第2話 雨の庭で出会った人
雨が降っていた。
ゼロナイーズ王国の小さな町。その町の外れにある、古びた小さな教会。そして、教会に併設された小さな孤児院の庭で、一人の少女が本を読んでいた。
年齢は六歳。長い黒髪。紫色の瞳。
膝の上には、少し古びた魔法学の本が置かれている。雨の日だというのに、少女の身体はほとんど濡れていなかった。
正確には、雨粒が彼女に触れる直前で、僅かに軌道を変えている。
少女――ルシェルは、そのことを気にしていなかった。本人にとっては、呼吸をするのと同じくらい自然なことだった。
「……魔力による火属性干渉」
ページをめくる。
「術式を構築して、魔力を変換……」
ルシェルは首を傾げた。
「……面倒」
魔法というものは、どうにも手順が多い。魔力を感じる。属性を選ぶ。術式を組む。魔力を流す。そして、ようやく現象を起こす。
それに比べて、自分の力なら。
「……やっぱり、魔法は必要ない」
ぽつりと呟く。
「必要はないが、そもそも魔力というのはどういった原理で成り立っているのだろうか。そこを疑問に思っている人間が少ないこともまた実に興味深い……」
そのときだった。
――馬の蹄の音が聞こえた。
ぱか、ぱか、ぱか。
雨音の向こうから、ゆっくりと近づいてくる。ルシェルは本から顔を上げた。
黒い馬車。見るからに高級な造りのそれが、孤児院の前で止まる。建物のほうから、シスターたちの慌ただしい声が聞こえた。
扉が開く。一人の男が降りてくる。
黒い髪。紫色の瞳。仕立ての良い服。背筋の伸びた立ち姿。
その姿を見た瞬間、ルシェルは、ほんの少しだけ目を細めた。
「…………」
似ている。自分と。同じ紫色の瞳。そして、黒い髪。
男は孤児院の建物を見上げたあと、ゆっくりと庭へ視線を向けた。
そして、ルシェルと目が合った。
――その瞬間、男の表情が止まった。
「…………」
息を呑む。目を見開く。まるで、ずっと探し続けていたものを、ようやく見つけたかのように。
「……あの子が」
男の唇が、僅かに震えた。
「ルシェル……」
その名前を聞いて、ルシェルは本を閉じた。立ち上がる。そして男のもとへ歩いていった。
「私に何か用?」
男はすぐには答えなかった。目の前にいる少女を、ただ見つめている。
黒い髪。紫の瞳。自分と同じ色。そして、どこか、愛した女性の面影を残した顔。
間違えるはずがない。この子だ。
自分の娘。エメルダの娘。自分が存在すら知らなかった子。けれど、知ったその日から、ずっと探していた。
「……君が、ルシェルか?」
「そうだけど」
少女は首を傾げる。
「あなたは?」
「私は……」
男は一度、目を閉じた。
何年も、この瞬間を想像していた。もし娘に会えたら、何と言おう。抱きしめるのか。謝るのか。母親のことを話すのか。それとも、ただ名前を呼ぶのか。何度も考えた。けれど、実際に目の前にすると、何も言葉が出てこなかった。
「……ベルファルグ・ミラースト」
ようやく名乗る。
「ミラースト?」
ルシェルは少し考える。孤児院で読んだ本の中に、その名前があった。
ゼロナイーズ王国のお隣、友好国のアイフォール王国。その国でも有数の、王家とも深い繋がりを持つとされる公爵家。目の前の男が、その当主なのだろう。
「あなたは貴族?」
「ああ」
「そう」
それだけだった。
ベルファルグは少しだけ苦笑する。想像していた反応とは違った。もっと驚くと思っていた。もっと怯えると思っていた。あるいは、喜んでくれるのではないかと思っていた。でも、この少女は、ただ静かに自分を見ている。まるで、初めて見る生き物を観察するように。
「……君に、話がある」
「何?」
「私は……君の父親だ」
「…………」
ルシェルが瞬きをする。
「父親?」
「ああ」
「どういう意味?」
今度はベルファルグが黙った。六歳の少女に、どう説明すればいい。
「君のお母さん……エメルダは、私が愛した女性だ」
「……私を産んだ人のことを知っているの?」
「ああ」
「どんな人?」
その質問に、ベルファルグの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「…………優しい人だった」
遠くを見るような目で、彼は言った。
「強くて、よく笑う人だった。私が、心から愛した人だ」
ルシェルは黙って聞いていた。
「君が生まれたことを、私は知らなかった」
「…………」
「知ったときには、もう……君のお母さんは亡くなっていた」
雨の音だけが聞こえる。
「そのあと、君がいることを知った」
ベルファルグは拳を握った。
「もっと早く知っていればよかった」
声が少し震える。
「もっと早く、君を見つけていればよかった。でも、遅くなったけれど、私は君を迎えに来た」
「迎えに?」
「ああ」
「どこへ?」
「私の家へ」
ルシェルは考えた。自分の家。
「家、ね」
あまり関心を示さなかった。今までの人生で、あまりにも関わりの薄い言葉すぎて、どう反応すべきか分からなかったのだ。
しかし、そんなルシェルをどう感じたのか、ベルファルグは少しだけ笑って、安心させるように優しく囁いた。
「無理にとは言わない。でも、これからは、私の家に君の居場所を作りたい」
ルシェルは男の顔を見る。
「私を、どうしたいの?」
「どうしたい?」
「私に何かさせたいの?」
ベルファルグは目を見開いた。そして、首を横に振った。
「何も」
「……何も?」
「ああ。君に何かをさせたいわけじゃない」
「じゃあ、どうして迎えに来たの?」
ベルファルグは少しだけ迷った。けれど、今度は迷わず答えた。
「君と一緒に暮らしたいからだ」
ルシェルは黙った。
言葉の意味は分かる。でも、自分と一緒に暮らしたい。ただ、それだけの理由で?
