第10話 僕の友人たち
翌朝の教室は、いつもより静かだった。
ルシェルが扉を開けた途端、談笑していた生徒たちの声がぴたりと止まる。
いくつもの視線が、一斉にこちらへ向いた。
好奇心、畏れ、探るような色。
それらを浴びながら、ルシェルは何事もなかったように窓際の後ろの席へ向かった。
席に着くと、隣の席のキセラが、今にも泣き出しそうな顔でこちらを見ていた。
「る、ルシェル様……おはようございます……」
「おはようございます。どうかなさいましたか?」
ルシェルは表情も変えずにキセラへ聞き返した。
周囲からのいかなる視線も、噂話も、ルシェルは気にする性格ではなかったが、キセラはそうではなかった。
「あの、噂が、すごいことになっていて……」
キセラは声を潜めて、青い顔で続けた。
「『魔力を鎮める令嬢』とか、『魔力を打ち消す特異体質』とか……。私のせいで、ルシェル様が変なふうに言われて……」
「ああ……」
青ざめながら申し訳なさそうに落ち込むキセラ。
しかし、ルシェルは一度ちらっと教室内に視線を向けただけで、特に動じる様子は見せなかった。
――どういう反応になるか賭けのような部分はあったが……そこまで大きな反応になっていないならいいか。少なくとも、都合よく勘違いされているようで良かった。
「あなたのせいではありませんわ。飛び出したのは私ですから」
「でも……」
「気にする必要のないことを気にするなんて時間の無駄ですわ」
ルシェルは淡々と答えて、鞄から本を取り出した。
人体と魔力に関する研究を記した本。
ルシェルの最近の愛読書だった。
本を開きながら、ルシェルは昨日のことを思い浮かべる。
――それにしても、昨日、この子に触ってみて思ったが……こんな本を読んで遠回りに研究するより、やはり『実物』を調べるほうが断然効率的ではあるな。
思い浮かぶのは、キセラに触れて能力を発動したとき、体内で魔力が動いていた感覚。
魔力が体内のどこから発生して、どのような動きで体外に放出されているのか。
それらを知るためには、実際に魔力を扱っている瞬間の人体に触れるのが一番手っ取り早いのだとルシェルは気づいてしまったのだ。
しかし、父ベルファルグには止められている。
それに、能力を本来のように使うには、まだ体が追いついていない。使えば、それなりの負荷もかかる。
そう簡単には使い続けられなかった。
ルシェルが本を読むふりをして人知れず悩んでいると、隣でキセラが目をぱちぱちさせた。
「ルシェル様、気にならないんですか?」
「……噂は、放っておけば勝手に形を変えていくものです。三日もすれば、別の誰かの話に移っているでしょう」
実際、本心だった。
前世の頃から、他人の噂話など気にしたことはなかった。
ただ、教室の外から、昨日の魔法学の教師がじっとこちらを見ていることには気づいていた。
ルシェルが視線を向けると、教師はさりげなく目を逸らして去っていく。
しかし、そんな教師にすら、ルシェルは特別反応を示すことはなかった。
* * *
昼休み。
食堂にて食事もそこそこに切り上げ、ルシェルが書庫へ向かおうとすると、キセラが小走りで追いかけてきた。
「あの、書庫に行くんですよね? 私もご一緒してもいいですか?」
「構いませんよ。ただ、静かにする場所ですので、私語は控えめにお願いします」
「は、はい! 頑張ります!」
二人で連れ立って、中庭に面した回廊を歩く。
その途中、前方に数人の令嬢が立ちふさがっていた。
中央に立つのは、金色の巻き髪を高く結った少女だった。
背筋はまっすぐで、顎はつんと上がっている。
両脇には、同じ制服の令嬢が二人、控えるように立っていた。
「ミラースト公爵令嬢。少しお時間をいただけるかしら」
上品な声だった。
しかし、目の奥には、はっきりとした棘がある。
「ウェネシアス侯爵家のジュリアと申しますわ。以後、お見知りおきを」
「ルシェル・ミラーストですわ。ご丁寧にありがとうございます」
「ええ。……早速ですけれど、いくつかお聞きしたいことがございますの」
ジュリアはそう言って、ルシェルの後ろにいるキセラへちらりと視線を送った。
キセラが、びくっと肩を震わせる。
「昨日の授業で、クレアセント男爵令嬢の魔力の暴走を止められたそうですわね」
