魔力を喰らう者
三十一組の眼が、闇の中で光っていた。
三つずつなので、正確には九十三の眼だ。
数だけは多い。
もっとも、眼を三つへ増やしたところで、見ているものが僕の魔力だけなら、知性まで三倍になるわけではない。濁った水を三つの器へ分けても、澄んだ水にはならないのと同じだ。
三つ目の魔狼。
僕が知っているのは、その見た目と性質だけだ。
馬ほどの体躯に、灰黒の毛皮。額には縦長の第三眼があり、その瞳だけは生き物の姿ではなく、魔力の濃淡を見ている。
名など知らないし、知ろうと思ったこともない。
どのような名で呼ぼうと、領域へ害をなすなら討つ。それだけの存在だ。
小屋の右に九体。
左に十二体。
背後の斜面に九体。
そして正面の岩上には、ほかの個体より二回り大きな黒い魔狼が一体。
普通の獣なら、とっくに逃げている。
実際、枝角鹿も角兎も、僕の魔力を察して斜面の向こうまで遠ざかっていた。
だが、魔物だけは逆だ。
四肢を震わせ、尾を腹へ巻き込み、僕という存在を本能の底から恐れながら――唾液を垂らして近づいてくる。
実に醜い。
恐怖よりも飢えを優先するよう、最初から造られている。
「三眼魔狼か。しかも三十一体」
カイトが、僕らを囲む眼の群れを見渡しながら呟いた。
「それが、こいつらの名前か?」
「ああ。旅の途中で何度か討伐した。冒険者の間じゃ、そう呼ばれてる」
「三つ目の魔狼で十分だろう」
「生態は知ってるくせに、名前には興味なしか」
「名を覚えれば、勝手に消えてくれるのか?」
「いや」
「なら、不要だ」
「お前、そういうところだけ妙に合理的だよな」
呆れたように言いながら、カイトは背負っていた大剣へ手をかけた。
「その肩で剣を抜くつもりか?」
僕が尋ねると、カイトは大剣を鞘から半分だけ引き出した。
「三十一体をお前一人に任せて寝るほど、神経太くないんでね」
「僕の隣で熟睡した男がよく言う」
「あれは限界だったんだ!」
魔狼たちは、すぐには襲いかかってこなかった。
小屋の周囲を円を描くように歩き、少しずつ距離を詰めてくる。狙っているのは喉でも腹でもない。額の角と、胸の奥にある龍核だ。
獲物を見る眼ではない。
飢えた器が、自分を満たす魔力を測っている。
カイトが低い声で尋ねた。
「聖域にもいたのか?」
「結界の外を、飽きもせず徘徊していた。純度の高い魔力が漏れるたびに集まってきて、氷壁へ牙を立てていた」
「三千年?」
「同じ個体ではない。増え、死に、また別の群れが来た。僕には、水晶柱へ群がる羽虫と大差ない」
黒い魔狼が、岩の上から僕を見下ろす。
見下ろされるのは気に入らない。
もっとも、あと少しで見上げる頭自体がなくなるので、今だけは許してやろう。
「魔物は、普通の動物とは違うのか」
「君はそんなことも知らないのか?」
「習った話はある。けど、お前の知ってる話も聞きたい」
知識を試すつもりではなく、僕の答えを聞こうとしている。
そういう尋ね方をされると、無視するほうが子供じみて見える。実に狡猾な男だ。
「魔物は、かつての魔王が眷属として生み出した生命だ」
僕は三十一の魔核を、水を通して捉えたまま答える。
「兵士を補充するための繁殖力。魔術師を追跡する感覚。奪った魔力を、肉体と魔核の成長へ変える構造。主を失い、軍としての命令が消えたあとも、『魔力を探し、喰らえ』という最初の衝動だけは残った」
魔物は世界各地へ散った。
森へ入ったものは群れを作り、海へ逃げたものは船を呑むほど巨大化し、地底へ潜ったものは鉱脈の魔力を餌に甲殻を育てた。
長い年月の中で繁殖し、土地に応じた生態を築いた。
それでも、魔力を求める衝動だけは変わらない。
