第6話「狂気の孵化と破滅へのシナリオ」
銀の燭台で揺れる炎が、自室の壁に巨大な影を落としている。
窓の外には新月が広がり、星の光すらも厚い雲に遮られて届かない。
冷え切った空気の中で、マホガニーの机に向かい、一枚の分厚い羊皮紙をじっと見つめている。
そこには、王家から届けられた王宮主催の夜会の招待状が置かれている。
金の箔押しで刻まれた王家の紋章が、炎の光を鈍く反射している。
温室での出来事から数週間。
ノアからの直接的な接触は、あの日を境にぴたりと止まっている。
廊下ですれ違っても、彼は視線を向けることすらない。
周囲の生徒たちは、王太子が公爵家の長男への興味を失ったのだと安堵の息を漏らしている。
しかし、ヴィンセントの肌が感じ取る事実は、それとは全く異なる。
接触がないからといって、ノアの執着が消え去ったわけではない。
むしろ、距離を置くことで、見えない重圧はより鋭く、より暗く研ぎ澄まされている。
ふとした瞬間に感じる、肌を突き刺すような視線。
誰もいないはずの背後から漂う、微かな冬の冷気と深い森の匂い。
ノアは、獲物を狩る直前の獣のように、ただ息を潜めて最適な瞬間を待ち構えている。
その狂気が完全に孵化する前に、自らの手でこの関係を完全に終わらせる必要がある。
引き出しを開け、古い革表紙のノートを取り出す。
そこには、この世界のシナリオの道筋が記されている。
本来であれば、ノアとヴィンセントの婚約が正式に結ばれた後、エリオットを巡る数々の事件を経て、卒業パーティーの場で婚約破棄が突きつけられる。
それが、ゲームにおける悪役令息の破滅の瞬間である。
しかし、今から数日後に開かれるこの夜会は、シナリオには存在しない全くの空白のイベントである。
ここで自ら決定的な破滅の引き金を引き、ノアとの繋がりを完全に断ち切る。
それが、現在の狂気から逃れるための唯一の手段である。
机の上に置かれた羽ペンを手に取り、インク壺に浸す。
これから行うべき行動の手順を、白紙の紙に書き連ねていく。
まず、夜会の場において、ノアの体面を決定的に傷つける必要がある。
多くの貴族が見守る中で、王太子に対する不敬を働き、自ら婚約の余地がないことを証明する。
次に、光のΩであるエリオットを利用する。
彼に公衆の面前で嫌がらせを行い、悪役としての役割を完璧に演じ切る。
そうすれば、ノアの正義感とαとしての本能が刺激され、ヴィンセントを切り捨てる大義名分が成立する。
そこまで計算を終え、ペンを置く。
指先が微かに震えていることに気づき、両手を強く握り合わせる。
これは、文字通り命を懸けた賭けである。
一つ間違えれば、断頭台への道が前倒しになるだけの結果に終わる。
しかし、ノアのあの暗く淀んだ黄金の瞳に永遠に囚われることに比べれば、自ら破滅を選ぶ方がまだ救いがある。
立ち上がり、クローゼットの扉を開ける。
暗闇の中に並ぶ衣服の中から、一着の礼服を引き出す。
それは、公爵家の長男としての威厳を示すための、深い漆黒の生地に銀の刺繍が施された豪華な服である。
あえてこの目立つ服を選び、夜会の中心で人々の視線を集める。
生地の滑らかな感触が、これから向かう戦場の冷たさを予感させる。
窓ガラスに映る自分の顔を見る。
青白い肌と、感情を消し去った氷のような青い瞳。
自分が悪役令息であることを、これほど強く意識したことはない。
◆ ◆ ◆
夜会の当日。
王宮の大広間は、数え切れないほどのシャンデリアの光で満たされ、真昼のように明るく照らし出されている。
オーケストラが奏でる優雅なワルツの旋律が、貴族たちの談笑の声を包み込んでいる。
