第9話 友達って言ってもいいですか
学院の裏手にある演習場は、天井のない石造りの円形の広場だった。
壁際には魔力を吸う結界石が等間隔に並び、その向こうに木製の的がずらりと立っている。
生徒たちは制服の上から動きやすい上衣を羽織り、思い思いに雑談をしていた。
ルシェルだけが、壁際の見学席にひとり腰を下ろしていた。
膝の上には、図書館から借りた魔力理論の本。
表向きは、見学。
実際には、観察である。
「ミラースト公爵令嬢、本当に見学なさっていますわ」
「魔力がほとんどないのでしょう? お可哀想に」
「でも、あの公爵家の方ですもの。何か事情がおありなのでは……」
「噂では、三歳の時に流行病にかかったことが原因で魔力を失ったそうよ」
「魔力がないから、危険な目に遭わないようにって公爵が学院に言いつけてるらしいぞ」
「公爵から直々に頼まれたら断れないよな……」
ひそひそと交わされる声が、風に乗って届く。
けれど、ルシェルは特に何も思わなかった。
――同情か、好奇心か。どちらにしても、私の読書の邪魔にはならないな。こればかりはお父様の過保護に感謝しよう。
この授業を見学することについては、すでにベルファルグから学院に交渉済みだった。
『くれぐれも娘に危険が及ばないように』と国内でも王族と並ぶ影響力を持つミラースト公爵直々の交渉。
きっと、学院の運営者たちは相当肝を冷やしたに違いない。
しかし、この時ばかりはルシェルもベルファルグの過保護っぷりに感謝していた。
こんなに特等席で、実際に魔法を使う様や、練習する様を見ることができるのだから。
どうでもいいひそひそ話より、目の前で行われている授業のほうが、ルシェルにとってはよほど興味深かった。
この学院では主に、貴族子女たちに今後の貴族社会において必要な教養が教えられる。
領地経営であったり、商売や交易などでも幅広い部門で活躍できるように、様々な分野の歴史や学問や諸外国について等の座学はもちろん、実技では乗馬や剣術、ダンスなども学ぶ。
そして、極めつけは魔法の授業だろうか。
中には、ある程度の魔法の扱いは幼い頃から家庭教師などをつけて教わっている貴族子女もいるのだが、そんなことができるのはそれなりの家格の貴族だけだった。
家格の低い貴族家庭では、魔法を教えられる家庭教師を雇えるほどの経済状況ではない場合もある。
そこで学院は、平民よりも魔力の多い貴族の子女に、公平かつ安全に魔法の扱いを学べる機会を与えているのだという。
「では、順番に。的に向けて『火球』を放ちなさい。魔力は一度に出さず、手のひらで丸く整えるように」
教師の指示で、生徒たちが一人ずつ前に出る。
詠唱をして、手をかざし、魔力を練って、放つ。
的に当たる者、外れる者、小さな火を灯しただけで終わる者。
――魔力を外へ出す前に、わざわざ詠唱で形を整えているのか。随分と遠回りな手順だが……詠唱しはじめてから魔力が出てくるまでの動きはなんとも面白い。一体、体内ではどんな仕組みで魔力が生じているのか……。
ルシェルは手帳の端に小さく書きつけた。
前世の彼女の目から見れば、魔法というのは非効率の塊だった。
けれど、だからこそ面白い。
同じ結果を、全く違う回路で出力している。
それが、この世界の仕組みなのだ。
「次、キセラ・クレアセント」
教師の声が、わずかに硬くなった。
演習場の空気が、ぴりっと張り詰める。
生徒たちが、数歩ずつ後ろに下がった。
教師自身も、さりげなく結界石の側に身を寄せている。
――まるで猛獣が目の前に現れたような反応をするんだな。
周囲の反応に、ルシェルは人知れず目を細めて観察していた。
そんななか、キセラはぎゅっと唇を結んで前に出た。
二つに結んだ栗色の髪が、小さく揺れている。
彼女は一度だけ、見学席のルシェルへと視線を送った。
怯えが宿った視線に、ルシェルは思わず小さく吹き出した。
「ふっ……」
――あれじゃまるで、飼い主に咎められることを恐れる子犬のようじゃないか。猛獣扱いされている強者の立ち居振る舞いではないな。
