、親に関する記憶はほとんどない。
覚えていないということは、特別な思い入れもない、割とどうでもいい存在だったのだろう。
ルシェルはひとりで、そう納得した。
ただ、今回は――あの人が「ここにいていい」と言った。
それだけは、不思議と嬉しかった。
ルシェルは目を閉じる。
――こんな感情は初めてだ。
今日からここが、自分の家になる。




