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モブになりたい悪役令息ですが、ヤンデレ王太子の執着を逆手にとって真の玉座に君臨します  作者: 水凪しおん


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第8話「本能の逆転と狂愛の寝所」

 ノアの冷たい指先が顎から離れ、首筋をなぞるように滑り落ちていく。

 その僅かな接触だけで、背筋に電流が走ったような悪寒が駆け抜ける。

 高山の冷気と針葉樹の匂いが肺の奥まで入り込み、呼吸をするたびに思考が白く濁っていくのを感じる。

 壁に押し付けた背中から伝わる冷たさだけが、辛うじて自我を保つための命綱となっている。

 ノアは一歩退がり、琥珀色のランプの光が彼の顔の半分を照らし出す。

 その表情には、獲物を完全に手中に収めた捕食者の、暗く静かな歓喜が張り付いている。


「さあ、こちらへ来い。君の居場所はそこではない」


 ノアがゆっくりと手を差し出す。

 その手を取ることは、完全な服従を意味する。

 私は首を横に振り、さらに壁へと身体を押し付ける。


「お断りいたします。私は、あなたのものではありません」


 絞り出すような声で拒絶の意志を示す。

 ノアは怒ることもなく、ただ低く喉の奥で笑う。


「まだ強がるか。だが、君の身体は正直だ」


 ノアの視線が、ヴィンセントの胸元、そして微かに震える膝へと向けられる。

 薬の効果が完全に切れた今、Ωとしての生理的反応を隠し通すことは不可能である。

 下腹部で渦巻く熱は次第に強くなり、足先にまで甘い痺れを広げている。

 ノアは差し出していた手を下ろし、背を向けて部屋の奥へと歩き出す。

 彼が離れたことで重圧がわずかに和らぎ、ヴィンセントは大きく息を吸い込む。

 しかし、その安堵は次の瞬間に視界に飛び込んできた異様な光景によって、完全に打ち砕かれる。

 部屋の奥、巨大な天蓋付きの寝台の周囲に、異常な量の布が積み上げられている。

 琥珀色の光に照らされたそれらは、ただの装飾品ではない。

 公爵家の紋章が刺繍された白いシーツ。

 学園の図書館で紛失したと思っていた、使い古したハンカチ。

 かつて着用し、いつの間にかクローゼットから消えていた仕立ての良いシャツの数々。

 それらが、鳥が枝を集めて巣を作るように、円を描いて幾重にも重ねられている。

 そこから漂ってくるのは、紛れもなくヴィンセント自身の微かな匂いである。


『これは……巣作り、なのか』


 頭の中で、信じがたい事実が言語化される。

 巣作りという行為は、通常、妊娠を控えたΩが安心感を得るために、伴侶の匂いのついた衣服を集めて行う本能的な行動である。

 それは、弱く守られるべき存在が己の身を守るための、生物学的な理である。

 しかし、目の前にあるこの異常な空間を作り上げたのは、完全無欠の強大なαであるノアに他ならない。

 彼が、ヴィンセントの匂いを求めて、自らの手でこれほどの衣服をかき集め、巣を構築したのだ。

 支配する側のαが、支配される側のΩの匂いに執着し、本能の理をねじ曲げてまでこの空間を作り上げたという事実。

 その狂気の深さに触れ、ヴィンセントの全身の毛穴が恐怖で開く。

 ノアは、積み上げられた布の山の中央に腰を下ろし、私のシャツを一枚手に取る。

 それを顔に近づけ、深く息を吸い込む。


「君が私を避けるたびに、私はこの匂いに縋るしかなかった」


 ノアの黄金の瞳が、布越しにヴィンセントを捉える。


「君から発せられるβの偽りの気配の奥に、いつもこの甘い匂いが隠されていた。私だけがそれを知っていた」


 彼はシャツを手放し、再び立ち上がる。

 そして、音もなくヴィンセントの目の前まで戻ってくる。


「もう偽る必要はない。君のすべてを、この巣の中で私に委ねればいい」


 ノアの腕が伸び、私の身体を軽々と抱え上げる。

 抵抗する間もなく、宙に浮いた身体はノアの腕の中にすっぽりと収まる。

 彼の高い体温と、針葉樹の匂いが全身を包み込む。


「離してください。こんなことは、間違っています」


 彼の胸板を押し返そうと両手を当てるが、岩のように硬い筋肉はびくともしない。

 ノアはそのまま歩き出し、積み上げられた布の山の中へと足を踏み入れる。

 円を描くように配置された衣服の壁を越え、中央の柔らかな寝台の上に私をゆっくりと横たえる。

 背中に触れた瞬間、自分の匂いが染み込んだ布の感触が肌を包み込む。

 それは奇妙なほどの安心感をもたらすと同時に、自分が完全に彼の領域に囚われたことを実感させる。

 ノアが覆いかぶさるように上から覗き込む。

 彼から放たれるフェロモンが、濃密な膜となって逃げ場を塞ぐ。

 Ωとしての本能が、このまま彼に身を任せ、番としての契約を結ぶことを強烈に要求してくる。

 意識が遠のきそうになる中、ヴィンセントは自身の内側で何かが冷たく研ぎ澄まされていくのを感じる。

 ただ恐怖に震え、支配されるだけの存在になることなど、決して受け入れられない。


『彼は、私に執着している。本能の理を狂わせるほどに』


 ノアの狂気的な愛情の深さは、裏を返せば彼自身の最大の弱点でもある。

 自分がただの無力なΩであれば、このまま飲み込まれて終わるだろう。

 しかし、この異常な状況を逆手に取ることができれば、強大なαの手綱を握ることも不可能ではない。

 薄れゆく理性の中で、絶望に染まりかけていた私の視界が、冷たく鋭い光を取り戻す。

 ノアの手が、麻のシャツのボタンに掛けられる。

 その動きを止めるため、私は自ら手を伸ばし、ノアの頬にそっと触れる。


「殿下」


 震えを抑え込んだ、静かで冷ややかな声が部屋に響く。

 ノアの動きが、ふいに止まる。

 ヴィンセントから自発的に触れられたことに驚いたように、黄金の瞳が見開かれる。

 ヴィンセントは視線を逸らさず、彼を真っ直ぐに見つめ返す。

 絶望の淵から這い上がり、ただ支配されるだけの運命に抗うための、新たな戦いが静かに幕を開けようとしていた。

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