第7話「崩落した計算と深淵の目覚め」
重い泥土の底から引き上げられるように、ゆっくりと感覚が輪郭を取り戻していく。
閉じたまぶたの裏に、ランプの鈍い光が滲んでいる。
指先を動かすと、滑らかな絹の感触が微かに肌を滑る。
ここは自分の部屋の寝台ではない。
重く垂れ込めた疲労感に逆らい、張り付いた上瞼を押し上げる。
視界を覆うのは、豪華なベルベットの天蓋である。
見知らぬ王家の紋章が、金色の糸で精緻に縫い取られている。
身を起こそうと肩に力を入れるが、鉛を飲み込んだように身体がひどく重く、再び柔らかなマットレスへと沈み込む。
喉の奥が砂を噛んだように乾ききっている。
熱を帯びた呼気が、ひび割れそうな唇からこぼれ落ちる。
ここに至るまでの出来事が、途切れた映像のように脳裏に蘇る。
王宮の壮麗な大広間で、すべてを終わらせるための筋書きを実行に移した。
無垢な男爵家の少年に侮蔑の言葉を投げかけ、誰の目にも明らかな悪役としての役割を全うした。
計算通りに事が進めば、王太子は正義感に駆られてこちらを糾弾し、婚約の可能性は完全に消滅するはずであった。
周囲の貴族たちが冷ややかな視線を向ける中、彼の口から破棄の言葉が告げられる瞬間を待っていた。
しかし、彼の反応は予想をはるかに超える異常なものであった。
彼は大勢の貴族が見守る中で、こちらの腰を強く引き寄せ、逃げ場のない距離で所有権を主張した。
その直後、肌を焼き尽くすような凄まじいフェロモンが暴風のように吹き荒れた。
薬で無理やり蓋をしていたΩとしての防壁が、その強大な力の前であっけなく粉砕された。
立っていることすらできなくなり、彼の腕の中で深い暗闇に飲まれた。
そこまでが、最後に残っている記憶であった。
深い絶望が、冷たい水のように胃の腑へと落ちていく。
計算は完全に外れた。
自ら引いた破滅への引き金は、彼との関係を断ち切るどころか、最も恐れていた事態を引き起こしてしまった。
部屋の空気を肺に吸い込む。
途端に、全身の血が粟立つような悪寒に襲われる。
ここは、ただの客室などではない。
空間の隅々に至るまで、彼自身の気配が濃密に染み付いている。
凍てつく高山の冷気と、夜露に濡れた針葉樹の葉をすり潰したような鋭い匂い。
以前学園で感じていたものより、はるかに直接的で、暴力的なほどの濃度を持っている。
呼吸をするたびに、その匂いが体内を侵食し、下腹部の奥で眠っていた甘い熱を強引に引きずり出そうとする。
常に服用していた抑制剤の効果が、完全に切れている。
手荷物はどこにも見当たらず、薬の入った銀の箱も手元にはない。
丸腰のまま、最も危険な場所に放り出されているという事実が、背筋を凍らせる。
シーツを強く握りしめ、なんとか上半身を起こす。
身につけていたはずの漆黒の礼服は脱がされており、薄い麻のシャツ一枚になっている。
胸元が大きく開き、鎖骨から胸の肌が直接冷たい空気に晒されている。
誰がこの服を着替えさせたのかを想像すると、胃の奥が激しくせり上がる。
窓は重厚な暗幕で完全に覆い隠され、外の光を一切遮断している。
壁際に置かれた古い魔導具のランプだけが、薄暗い琥珀色の光を放っている。
出口らしき重い樫の木の扉は、隙間なく閉じられている。
ゆっくりと寝台から降り、素足を冷たい絨毯の上に下ろす。
毛足の長い絨毯が、足の裏に柔らかく絡みつく。
膝が小刻みに震え、立つことすらおぼつかない。
扉に向かって一歩を踏み出した瞬間、部屋の空気が微かに揺れる。
金属の鍵が回る鈍い音が、静寂の空間に響き渡る。
全身が硬直し、呼吸が止まる。
扉が開き、薄暗い部屋の中に、背の高い影が入り込んでくる。
ノア・グランチェスター。
彼は夜会で着ていた礼服から、ゆったりとした濃紺のガウンに着替えている。
その表情は影に沈み、何を考えているのか読み取ることができない。
しかし、彼の瞳だけが、暗闇の中で獲物を狙う猛禽類のように鋭く光っている。
「目が覚めたか」
低く、地の底から響くような声が鼓膜を打つ。
私は壁に背中を押し当て、かろうじて自身の身体を支える。
「ここは、どこですか。私を帰してください」
声の震えを隠しきれず、必死に平坦な響きを取り繕おうとする。
「君はもう、どこへも帰る必要はない。ここは私の領域だ」
ノアは足音を立てずに、ゆっくりと距離を詰めてくる。
彼が一歩進むごとに、部屋に充満していた針葉樹の匂いがさらに濃さを増す。
薬の守りを失った身体が、その匂いに反応して内側から熱を発し始める。
膝の力が抜けそうになるのを、壁に爪を立てて必死に堪える。
「夜会での私の行動は、公爵家の長男としてあるまじきものでした。罰を受ける覚悟はできております」
「罰だと。君が他の者に触れようとしたことへの怒りはある。だが、君をここに閉じ込めたのは、罰を与えるためではない」
ノアが目の前で立ち止まる。
見上げる形になり、彼の高い体温が衣服越しに伝わってくる。
逃げ場はない。
「君の匂いが、ようやく隠さずに咲き始めた。これほど甘く、私を狂わせる香りだったとはな」
ノアの手が伸び、ヴィンセントの頬に触れる。
氷のように冷たい指先が、熱を持った肌を滑っていく。
その冷たさと相反するように、彼の指から伝わる執着の熱が、皮膚を焼き焦がすように感じられる。
薬で抑え込んでいたΩとしての本能が、目の前の強大なαに対して服従を誓おうと暴れ出す。
それを理性の力だけで押さえつけるのは、もはや時間の問題であった。
彼の指が頬から顎へと移動し、強引に顔を上へと向けさせる。
至近距離で交わる黄金の瞳には、一切の理性が残っていない。
ただ、自らの所有物を完全に支配し、その全てを味わい尽くそうとする狂気だけが渦巻いている。
計算ずくの悪役としての振る舞いなど、この狂気の前では何の意味も持たなかった。
逃げることも、抗うことも許されない。
深い絶望の淵で、ヴィンセントはただ彼の冷たい指の感触に耐え続けることしかできなかった。