「……変なの」
思わず口にした。
「そうかもしれないな」
ベルファルグは笑った。
「でも、私はずっと君を探していた。だから、もう二度と離したくない」
その言葉を聞いた瞬間、ルシェルの胸の奥が、ほんの少しだけ揺れた。
* * *
「ルシェル」
後ろから声がした。孤児院の院長を務める、年配のシスターだった。いつの間にか、他の子供たちも集まっている。
「本当に行くの?」
年下の女の子が聞く。
「……そうだね。そうしようかな」
「もう帰ってこないの?」
「分からない」
「…………」
女の子の顔が、みるみるうちに泣きそうになる。
「泣くの?」
「だって……」
「どうして?」
「ルシェルがいなくなるから……」
「…………」
ルシェルは、その顔を見つめた。やはり、あまりよく分からなかった。
こういうとき、どうすればいいのか。前世の自分なら、たぶん何も考えず、その場を離れていた。でも今は。
ルシェルは女の子の頭を撫でた。
「また会えるかもしれない」
「……うん」
「だから、泣くな」
それは、思わず自然と出た言葉だった。
* * *
荷物は、驚くほど少なかった。着替えと、本が数冊。それだけ。
ベルファルグは、その荷物を見て、少しだけ眉を下げた。
「……これだけか?」
「うん」
「欲しいものはないのか?」
「特に」
「服でも、本でも、何でもいい」
「…………」
ルシェルは少し考えた。
「じゃあ、本が欲しい」
「分かった。好きなだけ買おう」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、魔法学の本」
「…………」
ベルファルグは少しだけ驚いた様子を見せたが、すぐに愛おしそうに笑った。
「分かった」
そして、ルシェルの荷物を自分で持った。
「それは私が持つ」
「父親だから?」
ベルファルグの動きが止まる。
「……そうだな」
「父親って、荷物を持つものなの?」
「いや」
ベルファルグは苦笑した。
「そういうものではないよ」
「じゃあ、どういうもの?」
「……それは」
少し考えて、彼は答えた。
「これから、一緒に見つけていこう」
ルシェルはその言葉を聞いて、
「うん」
素直に頷いた。
* * *
孤児院を出る。黒い馬車が待っている。ルシェルが乗り込もうとしたところで、
「ルシェル」
院長に呼ばれた。
「元気でね」
「うん」
「ご飯はちゃんと食べるのよ」
「食べる」
「困ったことがあったら、誰かに相談するのよ」
「分かった」
「一人で何でも解決しようとしちゃ駄目だからね」
「…………」
ルシェルは少し考える。
「努力する」
院長が笑った。
「それで十分」
ルシェルは馬車に乗り込んだ。ベルファルグも隣に座る。扉が閉まり、馬車がゆっくりと動き始める。
窓の外。孤児院が少しずつ遠ざかっていく。ルシェルは黙って見つめていた。
「……寂しいか?」
ベルファルグが尋ねた。
「……どうだろう」
少し考えて。
「もしかしたら、そうなのかも」
「そうか」
ベルファルグは、それ以上何も言わなかった。ただ、隣に座っている。それだけだった。
しばらくして、ルシェルは窓から視線を外した。隣を見る。黒い髪。紫色の瞳。自分と同じ色。
「……お父さん」
「…………!」
ベルファルグが振り向く。
「どうした?」
「あなたは」
ルシェルは少し考える。
「私のことが好きなの?」
ベルファルグは、驚いたように目を見開いた。そして、ゆっくりと笑った。
「ああ」
「どうして?」
「君のお母さんに似ているから……というのもある。でも、それだけじゃない」
ベルファルグはルシェルを見る。
「君が、君だからだよ」
「……まだ会ったばかりだ。私のことなんて何も知らないでしょ」
「そうだな」
ベルファルグは笑った。
「でも、ルシェルだから愛おしい。出来ることなら……エメルダと三人で、幸せな家庭を築きたかったがな……」
ルシェルは、しばらく黙っていた。そして、小さな手を伸ばし、ベルファルグの服の袖を、ほんの少しだけ掴んだ。
「……じゃあ」
「うん?」
「教えて。家族っていうものを」
「ああ」
ベルファルグは、その小さな手をそっと握った。温かかった。
ルシェルは、その温度を感じながら、初めて思った。
――父親。
まだよく分からない。家族というものも。愛されるということも。何も分からない。けれど、この人が自分を探していたことだけは、なんとなく分かった。
そして、その手を離したくないと思った。
それが何という感情なのか、今のルシェルには、まだ分からなかった。
ただ、この日から、ルシェルの二度目の人生は、少しずつ、変わり始めた。