呆れた様子で、ルシェルはキセラへ軽く手を振って見せる。
すると、キセラは少しだけあっけにとられた様子でルシェルを見つめた。
しかし、教師に再度声をかけられ、キセラは慌てて的に向き直った。
「……いきます」
キセラが手をかざす。
その瞬間、ルシェルの目が細まった。
――なるほど。手元に集まる魔力の流れが……おかしいな。
魔力の量は、確かに他の生徒たちに比べると桁違いだった。
他の生徒たちの数十倍から数百倍はあるんじゃないだろうか。
それが一気に、キセラの手のひらへと殺到している。
けれど、魔力の出口の大きさと出力が全く見合っていない。
出口は細い管一つしかないのに、そこに一気にダムの水を全開で放出するような状態だ。
「ま、待って、やっぱり止まらな――」
キセラの顔から、血の気が引いた。
そんな様を、ルシェルは心底興味深そうに見つめていた。
――あの子の体内では、出力を制御する機構のようなものが正常に働いていない可能性が高い。あれでは、制御しろと言われても無理だろう。
みるみるうちに赤い光が、彼女の手の中で膨れ上がっていく。
このままでは、あと数秒で弾ける。
台所を半分吹き飛ばしたという話は、嘘ではなかったらしい。
――結界石があっても、この魔力の量では教師側にも被害が出るか。何より、キセラ本人が無傷では済まないだろう。
ルシェルは、本を閉じた。
視線は、キセラの手元に据えたまま。
――使えば、目立つ。魔法ではないものを、魔法の授業で使うのだから。
父の言葉が、頭の隅をよぎった。
『能力がバレれば、お前に危険が及ぶ』と。
けれど、それと同時に、別の考えも浮かんでいた。
――ここで彼女を失えば、あの魔力量のサンプルは二度と手に入らない。
ひどく合理的な理由だった。
いかにも、前世の自分が考えそうなことだった。
だが、そのときふと「私のこと怖がらない人、初めて会いました」と笑ったあの顔が浮かんだ。
――……まあ、いい。理由なんて、後から考えればいい。
ルシェルは、席を立った。
膝の上の本が、ばさりと地面に落ちる。
けれど、拾っている暇はなかった。
「ミラースト公爵令嬢? 危険です、下がりなさい!」
教師の制止の声が、背中に飛んでくる。
ルシェルは構わず、見学席から演習場の中央へと駆け出した。
制服の裾が揺れ、周囲の生徒たちが驚いて道を開ける。
――遠くからでは、精度が落ちる。この量を正確に捌くには、直接触れたほうが確実だ。
それが、ルシェルが自分に与えた理由だった。
あとからいくらでも言い訳の立つ、ごく合理的な理由。
赤い光は、もうキセラの身体を飲み込もうとしていた。
涙目になった少女が、こちらを見て、必死に叫ぶ。
「ルシェル様、だめ、来ないで!」
「静かになさい」
ルシェルは、そのままキセラの前に飛び込んだ。
そして、迷いなく両腕を伸ばす。
周囲から、悲鳴のようなものが聞こえた気がした。
ルシェルは気にせず、キセラの身体をぎゅっと抱きしめる。
それから、今にも暴発しそうな魔力の炎を宿した彼女の両手を、自分の両手で包み込むように握った。
「え……ルシェル、さま……!?」
「息を吐いて。ゆっくり、長く」
耳元で、静かに告げる。
キセラの肩が、小さく震えた。
それでも、言われたとおりに、細く長く息を吐き出していく。
炎の塊に触れたところで、別に痛みなどなかった。
能力で手のひらに薄い膜を張っているからだ。
その間に、ルシェルは手のひらを通して、暴れ狂う魔力の流れを探っていた。
――やはり、出口の割に放出量が多すぎる。
触れてみると、キセラの中で渦巻く魔力の動きが遠くから見るよりずっとはっきりわかった。
――なるほどな。……ああ、ここか。
細すぎる管に、水を無理やり流し込んでいる状態。
そこで、ルシェルは意識を集中させ、渦の中心へほんの少しだけ力を滑り込ませる。
膨れ上がった魔力の根源。
その中心を膜で包んで、放出される勢いを調整して抑制してやる。
そして、素早く勢いを弱めていく。
――なんだ、思ってたより簡単じゃないか。
ぱんっ、と乾いた音がした。
赤い光が、ふわりと霧のように散っていく。
