第3話「標的のすり替えと絡みつく視線」
真新しい羊皮紙の匂いと、微かに漂う花の香りが混ざり合い、教室の空気を満たしている。
王立学園の高等部、その中でも上位の貴族だけが集められた特別クラスの教室である。
高い天井には細やかなレリーフが施され、磨き抜かれた木の床が窓からの光を反射して琥珀色に輝いている。
最後列の窓際の席に腰を下ろし、静かに外の景色に視線を向ける。
ここは、教室全体を見渡すことができると同時に、誰の視界にも入りにくい死角となる位置である。
机の上に置いた教科書の表紙を指先でなぞりながら、周囲の状況を注意深く観察する。
前方の席では、華やかなドレスや仕立ての良い制服に身を包んだ生徒たちが、早くも派閥を形成するための探り合いを始めている。
その喧騒から遠く離れ、ただ静かに息を潜める。
薬の効果は完全であり、自身の身体からはβ特有の無臭に近い気配しか発せられていない。
このまま誰の記憶にも残らない背景として、今日の授業をやり過ごす計画である。
しかし、その平穏な計算は、一人の生徒が教室に足を踏み入れた瞬間に崩れ去りそうになる。
重い木の扉が開かれ、ふわりとした蜂蜜色の髪を持つ少年が中に入ってくる。
小柄で線の細い身体つきと、どこか庇護欲をそそるような潤んだ大きな瞳。
彼が歩みを進めるたびに、春の陽だまりのような甘く柔らかい匂いが教室に広がる。
男爵家の出身でありながら、この学園に特待生として迎えられた光のΩ、エリオットである。
彼こそが、この世界における本来の主人公であり、物語の中心となる存在である。
その匂いに当てられたのか、教室内にいる数人のαたちが、落ち着きなく視線をさまよわせ始める。
エリオットは戸惑ったように周囲を見回し、空いている席を探している。
彼と関わることは破滅への第一歩であるため、決して目を合わせず、窓の外へと意識を向ける。
教室の空気が、ふいに冷たく重いものへと変貌する。
扉の前に立つ人物の姿を視界の端に捉えた瞬間、首筋の産毛が逆立つような感覚を覚える。
ノア・グランチェスター。
彼が姿を現しただけで、先ほどまで騒がしかった生徒たちの声が、嘘のように完全に途絶える。
冷たい冬の空気と、光の届かない深い森の底を思わせる匂いが、エリオットの甘い香りを一瞬にして塗り潰していく。
呼吸をするたびに、肺の奥が凍りつくような冷たさを感じる。
ノアは教室全体を静かに見渡し、歩みを進める。
本来のシナリオであれば、彼はここでエリオットの存在に気づき、その甘い匂いに惹きつけられるように隣の席を選ぶはずである。
そこから、運命の歯車が回り始める計画となっている。
手元の教科書に視線を落とし、二人が接触する瞬間を静かに待つ。
しかし、規則正しい革靴の音が近づいてくる方向は、教室の前方ではない。
硬い足音は、迷うことなく真っ直ぐに教室の後方へと向かってくる。
心臓が肋骨を内側から強く叩きつけるのを感じ、指先が微かに冷たくなっていく。
足音が、すぐ隣でピタリと止まる。
「隣、空いているだろうか」
低く、静かな声が頭上から降ってくる。
ゆっくりと顔を上げると、すぐ目の前にノアの整った顔立ちがある。
黄金の瞳が、逃げ場を塞ぐように真っ直ぐにこちらを見下ろしている。
周囲の生徒たちが息を呑む気配が、肌を刺すように伝わってくる。
なぜ、彼がここにいるのか。
前方の席には、エリオットの隣も含めて、彼にふさわしい席がいくつも空いているはずである。
動揺を表情に出さぬよう、唇を強く引き結ぶ。
「殿下のお座りになる席は、前方にも多く用意されております」
平坦な声で、あくまでも事実だけを告げる。
「私が、ここが良いと言っている」
拒絶を許さない響きが、短い言葉の中に込められている。
これ以上拒めば、かえって周囲の注目を集める結果となる。
静かに立ち上がり、深く一礼をして席を譲る姿勢を見せる。
「どうぞ、お使いください」
ノアは満足げに目を細め、私の隣の椅子を引き、優雅な動作で腰を下ろす。
彼が座った瞬間、その身体から発せられる冷たい匂いが、さらに濃密になって押し寄せてくる。
距離が近すぎる。
肩が触れ合いそうなほどの位置に、強大なαが座っているという事実が、薬で抑え込んでいるはずの本能を静かに揺さぶる。
喉の奥がカラカラに乾き、唾液を飲み込むことすら困難になる。
視線を前に向けると、エリオットがこちらを不思議そうに見つめている。
今ならまだ、物語の軌道を修正できるかもしれない。
そう考え、ほんの少しだけノアの方へと顔を向ける。
「殿下。あちらに、男爵家のご子息がいらっしゃいます。特待生として入学された、非常に優秀な方だと聞き及んでおります」
抑揚のない声で、エリオットの存在をノアに提示する。
光のΩの魅力に触れさせれば、ノアの興味は必ずそちらに移るはずである。
しかし、ノアの視線は前方に向かうことはなく、ただ私の横顔だけを執拗に捉え続けている。
「それが、どうかしたのか」
興味の欠片もない、ひどく冷ややかな声が鼓膜を打つ。
「彼のような才能ある者を、殿下の側近として見極めることも、有意義かと存じます」
必死に言葉を紡ぎ、視線をエリオットの方へと誘導しようと試みる。
「私の側近は、私が決める。他人に指図される筋合いはない」
ノアの声が一段階低くなり、明確な不快感が匂いとなって周囲の空気を重くする。
氷のように冷たい視線が、私の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「君は、なぜそうやって他人に私の目を向けさせようとする。まるで、私から逃げようとしているように見える」
核心を突く言葉に、呼吸が浅くなる。
ノアの黄金の瞳には、見えない鎖で獲物を縛り付けるような、重くねっとりとした熱が宿っている。
彼はエリオットなど全く見ていない。
この広い教室の中で、ただ一人、私という存在だけを視界の中心に据えている。
運命に抗おうとする行動そのものが、逆に彼の執着を深めていることに気づき、背筋に冷たい汗が流れる。
これ以上言葉を交わすことは危険であると判断し、再び視線を教科書へと落とす。
「差し出がましい真似をいたしました。お忘れください」
それきり口を閉ざし、彫像のように身を固くする。
隣からは、ノアの規則正しい呼吸の音が聞こえてくる。
その吐息一つでさえ、皮膚の表面を撫でられるような錯覚を引き起こす。
周囲の生徒たちは、王太子が公爵家の長男に特別な関心を寄せているという異常な光景に、好奇と畏怖の入り混じった視線を向けている。
モブとして生きるという計画は、入学初日にして完全に破綻しつつあった。
逃げ場のない檻の中に閉じ込められたような息苦しさを感じながら、ただ授業の終わりの鐘が鳴るのを待ち続ける。




