太陽は無礼だ (挿絵あり)
聖域を出て、一刻。
僕は外の世界について、重大な欠陥を三つ発見していた。
一つ。
太陽が眩しすぎる。
二つ。
風が勝手に髪を乱す。
三つ。
地面が平らではない。
なお、四つ目として「見るものが多すぎて、どれから見ればよいか分からない」があったが、これは世界ではなく、僕の側に原因がある可能性を否定できない。
ゆえに、ひとまず保留とした。
「太陽は光量を半分に落とすべきだ。風には僕の周囲を通る前に許可を取らせたまえ。それから、この山道を設計した者を連れてくるんだ」
雪へ足を沈めながら告げると、半歩後ろから荒い息が返ってきた。
「世界へ出て一時間で、自然界に三件も苦情を出す奴、初めて見た……」
カイトは大剣の切っ先を雪へ沈め、杖のように身体を預けている。肩に張った氷膜の下では出血こそ止まっていたが、顔色は雪と大差がなかった。
「当然の指摘だよ。聖域の氷床は常に水平だった」
「自然の山に施工責任者はいねえよ」
「ならば神の設計不良だね」
「いきなり責任者の最上位まで行ったな」
まったく、不便な場所だ。
そう断じながら、僕の目は少しも休まらなかった。
陽光を受けた雪原は、顔を傾けるたびに色を変える。白一色に見えたはずなのに、青、銀、薄紫――砕いた宝石を無数に撒いたような光が、斜面の上をどこまでも滑っていく。
遠い谷底では、細い川が蛇のように山肌を縫っていた。雲の影がその上をゆっくりと横切り、さらに向こうには、僕の知らない森と平原が地平線まで続いている。
広すぎる。
僕が三千年を過ごした聖域など、世界という大海に浮かぶ一粒の氷でしかなかったのだと、頼んでもいないのに思い知らされる。
風が吹くたび、知らない匂いがした。
冷えた雪。陽に温められた岩。針葉樹の樹脂。雪の下で春を待つ、湿った土。
聖域にある水鏡を通して眺めた景色には、匂いなどなかった。
井戸へ差す光も、雨に濡れる屋根も、川を渡る獣の脚も、僕に届く頃には水面へ映る静かな像へ変わっていた。
けれど今は違う。
風が頬を撫で、眩しさが目を細めさせ、雪が靴の隙間へ入り込む。世界のほうから距離も礼儀も無視して、僕の全身へ押し寄せてくる。
ひどく騒がしい。
胸の奥が落ち着かないほどに。
「さっきから首が忙しいな」
「周囲を警戒しているだけだ」
「へえ。雪を持ち上げて、日に透かすのも警戒なんだ?」
摘まんでいた雪の結晶を、即座に握り潰した。
「黙りたまえ!」
「別に隠さなくても――危なっ」
足元の雪が、ずるりと滑った。
傾いた身体を戻すより早く、カイトの手が僕の腕を掴む。
「ほら。見すぎて転ぶなって」
「いまのは地面が僕へ近づいてきたのだ」
「便利だな、その世界の見え方」
反論しようと振り向き、言葉を呑み込んだ。
僕を支えた拍子に、カイトの顔が苦痛で歪んでいる。肩の氷膜へ細い亀裂が走り、その下へ赤い色が滲み始めていた。
「馬鹿か、君は!」
腕を振り払い、その肩へ手を翳す。
空気中の水分を集め、傷口の熱と腫れを確かめた。幸い、縫い合わせたように閉じていた傷が僅かに開いただけだ。汚れを洗い、今度は動きを妨げないよう幾層もの薄い水膜で覆ってから、表面だけを凍らせる。
「怪我人が咄嗟に手を出すんじゃない。僕なら自分で止められた。君が手を出す必要はなかっただろう」
「相棒が転びそうだったから、つい」
「だからといって傷を増やせば、僕の処置が不完全だったように見えるではないか」
「そこ?」
「ほかに何がある」
言い切ると、カイトは妙に嬉しそうに笑った。
その顔が気に入らず、先ほど掴まれた腕をローブの中へ隠す。そこだけ、風に晒された肌より僅かに温かかった。
腹立たしいことに、その温度まで消してしまおうとは思えなかった。
「それにしても、よく聖域の中心まで生きて辿り着けたものだね。外縁ですら、人間の血なら瞬時に凍る温度だったはずだ」
「ああ。それは環境耐性・極のおかげ」
聞き慣れない名に眉を上げる。
カイトは白い息を吐き、震える指を僕へ見せた。