二人の手の間に、小さな煙が立ち上っただけだった。
的は焦げてもいない。結界石も、静かなままだった。
こめかみの奥が、ずきりと痛んだ。
ルシェルは、わずかに眉を寄せる。
やはり、直接触れて細かく干渉すると、脳への負担は大きい。
――まだ身体が追いついてないか。……まだまだ頻繁には使えないな。
けれど、腕の中の少女のぬくもりが思いのほか心地よかったことに、ルシェルは少しだけ驚いていた。
前世では、誰かとこんなふうに触れ合うことなんて、一度もなかったから。
「…………あれ?」
キセラが、ぽかんとした声を漏らした。
自分の手のひらを、じっと見つめている。
何も、起きていなかった。
爆発も、火傷も、何もなかった。
「止まった……? 私、止まったの……?」
「ええ。止まりましたわ」
「ほ、ほんとに……?」
「ほんとうです」
そう答えて、ルシェルはようやくキセラから腕を離した。
その瞬間、キセラの瞳に、みるみる涙が溜まっていく。
「……っ、うっ……」
「……なぜ泣くのです?」
「だって……初めてなんです……! 誰かに、こんなふうに、助けてもらったの……」
キセラは、ルシェルの制服の袖をぎゅっと掴んだまま、堪えきれずにぽろぽろと涙をこぼした。
ルシェルは、どうしたらいいのかわからず、行き場のない手をしばらく宙に浮かせていた。
やがて、不器用に、キセラの頭を軽く撫でる。
――怖かった……せっかくできた友達まで傷つけちゃうんじゃないかって……怖かったよ。
ルシェルの中に流れ込んできたのは、キセラの心の声だろう。
これがあるから、前世のアルシエルだった頃は人と触れ合うことをしようとしなかったし、誰もアルシエルに触れようとはしなかった。
とはいえ、意識して使おうとしなければ別にむやみやたらに能力が使われることはないのだが。
どうしたらいいのか分からず、ルシェルは思わず能力を使ってしまい、さらに困ってしまった。
――こういうとき、どうするのが正解なのだろう。
答えは出なかった。
けれど、泣き止まない少女の背中を、ルシェルはもう一度、ゆっくりとさする。
そこで、ようやく周囲の空気に気がついた。
演習場が、水を打ったように静まり返っている。
生徒たちも、教師も、全員がこちらを見ていた。
「……今の、見た?」
「魔力が、消えた……?」
「魔力のない公爵令嬢が、あの暴走を止めたのか?」
「まさか……魔力を打ち消すような特異体質なのでは……」
「いえ、抱きしめて落ち着かせたから、気持ちが静まったのでは?」
「それにしても、あの魔力量が一瞬で……」
ひそひそと、さまざまな推測が飛び交う。
どれも的外れだったが、的外れだからこそ誰も真相には届いていなかった。
ルシェルは、小さく息を吐いた。
ここで否定すれば、かえって不自然に見える。
かといって、肯定する理由もない。
「たまたまですわ」
ルシェルは、にっこりと微笑んで言った。
「友人が困っておりましたので、少し落ち着かせようとしただけです。うまくいったのは、運がよかっただけでしょう」
周囲が、さらにどよめいた。
あの、公爵令嬢に「友人」と呼ばれた男爵令嬢。
運がよかったと言い切る、涼しい笑顔。
誰もが、言葉を失っていた。
けれど、そのなかで、ひとりだけ。
教師だけが、眉間にしわを寄せていた。
「……ミラースト公爵令嬢」
「はい、先生」
「魔力がほとんどないと伺っておりますが……いえ、失礼しました。何でもありません」
教師は言葉を飲み込んだ。
それでも、疑わしげな視線は、しばらくルシェルから離れなかった。
――この教師には、少し気をつけたほうがいいかもしれないな。
ルシェルは、そんな警戒を笑顔の裏に隠しながら、地面に落ちたままの本を拾いに歩いていった。
――お父様には、この件は黙っておこう。……いや、公爵家の耳には、おそらく三日と経たず入るな。
そんなことを考えて、ルシェルは少しだけ遠い目をしたのだった。
* * *
授業が終わったあとも、キセラはルシェルのそばを離れなかった。
ようやく涙が止まった目元は、まだ赤い。