腹が満ちたから休むのではない。より濃い魔力を感じれば、前の獲物を捨ててでも向かう。
獣に似た姿をしていても、獣の理では生きていない。
「龍族は、あれも守るのか?」
「まさか」
思わず眉を寄せた。
「魔物は龍脈へ食らいつき、循環するはずの魔力を自分の魔核へ溜め込む。龍族の守護対象には含まれない。領域へ害をなすなら討つ。それが六柱の共通認識だ」
「生きてはいる。でも、守る相手ではない」
「言い方に不満があるのか?」
「確認しただけだ」
カイトは大剣を抜ききった。
「こいつらが、いま何をするかもな」
岩上の魔狼が吠える。
三十体が一斉に地面を蹴った。
牙を剥き、爪を伸ばし、土と枯れ葉を弾き上げる。岩上の黒い一体だけは動かず、群れが僕らへ食らいつく瞬間を待っていた。
「龍の前で、吠えるな」
胸の奥にある龍核の気配を、ほんの僅かに解放する。
「蒼海龍圧」
森の空気が、一瞬で深海へ沈んだ。
飛びかかった三十体が空中で身を縮め、そのまま地面へ叩き落とされる。
骨を折ったのではない。
魔核へ直接、捕食する側と、される側の差を教えただけだ。
普通の生き物なら、それで逃げる。
魔狼たちは逃げなかった。
前脚を震わせ、腹を土へ擦りつけながら、それでも僕のほうへ這ってくる。
第三眼から血を流しても、その視線は僕の角へ貼りついたまま。
「……なるほど」
カイトが大剣を構え直した。
「怖がってないんじゃない。怖がっても、止まれないのか」
「だから魔物なのだよ」
岩上の黒い魔狼だけが、龍圧を押し破った。
岩を蹴り、僕らの頭上へ跳ぶ。
狙いは僕ではない。
より魔力の少ないカイトを先に排除し、僕へ群がるための軌道だ。
「随分と失礼な選び方だ」
カイトは傷ついた肩で、大剣を振り上げなかった。
半歩だけ前へ出る。
魔狼の牙が届く直前、刃先を地面すれすれまで滑らせ、下から顎を跳ね上げた。首が伸びた、その一瞬へ剣を返す。
一閃。
黒い巨体はカイトの横を通り過ぎ、二歩先で崩れた。
外から見える傷は、細い一筋だけ。
胸の奥では、魔核だけが縦へ正確に割れている。
「普段の言動には無駄しかないくせに、剣筋には無駄がないのだね」
「それは褒めてるのか貶してるのか、どっちだ!」
地を這っていた三十体が、王の死と同時に身を起こした。
統率が消え、飢えだけが残る。
互いを踏み、噛み、少しでも早く僕へ届こうとする。仲間の脚が折れようと、牙が同族の肉へ食い込もうと、もう止まらない。
「見境がないにも程がある」
空中へ三十の水滴を作った。
狙うのは頭でも、心臓でもない。
胸骨の奥にある魔核。
「蒼雨穿」
三十の蒼い線が、夜を横切った。
一滴につき、一つ。
魔核を貫かれた身体が、こちらへ爪を伸ばした形のまま崩れ落ちる。
三十の重い音。
森へ静寂が戻った。
「やはり、普通の獣のほうがよほど賢い」
「普通は、龍を見たら逃げるのが正解なんだな」
「僕を災害のように言うな」
「山を指一本で止めた奴が、何を言ってんだよ」
カイトは息を吐き、大剣に付いた血を拭った。
鞘へ戻そうとして、その場へ座り込みかけた膝を柄で支える。
やはり、肩の傷はまだ癒えていない。
それでもカイトは黒い魔狼の傍らへ屈み、裂けた胸元から掌ほどの黒い魔核を拾い上げた。
「それを拾って、どうするつもりだい?」
「街へ持っていく。魔核は素材として買い取ってもらえるし、討伐の証明にもなる」
「こんな残骸が金になるのか」
「魔核の大きさと質次第だ。三十一個合わせれば、宿代くらいにはなる」
「僕を襲った不敬者の残骸にしては、安いね」
「命の値段じゃない。危険を減らした仕事への報酬だ」
「なら、貸したまえ」
「何を?」
「回収だよ。君を働かせれば、朝までかかる」