「この世界へ来て『勇者』を押しつけられたとき、剣術とか危機感知とかと一緒にくっついてきた技能だ。熱、冷気、毒、気圧、酸欠。環境が原因の即死を、ほとんど無理やり防ぐ」
「では、なぜ聖域であれほど震えていたんだい?」
「耐えられるのと快適なのは別だ。お前の聖域、耐性が『極』でも普通に寒いんだよ。あれがなかったら、最初の一呼吸で肺まで凍ってた」
「冷気はそれで説明がつく。だが、結界はどうした。あれは外敵を役割ごと見分けて拒む術式だよ」
「たぶん、見分けられなかったんだろ」
カイトは自分の胸を指した。
「俺は『勇者』の登録を途中で切ってる。結界から見れば、敵か味方か読むための欄だけ破れてたんじゃないか」
なるほど。役割を偽装して侵入したのではない。判定に使う一行そのものが欠けていたから、結界はこの男を拒む対象として確定できなかったのだ。
世界の規則を破る力で、道に迷った末に偶然入り込む。能力だけは大仰なのに、使い道が遭難である。少しも格好よくない。
「では、僕を外へ出したのも、その能力に命じられたからではないのだね」
「あれは俺が勝手に決めた。能力は扉を切れても、手を差し出せとは言わないからな」
胸の奥へ、太陽とは別の熱が一滴落ちた。
もちろん、顔には出していない。守護龍の威厳は、そう簡単に融けないのである。たぶん。
つまり、彼の耐性をもってしても、僕の冷気には耐えるのが精いっぱいだったということか。
「僕のほうが上だったわけだね」
「どうして勝負になってるの?」
カイトが呆れた声を出した直後、その膝ががくりと折れた。
今度は僕が腕を掴む。
大剣を杖にしたまま片膝をついた彼の呼吸は浅く、額にはこの寒さに似つかわしくない汗が浮かんでいた。
傷だけではない。
千の水弾を消し、聖域を縛る世界の規則を斬った代償が、まだ彼の内側を食い潰している。
「休みたまえ」
「心配して――」
「命令だ。案内役が途中で死ねば、僕が困る」
「……そういうことにしとく」
風の弱い岩陰へ移動させると、カイトは外套を丸めて背中へ挟み、その場へ仰向けになった。
「五分だけ」
「人間は頻繁に停止するのだね」
「三千年止まってた奴に言われたくない……」
「僕は守護していた」
「はいはい」
返事は、すぐに寝息へ変わった。
無防備にも程がある。
出会ったばかりの龍の隣で、よく目を閉じられるものだ。
僕は周囲へ薄い水の幕を張った。風と冷気だけを受け流し、音は通す。魔獣が近づけば、振動で分かるように。
別に、彼を守るためではない。
五分後に確実に起こすためだ。
そう理由をつけてから、ようやく岩陰を離れた。
雪の切れ目に、黒い土が覗いている。
指で触れると、僅かに湿っていた。冷たいのに柔らかく、押した場所が僕の指の形に沈む。整えなければ平らな形すら保てないとは、何とも頼りない物質だ。
けれど、その頼りない土を押し上げるように、小さな青い花が咲いていた。
水晶よりも薄い花弁が、風に吹かれるたびに震えている。
今にも折れそうなくせに、風が止めば何事もなかったように空へ顔を上げた。
「……ずいぶん、しぶとい」
誰に聞かせるでもなく呟く。
その先から、雪解け水の音が届いた。
岩の隙間を縫う細い流れへ意識を伸ばす。
聖域の水は、僕が命じれば止まり、分かれ、凍った。僕の役割を支えるため、三千年、一度も流れを乱さなかった。
けれど山の水は、僕が何も言わなくても勝手に石を避け、小さな流れへ分かれ、また一つになる。陽に温められれば空へ昇り、冷えれば雪となって別の場所へ降りる。
誰にも道を決められず、それでも最後には川へ集まり、海を目指す。
「好き勝手に見えて、随分と働き者だ」
水へ話しかけると、流れが岩へ当たり、くすくす笑うような音を返した。
胸の奥で、水龍脈が静かに脈打つ。
聖域を離れても、その鼓動は消えていない。
水は、ここにもある。
僕が知らなかっただけで、世界のあらゆる場所へ道を作りながら。
そのとき、青い花が大きく震えた。
風のせいではない。
足の裏から、低い振動が這い上がってくる。
一度。
二度。
山の上方で、積もった雪を横断するように長い亀裂が走った。