それでも、彼女は何度も深く頭を下げた。
「ありがとうございました、ルシェル様……!」
「そう何度も頭を下げなくても結構ですわ」
「でも、私、今まで暴走を止めてもらったことなんてなくて……みんな、離れていくだけだったから……」
「そうですか」
「怖く、なかったんですか? あんなに近くで……」
「怖いと思ったのでしたら、そもそも飛び出しておりませんわ」
それを聞いて、キセラはまた目を潤ませた。
ルシェルは、慌てて話題を変える。
「それより、気づいたことがあります。あなたの魔力は、出口が足りていません」
「出口、ですか?」
「ええ。量が多すぎて、手のひらの手前で詰まっているのです。放つ瞬間に、息を長く吐いてみてください。出口が広がる感覚が、つかめるかもしれません」
「息を、吐く……」
「そもそも一度に放出する量を調節できるのであれば、それが一番近道ではあるのですが……どうやら貴女は、そういった器官があまりうまく機能していないようですものね」
キセラは言われたとおり、目を閉じて、ゆっくりと息を吐いてみた。
「ゆっくり息を吐きながら、少し魔力の出口を広げるようなイメージを思い浮かべて……」
キセラの手を握りながら、ルシェルは落ち着いた声色でキセラに語りかける。
ルシェルに言われた通り、静かに息を吐きながらキセラが自身の片手に魔力と意識を向けていく。
すると、手のひらにほんのりと淡い光が灯る。
さっきよりは安定して放出されたが、またすぐに魔力が膨れ上がりはじめた。
「キセラさん、私の目を見て」
すかさずルシェルが声をかけると、キセラは不安な表情のままルシェルを見つめた。
「落ち着いて……そう、いい子……」
ルシェルは言い聞かせながら、わずかに瞳に力を込める。
見つめ合ったまま、キセラを落ち着かせるようにルシェルはまた優しく語りかける。
すると、キセラの手のひらに集まった魔力はいつの間にかすんなり安定していた。
「あっ……今、いつもより、ちゃんと流れてる気がします!」
「それはよかった」
「ルシェル様、すごいです! 魔法が使えないのに、先生よりわかりやすい!」
「理屈で考えれば、わかる範囲のことです」
実際のところ、理屈だけではない。
けれど、そこまで説明する必要はないと、ルシェルは判断した。
「それに、なんだかルシェル様と見つめ合ってると、心が落ち着いて魔力操作にいつも以上に集中できます!」
「それはよかったですわ」
何事もなかったかのように、ルシェルは優しく微笑んだ。
今日だけで一体いくつ能力を使ったことか。
ベルファルグにバレたら過保護な彼のことだから、気でも失ってしまうのではないだろうか。
ルシェルはそんなことを考えながら、静かにキセラの手を離した。
「では、また是非、あなたの魔力が動く様子を近くで見せていただけますか。興味がありますの」
「え、むしろいいんですか!?」
「ええ。私にとっては、大変有意義なことですわ」
「わかりました! いくらでも見てください!」
キセラは嬉しそうに飛び跳ねた。
それから、少し恥ずかしそうに、上目遣いでルシェルを見る。
「あの、ルシェル様」
「はい」
「これって、友達って言っても、いいですか?」
ルシェルは、すぐには答えられなかった。
友達。
その言葉の意味を、彼女はまだ正確には掴めていない。
けれど、先ほど腕の中で感じた体温の温かさは、まだ手のひらに残っていた。
「……利害が一致していますから、悪くない関係だとは思いますわ」
「それ、友達ってことですよね!」
「そうとは言っておりませんが……」
「友達ってことですよね!」
キセラは一歩も引かなかった。
ルシェルはついに、諦めたように小さく息を吐いた。
「……お好きなように」
「やったあ!」
はしゃぐキセラの声が、昼前の演習場に高く響いた。
こめかみの鈍い痛みは、まだ少しだけ残っている。
――友人というものは、案外、勝手に増えていくものなのかもしれない。
そんなことを考えながら、ルシェルはふたたび本を開いた。
けれど、今日はなぜか、文字が少しも頭に入ってこなかった。