「昨日は友人を助けたい一心でしたが……たまたまうまく助けられてよかったですわ」
「たまたま、ですの?」
「ええ。運がよかったのでしょう」
「そう。それなら結構ですけれど」
ジュリアは扇を口元へ当てて、くすりと笑った。
その視線が、ゆっくりとキセラを撫でる。
「ですが、公爵令嬢がああいった危険な方に近づくのは、感心いたしませんわ。いつ暴走するかも分からない方ですもの。『王族の瞳』を持つ方に万が一のことがあったら、どうなさるおつもりなのかしら?」
「っ……」
キセラの肩が、小さく縮こまった。
両手を胸の前で握りしめ、うつむいてしまう。
「小さな小さな男爵家ごときに責任が取れるとお思いなのかしら?」
その言葉に、後ろに控えた令嬢たちがくすくすと笑った。
彼女と対峙していたルシェルは、キセラの横顔をちらりと見た。
青ざめるどころか、血の気を失って真っ白になったキセラの顔を見て、ルシェルは小さく息を吐いた。
――非常に……めんどうくさいな。蹴散らしてはダメか?……まあ、そんなことしたら少なくともお父様は悲しむか。
それから、ルシェルはジュリアに向き直る。
「危険、とおっしゃいますと」
「あら、昨日のことをご覧になったでしょう? 教室ごと吹き飛ばされかねない魔力量ですのよ」
「ええ、拝見しました。確かに、大変な魔力量でした」
「でしょう? しかも、そんな魔力量を持っていて、制御すらまともにできないなんて危険以外の何物でもありませんわ。ですから――」
「他の生徒の数十倍、いえ、数百倍はあるかと思います。あれほどの魔力の持ち主には、そうそうお目にかかれません。ウェネシアス侯爵令嬢は、そのような方が身近にいらっしゃって、羨ましいかぎりですわ」
「…………え?」
ジュリアの口が、ぽかんと開いた。
隣の令嬢たちも、顔を見合わせる。
「羨ま、しい……?」
「ええ。魔力の流れも大変興味深いですし、研究のしがいがありますわ。あの量を制御できるようになれば、きっと素晴らしい魔法使いになられますわ。まあ、私は使えませんから、観察するだけですけれど」
「あの、そういうことではなくて……っ」
「それに、キセラさんは私の友人です。友人の悪口を聞き流すのは、少々苦手でして」
ルシェルはにっこりと微笑んだまま、淡々と続けた。
「ミラースト公爵家の者として、友人への侮辱は看過できませんわ。ですが、ウェネシアス侯爵令嬢にそのようなお考えはなかったと、信じております。ね?」
笑顔の奥の瞳は、少しも笑っていなかった。
その圧に、ジュリアの背筋がぞくりと冷えた。
取り巻きの令嬢たちも、息を呑んで一歩下がった。
「も、もちろんですわ……そのような意図は……」
「それはよかった」
ルシェルは満足そうに頷いた。
それから、話は終わったとばかりに、さらりと続ける。
「ところでウェネシアス侯爵令嬢、他にお聞きになりたいことはおありでしたか?」
「あ、あの……! 殿下のことですわ!」
ジュリアは、はっと我に返ったように声を張った。
扇を握る手が、わずかに震えている。
「レオナルド殿下が、毎日のように公爵令嬢のもとへいらっしゃるそうですわね。書庫で、お二人きりでお過ごしになっていると……。ご存じですの? 殿下には、婚約者の候補が何名もいらっしゃるということを」
「ええ、存じております」
「でしたら、少しはお控えになるべきではなくて? 殿下のお立場を考えれば――」
「殿下が、私のところへいらっしゃるのですわ」
きょとんとした顔で、ルシェルは言った。
「私は書庫で本を読んでいるだけです。殿下がお見えになるのは、殿下のご意思ですから、私が止める筋合いはないかと」
「そ、そういう問題では……!」
「では、どういう問題なのでしょう。殿下が静かに本を読める場所を求めておられるのでしたら、私ごときが邪魔をするのも失礼かと思いますが」
「だから、そうではなくて――!」
ジュリアの声が、悲鳴に近くなった。
全く話が噛み合わない。
それどころか、ルシェルが本気で首を傾げているのが、余計に腹立たしい。
キセラは、うつむいたまま、肩を小刻みに震わせていた。
……笑いを堪えているのだった。
――あ、あの、ルシェル様、全然気づいてない……!