「カイト。起きたまえ」
「あと三分……」
「山が落ちてくる」
「そういうのは先に言え!」
跳ね起きたカイトの背後で、白い壁が動いた。
尾根から剥がれた雪が、岩を砕き、針葉樹を根こそぎ呑み込みながら斜面を駆け下りてくる。
轟音を撒き散らし視界の端から端までを白い奔流が埋め尽くした。
「聖域の天蓋を割った衝撃か……!」
「割ったのは君だろう!」
「反省会は生き残ってからだ! 走るぞ!」
カイトが僕の手を掴もうとする。
僕は動かなかった。
雪崩の進路、その先に濃い針葉樹の森がある。さらに遠く、山裾から細い煙が三本、空へ昇っていた。
人の住む家だ。
このままでは、雪と岩は森を削り、あの煙ごと押し潰す。
「リル!」
「誰に向かって、逃げろと言っているんだ」
迫る白い奔流へ、人差し指を向ける。
雪も、氷も、形が違うだけで水だ。
そして水は、蒼水龍の前で勝手な振る舞いを許されない。
「止まりたまえ」
たった一言。
指先から生まれた蒼い波紋が、山肌を逆流する。
先頭の雪が空中で静止した。
その背後から押し寄せた雪も、砕けた岩も、根を晒した巨木も、見えない壁へ衝突する寸前で次々に動きを失っていく。
流れへ逆らうのではない。
一粒一粒の水へ命じ、互いの力を受け渡させ、山そのものへ返していく。
白い奔流の表面を蒼光が駆け上がった。
数十歩先まで迫っていた雪崩は、牙を剥いた巨大な波の形を残したまま、青白い氷壁へ変わる。
それだけでは終わらない。
波紋は尾根まで駆け戻り、崩れかけた雪層を地表へ縫い止めた。山の片側すべてが一枚の氷晶となり、陽光を弾いて空まで蒼く染め上げる。
轟音が途切れた。
「……少し、凍らせすぎたか」
外の水は聖域より広く散らばっている。普段どおり命じたつもりだったが、力の伝わる範囲が想定より大きかったらしい。
それを認めるのは癪なので、黙っておく。
カイトは、口を開けたまま固まっていた。
僕と、山肌を覆う氷壁を何度も見比べている。
聖域では僕の力を消した男が、今度は避けることさえ忘れて立ち尽くしている。その反応は、少しだけ気分がよかった。
「指一本で、山を止めた……?」
「山ではない。雪崩だ」
「そこが訂正点なの?」
「人里へ被害は出ていない。適切な処置だろう」
カイトは氷壁の向こうにある山裾を確認し、次に、なぜか僕の鼻先を警戒するように見た。
「お前、これからくしゃみをする前には必ず教えろよ」
「なぜだ」
「大陸が凍るかもしれない」
「僕のくしゃみを何だと思っている!」
声が山々へ反響する。
カイトは腹を抱えて笑い出した。
恐怖ではない。
呆れと驚き。それから、なぜか本人まで誇らしそうな顔をしている。
「やっぱ、すげえな。俺の相棒」
「……当然だ」
返した声が僅かに遅れた。
役割を果たせば、水龍脈はいつも力で応えた。
けれど、それは僕が守護者として正しく働いた証明であって、僕自身へ向けられた言葉ではない。
目の前の男は、役割ではなく、僕を見て笑っている。
胸の奥が妙に温かい。
太陽に照らされ続けたせいだ。そういうことにしておこう。
ふと、氷壁の奥から水の軋む声が届いた。
「……いや。まだだ」
「まだ何か来るのか?」
雪崩は止まったが、雪解け水の流れまで塞いでしまっている。このまま夜になれば、行き場を失った水が氷壁の裏へ溜まり、別の斜面を崩す。
麓の家々を直撃する位置ではない。だが、三本の煙のうち最も西にある小屋の井戸へ、土砂が流れ込む可能性があった。
両手を広げ、氷壁の内側へ意識を沈める。
止めるだけなら簡単だ。
大きな力で、より大きく押さえつければよい。
けれど、止まった雪の中には、折れた枝も、岩も、崩れかけた土の層もある。流れを戻すには、新たな崩落を起こさない道を一つずつ探さなければならない。
髪より細い水路を、氷壁の内部へ何百本も通す。
高い場所から低い場所へ。
土の緩んだ箇所を避け、根の残った場所へ少しずつ水を預ける。溜まった圧力を一度に解放せず、幾千もの雫へ分けて谷の川へ返していく。
