第2話「交わるはずのない黄金の瞳」
重厚なオーク材の扉の向こうに、王立学園の大講堂が広がっている。
高い天井からは巨大なシャンデリアが吊り下げられ、色鮮やかなステンドグラスを通して差し込む光が、磨き上げられた大理石の床に複雑な模様を描き出している。
講堂の中は、すでに多くの新入生たちで埋め尽くされている。
華やかな香水、真新しい衣服の染料、そして何より、無数の人間が発するフェロモンが混ざり合い、濃密な空気の層を作り上げている。
自己を主張するαたちの鋭い匂い。
それを受け流すβたちの穏やかな気配。
そして、甘く周囲を誘惑しようとするΩたちの微かな残り香。
それらが渦巻く空間に足を踏み入れた瞬間、薬で感覚を鈍らせているはずの身体が、微かにこわばるのを感じる。
浅く呼吸を繰り返し、肺に余計な空気を取り込まないようにする。
周囲の視線を避けるように壁沿いを進み、講堂の最後列、太い柱の影になる位置に陣取る。
両手を身体の前で軽く組み、視線を足元の床に落とす。
誰の目にも留まらない、ただの風景の一部になるための姿勢である。
周囲の貴族たちは互いに自己紹介を交わし、派閥を探り合っているが、私に声をかけてくる者はいない。
公爵家の長男という立場でありながら、自ら気配を絶っていることが功を奏している。
ふと、講堂内のざわめきが波が引くように静まっていく。
誰かが声を上げたわけではない。
ただ、空間の温度が急激に下がったかのような錯覚が、その場にいる全員の口を閉ざさせた。
硬い靴音が、静寂に包まれた石の床に規則正しく反響する。
視線の端に、演壇へと向かって歩く一人の少年の姿が映る。
漆黒の髪が、ステンドグラスの光を吸い込むように艶やかに流れている。
仕立ての良い白と金の軍服風の制服が、無駄のない引き締まった身体の線を強調している。
王太子、ノア・グランチェスター。
彼が歩みを進めるたびに、周囲の空気が重圧を伴って押し寄せてくる。
それは、威圧的な暴力ではなく、ただそこに存在するだけで他者を平伏させるような、揺るぎないαとしての特質である。
鋭く冷たい冬の空気と、深い森の奥底を思わせる匂いが、講堂の隅々にまで広がっていく。
その匂いを嗅いだ瞬間、下腹部の奥で小さく熱が跳ねる。
薬で完全に押さえ込んでいるはずのΩとしての本能が、彼という強大な存在を前にして、わずかに首をもたげようとする。
爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握りしめ、痛覚によって理性を繋ぎ止める。
周囲の生徒たちは、呼吸すらためらうようにうつむき、彼に道を譲っている。
ノアが演壇の中央に立ち、振り返る。
その瞬間、さらに強い緊張が講堂全体を包み込む。
私は決して顔を上げず、自分の靴の先端だけをじっと見つめ続ける。
ノアの深く澄んだ声が、静かな空間に響き渡る。
新入生に対する歓迎の辞。
淀みなく紡がれる言葉は、完璧な王太子としての模範そのものである。
しかし、その声を聞いている間、奇妙な感覚が全身の皮膚を這い回る。
まるで、見えない針で背筋をなぞられているかのような、ひりつくような違和感。
気のせいだと自分に言い聞かせるが、その感覚は時間とともに強まっていく。
ほんの少しだけ、視線を上げる。
大勢の生徒たちの頭越しに、演壇の上に立つノアの姿を捉える。
その瞬間、息が止まる。
ノアの黄金の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜いていた。
数百人という生徒がいる中で、彼の視線は間違いなく最後列の柱の影にいる私ただ一人に向けられている。
彫像のように冷ややかな表情の中で、その瞳だけが燃えるような熱を帯びているように見える。
心臓が早鐘を打ち、喉の奥がカラカラに乾いていく。
なぜ、彼が自分を見ているのか。
設定上の婚約者としての縁は、まだ結ばれていないはずである。
動揺を悟られないよう、すぐに視線を床へと戻す。
冷や汗が背中を伝い落ちるのを感じながら、ただひたすらに時間が過ぎるのを待つ。
◆ ◆ ◆
長い式典が終わり、生徒たちの間に安堵の空気が広がり始める。
それを合図に、私はすぐに向きを変え、出口へと向かう。
誰よりも早くこの息苦しい空間から抜け出すため、足早に廊下を進む。
主人公である光のΩがどこかにいるはずだが、探す気など毛頭ない。
冷たい石の壁に囲まれた廊下を抜け、人けのない中庭へと出る。
曇り空から漂う湿った土の匂いと、微かに降る冷たい雨の気配が、張り詰めた神経を少しだけなだめてくれる。
大きな木の下に立ち、冷たい外気を深く吸い込む。
これで、最初の難関は乗り越えた。
あとは、授業と寮の往復を繰り返すだけの生活を守り抜けばいい。
そう自分に言い聞かせ、乱れた呼吸を整える。
しかし、その安堵は長くは続かない。
硬い靴音が、静寂を破って背後から近づいてくる。
足音の主が誰であるか、振り返る前に匂いで理解する。
冬の空気と深い森の匂い。
先ほど講堂で感じたものよりも、はるかに濃密で直接的な気配。
逃げ場のないほどの重圧が、背後から覆いかぶさってくる。
ゆっくりと振り返る。
そこには、一人で歩いてくるノアの姿がある。
護衛の騎士も、取り巻きの貴族も連れていない。
ただ彼一人だけが、静かな中庭に立っている。
「君は、公爵家の……」
低く、しかし耳の奥に直接響くような声が中庭に落ちる。
ヴィンセントは表情を一切崩さず、完璧な礼の姿勢をとる。
「ヴィンセント・クロードと申します。以後、お見知りおきを」
感情の起伏を完全に消し去った、平坦な声で答える。
ノアは数歩だけ距離を詰め、ヴィンセントの目の前で足を止める。
その距離は、初対面の貴族同士が保つべき間合いよりも、わずかに近い。
「なぜ、顔を上げない」
静かな問いかけの中に、探るような響きが混じっている。
ヴィンセントは視線を落としたまま、静かに口を開く。
「恐れ多くて、王太子殿下を直視することなどできません」
用意していた完璧な言い訳を口にする。
しかし、ノアの視線が頭上から突き刺さるのを感じる。
「嘘だな。君は、私を避けている」
確信に満ちた言葉に、心臓が跳ねる。
なぜ、一度も言葉を交わしたことのない相手に、そこまで見透かされているのか。
動揺を押し隠し、あくまでも平静を装う。
「気のせいでございます。それでは、私はこれで失礼いたします」
深く頭を下げ、ノアの横を通り抜けようとする。
その瞬間、ノアの指先がわずかに動いたのが視界の端に映る。
しかし、彼の手がヴィンセントに触れることはない。
通り過ぎる際、ノアから放たれる濃密な匂いが全身を包み込む。
足がすくみそうになるのを必死に堪え、一定の歩調を保ったまま歩き続ける。
背中に突き刺さるような黄金の視線を感じながら、決して振り返ることなくその場を離れる。
交わるはずのない二人の距離が、決定的に狂い始めた瞬間であった。