私は、広間の隅にある柱の影に立ち、静かに人々の動きを観察している。
手にしたグラスの冷たい感触が、張り詰めた神経をわずかに冷やしてくれる。
中央の階段から、王太子ノアが姿を現す。
漆黒の礼服に身を包んだ彼の姿は、圧倒的な存在感を持って広間の空気を支配する。
彼が階段を下りるたびに、周囲の貴族たちが波が割れるように道を譲る。
ノアの表情は冷ややかで、誰に対しても感情の欠片も見せない。
しかし、広間に降り立った瞬間、彼の黄金の瞳が正確にヴィンセントの居場所を捉える。
距離が離れているにもかかわらず、その視線の重さが直接肌に突き刺さる。
呼吸が浅くなるのを自覚しながら、グラスの冷たい水を喉に流し込む。
準備は整っている。
視界の端に、エリオットの姿を見つける。
彼は男爵家の出身でありながら、その特異な魅力によってこの夜会に招かれている。
エリオットは、豪華な広間の雰囲気に気圧されたのか、壁際で肩をすくめて小さくなっている。
彼に向かって、ゆっくりと歩みを進める。
周囲の貴族たちが、公爵家の長男の動きに気づき、静かに視線を向けてくる。
私がエリオットの目の前で足を止めると、小柄な少年は驚いたように顔を上げる。
「このような場に、身の丈に合わない者が紛れ込んでいるようだな」
冷たく、周囲によく通る声で言い放つ。
音楽の音が遠のき、周囲の空気が一瞬にして凍りつく。
「あ……クロード様……」
エリオットは怯えたように身をすくめ、潤んだ瞳でヴィンセントを見上げる。
その甘い匂いが鼻を突くが、表情を崩すことなく冷ややかな視線を向け続ける。
「王宮の床が汚れる。早々に立ち去るがいい」
手にしたグラスの水を、わざと床に少しだけこぼす。
それは、明らかな侮辱のサインである。
周囲から息を呑む音が聞こえ、ざわめきが波のように広がっていく。
私は背筋を伸ばし、周囲の非難の視線を全身で受け止める。
これでいい。
これで、自分は救いようのない悪役としての立ち位置を確立した。
ノアがこれを見過ごすはずがない。
正義感に駆られ、ヴィンセントを糾弾するために歩み寄ってくるはずである。
視線を上げ、ノアの姿を探す。
群衆をかき分け、彼がこちらに向かって歩いてくるのが見える。
その足取りは静かであるが、周囲の空気を焼き尽くすほどの強烈なフェロモンを放っている。
冬の冷気と深い森の匂いが、大広間全体を支配していく。
ノアの瞳は、怒りではなく、何か別の恐ろしい感情で淀んでいる。
彼がヴィンセントの目の前で立ち止まる。
心臓が激しく鼓動し、息が止まりそうになる。
さあ、私を切り捨てろ。
そう心の中で叫びながら、ノアの言葉を待つ。
しかし、ノアの口から紡がれた言葉は、ヴィンセントの予想を根底から覆すものであった。
「私のものに、何をしている」
その言葉は、エリオットに向けられたものではなかった。
ノアの視線は、エリオットを完全に無視し、ただ私だけを貫いている。
彼の太く力強い腕が、私の腰を引き寄せ、自身の身体に強く密着させる。
周囲の貴族たちが、信じられないものを見るような目で二人を注視している。
「殿下……?」
予想外の展開に、声が震える。
ノアは私の耳元に顔を寄せ、凍りつくような声で囁く。
「君が私を拒むから、こうして皆の前で証明するしかないだろう。君が誰のものであるかを」
その言葉の直後、ノアの強大なフェロモンが暴風のように吹き荒れ、私の意識を深い暗闇の中へと引きずり込んでいく。
危険な賭けは、最悪の形で裏目に出てしまった。
破滅のシナリオは、私の意図しない方向へと、完全に暴走を始めていた。