そのとき、回廊の向こうから、穏やかな声が降ってきた。
「ずいぶん賑やかだね」
全員が、一斉に振り向く。
そこには、本を片手に抱えたレオナルドが立っていた。
ジュリアたちが、ばっと姿勢を正して礼をする。
その顔色は、先ほどまでとは別人のようだった。
「で、殿下……! ごきげんよう」
「ごきげんよう、ウェネシアス嬢。みんなで集まって、何を話していたの?」
「い、いえ、少しご挨拶を……」
「そう。それなら、よかった」
レオナルドは、にこやかに微笑んだ。
けれど、紫の瞳は、冷たく静かな光をたたえていた。
「学院では身分の差はないというのが決まりだけれど、友人への無礼を見過ごすつもりはないんだ。特に、僕の友人たちには」
その「友人たち」という言葉に、キセラがはっと顔を上げた。
レオナルドの視線が、ほんの一瞬だけ、彼女に向く。
優しい目だった。
「失礼いたしました……! わたくしたちは、これで……!」
ジュリアは、取り巻きを引き連れて、逃げるように回廊の向こうへ去っていった。
残された三人の間に、風が通り抜ける。
「やあ、ルシェル」
「殿下。ごきげんよう」
「ごきげんよう。……君に聞いておきたいことがあってね」
レオナルドは少しだけ表情を曇らせて、ルシェルの顔を覗き込んだ。
「昨日の授業のこと、聞いたよ。魔力暴走の渦中に、自分から飛び込んだって」
「たまたまうまくいっただけですわ」
「うん、そう聞いた。でも、結果がどうだったかは、あんまり関係ないんだ」
レオナルドの声が、いつもより低くなる。
「……君が飛び出したと聞いて、心臓が止まるかと思った」
「大げさです」
「大げさじゃないよ。次からは、せめて先に誰かに声をかけてくれ。……いや、僕に声をかけてくれ」
「クラスが違うので難しいですね」
「……じゃあ僕がいないときは別の人間でもいいから、僕がいるときは僕に声をかけてほしい」
珍しく真剣な目だった。
ルシェルは、少しだけ目を瞬かせた。
――なぜ、そこまで心配するのだろう。
それが、彼女には、まだよく分からなかった。
けれど、胸の奥のどこかが、昨日のぬくもりと同じように、ふっとあたたかくなった気がした。
「……善処します」
「君が全然守らないことくらい、もう知ってるよ」
「何を根拠に」
「過去の実績から」
レオナルドは、肩をすくめて笑った。
その笑顔は、もういつもの彼だった。
その様子を、後ろでキセラが両手で口元を押さえながら、目をきらきらさせて見ていた。
――お、お二人、仲良し……! すごい、これが噂の……!
「キセラさん、どうかなさいましたか」
「い、いえっ! 何でもないです! 書庫、行きましょう!」
真っ赤な顔で駆け出すキセラの背を、ルシェルは不思議そうに見送った。
* * *
その日の夕方。
ルシェルが公爵邸に帰り着くと、玄関の前に、見慣れた黒髪の長身の男が立っていた。
ベルファルグだった。
馬車を降りるやいなや、ルシェルの前へ大股で歩み寄ってくる。
「ルシェル」
「ただいま戻りました、お父様」
「怪我はないか」
「ありません」
「どこも痛まないか。頭は」
「……昨日は多少疲れましたが、今日は問題ありません」
「疲れた、だと?」
ベルファルグの眉が、きゅっと寄った。
ルシェルは、小さくため息をつく。
「お父様、おそらく学院から報告が行ったのでしょうが――」
「ああ。魔力暴走の渦中に、自分から飛び込んだと聞いた」
「……お耳が早いですね。三日はかかると思っていたのですが、一日も持ちませんでした」
「当然だ。お前のことなのだから」
ベルファルグは、周りに使用人がいないことを確かめてから、声を落とした。
「……使ったのか」
「最小限です。何も支障はありません」
「…………そうか」
重い沈黙が落ちた。
ルシェルは、叱られる覚悟を決めて、静かに待つ。
けれど、父はルシェルの肩にそっと手を置いて、深く息を吐いただけだった。
「お前が無事なら、それでいい」
「お父様」
「だが、頼むから無茶はしないでくれ。次は先に私に言いなさい。何とかする」
「……そういうわけにも、いかない場面でしたので」
「お前はそういう子だな」
ベルファルグは、苦笑まじりに眉を下げた。
それから、ふと、柔らかい声で付け足した。
「聞いたよ。庇った相手は、友人だそうだな」
「……耳が早すぎます」
「そうか。……そうか」
ベルファルグは、二度、噛みしめるように頷いた。
その瞳が、わずかに潤んでいるように見えるのは、気のせいだろうか。
「よかった。本当に、よかった」
「お父様、大げさです」
「大げさなものか。お前が自分から誰かのために動いたと聞いて、私は――」
ルシェルは、そのとき、ふと入学式の朝のことを思い出した。
子離れ。
帰ったらそれとなく伝えようと、確かに考えていた。
けれど、目の前の父の顔を見ていたら、その言葉は、喉の奥へと引っ込んでしまった。
――……仕方がない。今日はやめておこう。
ルシェルは小さく息を吐いて、父の袖を軽く引いた。
「お父様。中へ入りましょう。外は冷えます」
「ああ、そうだな。夕食に、お前の好きなものを用意させている」
「ありがとうございます」
二人並んで、玄関をくぐる。
背後で扉が閉まるとき、ルシェルはほんの少しだけ、口元をゆるめていた。