やがて、氷壁の内側で軋んでいた水音が静まった。
幾筋へ分けた雪解け水は土砂を巻き込まず、谷の川へ合流していく。
水の流れが安定したのを確かめてから、麓の小屋へ意識を伸ばす。
井戸の水は澄んだまま。
三本の煙も消えていない。
家の中では、先ほどの轟音に驚いて泣き出した赤子を、誰かがあやしていた。
彼らは、雪崩が偶然止まったと思うのだろう。僕の姿を見ることも、名を知ることもない。
それでよかった。
聖域にいた頃と同じ、名を知られぬ守護だ。
けれど、今日は一つだけ違う。
僕が何を守ったのか、隣で見ていた者がいる。
「おい無礼者」
「何だ?」
「いまの調整まで含めて、適切な処置だ。正確に記憶しておきたまえ」
「褒め直せってこと?」
「事実を正しく認識しろと言っている」
「はいはい。山と村と井戸を救った俺の相棒、すごいすごい」
「心がこもっていない!」
◇
再び山道を下り始める。
数歩も進まないうちに、カイトの身体が大きく傾いた。
僕は溜息をつき、その腕を自分の肩へ回す。
「お、今度は素直に支えてくれるの?」
「君の歩みが遅すぎるせいで、日が暮れてしまうからだ」
「リルって、優しさに必ず言い訳をつけないと死ぬ病気か?」
「いま手を離してもいいんだよ」
「ごめんなさい。相棒、超助かります」
まったく、世話の焼ける人間だ。
そう悪態をつきながら、彼の腕がずり落ちないよう、僕はローブごと強く掴み直した。
日が山の向こうへ沈む頃、僕らは雪線の下に残された古い監視小屋へ辿り着いた。
屋根は半分ほど苔に覆われ、扉は片方の蝶番だけで辛うじてぶら下がっている。床には鼠の足跡。壁際には、誰が置いたのか分からない薪が湿ったまま積まれていた。
「ここで夜を越す」
「却下だ。聖域なら、もっと清潔で広く、寝床も平らだった」
「じゃあ戻る?」
「その選択肢を出すな」
即答すると、カイトは笑いながら扉を持ち上げた。
仕方なく、床の泥と埃だけを水で集め、外へ捨てる。隙間風は薄い氷膜で塞いだ。ついでに傾いていた床を水平へ直そうとしたところで、カイトに止められた。
「建物ごと凍らせる気?」
「水平にするだけだ」
「それ、たぶん基礎からやるやつだろ」
「人間の建築は不便だね」
カイトは荷袋の底から、硬い干し肉を一切れ取り出した。残りはそれだけらしい。
「お前も食う?」
「不要だ。水龍脈から魔力を得られる」
「便利な身体だな」
「君の燃費が悪すぎるんだよ」
干し肉を齧る音を聞きながら、小屋の外へ意識を伸ばす。
夕闇とともに、森の気配が変わっていた。
角兎は巣穴へ潜り、枝角鹿の群れは僕らのいる斜面を大きく避けている。鳥も、羽音一つ残さず南へ移っていた。
当然だ。
普通の獣は、強大な魔力を恐れる。僕の気配を感じれば、本能のあるものほど距離を取る。
だが、逃げない気配があった。
一つ。
五つ。
十二。
森の暗がりを縫い、こちらへ集まってくる。
どの脈も速い。飢えている。恐怖で足を鈍らせながら、それでも僕の魔力へ鼻先を向けていた。
「カイト」
干し肉を噛んでいた音が止まる。
「何体だ?」
「まだ増えている。三十……いや、三十一」
暗闇の中で、縦に並んだ三つの眼が一斉に開いた。
聖域の外周を、何百年も飽きずに巡っていたものと同じ気配。
純度の高い魔力だけを求め、結界の向こうで爪を立て続けていたもの。
「三つ目魔狼だ」
カイトが大剣へ手を伸ばす。
「野生動物は逃げたのに、あいつらだけ寄ってきたな」
「当たり前だよ」
小屋の周囲へ、三十一の唸り声が重なった。
僕は立ち上がり、額の角へ集まり始めた視線を鼻で笑う。
「あれは獣ではない。魔力を喰らうために造られた、魔王の遺物だ」
◇
二人が山を下り始めたあと。
凍りついた尾根の上で、一枚の白い羽根が陽光を受けていた。
雪崩にも巻き込まれず、風に飛ばされることもなく、羽根は二人の背中をじっと見送っている。
やがて、その表面へ細い文字が浮かび上がった。
『水龍脈守護個体、規定領域より離脱』
『同行者、世界記録深層への切断痕を保有』
『両名を、校正対象として記録』