水の指を残る三十体へ伸ばし、胸の奥から魔核だけを抜き取る。カイトの掌にあった一つも受け取り、血も肉片も残さず、一か所へ集めて洗浄した。
黒い結晶が、月明かりを鈍く返す。
僕はその向こうに横たわる魔狼の死骸を見た。
生きていた。
だが、武器を捨てることも、飢えを拒むこともできなかった。
「一体も残さなかったな」
カイトの声に、責める響きはない。
「残せば、次は街道の者を追う。僕がいなくなったからといって、飢えが消えるわけではない」
「そうだな。こいつらは降参できない」
カイトは最後の魔核を袋へ入れ、口を縛った。
「でも、人間へ同じ理屈を使うなよ」
「なぜだ。害をなすと分かっているなら、先に消すほうが確実だろう」
「人間は武器を捨てられる。間違ったあとでも、別の行動を選べる」
「選べるのに他者を害するなら、選べない魔物より悪質では?」
「罪が重いことと、その場で殺すしかないことは別だ」
カイトは、ひどく面倒な線を引いた。
何をしたか。
いま何をしようとしているか。
これから何を選べるか。
同じ相手を前に、それらを分けて考えるらしい。
「人間は、自分たちだけ随分と特別扱いするんだね」
「特別なんじゃない。選べる奴を、選べないものと同じに扱うなって話だ」
選べる者を、選べないものと同じに扱うな。
その言葉が、なぜか胸の奥へ引っかかった。
役割に従うことを生きると呼び、外れる者を欠陥と呼ぶ世界で、この男だけが平然とそんな線を引く。
僕にはまだ、その違いがよく分からない。
「覚えておくよ。納得はしていないけどね」
「そこまで言えれば上出来」
「君はいつから僕の教師になった!」
怒鳴ると、森の鳥がまた遠ざかった。
余計な騒音が減ったので、結果としては悪くない。
その夜は、小屋の周囲へ魔力を漏らさぬ水膜を張った。
魔力を餌とするものがいるのなら、気配そのものを水で包めばいい。最初からそうすればよかったのだが、三千年ぶりに聖域の外で迎える夜へ、そこまで気を回せというほうが無理な話だ。
断じて、浮かれていたわけではない。
カイトは壁へ背を預け、三十一個の魔核が入った袋を抱えたまま眠った。
僕は外から近づく水音を聞き分けながら、初めて氷ではない夜を眺めた。
葉の隙間に星がある。
聖域の天蓋越しに見たものより小さく、風が枝を揺らすたび、現れては消えた。
落ち着きがない。
だが、次にどこへ現れるかを待つ時間は、嫌いではなかった。
◇
翌朝。
僕らは再び山道を下った。
昼までに、魔鉱石へ群がる甲殻虫を十二匹。街道脇の魔力灯を襲っていた嘴蜥蜴を五匹、続けて討った。
「鉱喰甲殻虫が十二、岩鼠が五。昨日の三眼魔狼と合わせれば、そこそこの稼ぎだな」
カイトは魔核を袋へ収めながら、聞き慣れない名前で数を確認した。
旅の途中で各地の討伐依頼を見てきたらしく、魔物の呼び名には妙に詳しい。
「甲殻虫と岩鼠で十分だろう」
「ギルドで報告するとき、それじゃ正確に通じないことがあるんだよ」
「なら、君が覚えておけばいい」
「覚える気が一切ないな?」
「興味がないからね」
名前を知ろうが知らなかろうが、魔核の位置は分かる。
すべて魔核だけを正確に抜き、周囲の樹木と、討伐対象ではない野生動物には傷一つ残さなかった。
討伐のたび、カイトは地形と逃げ道を確認し、僕は水を通して数を読む。
僕が撃ち漏らしたわけではない。彼にも仕事を残してやったのだ。
夕暮れが近づく頃、森が途切れた。
地平線へ、石造りの外壁が現れる。
何本もの街道が集まり、荷馬車と旅人の列が門へ吸い込まれていく。鐘、車輪、数え切れない声。遠くからでも、人間が一か所へ集まりすぎていると分かる騒々しさだった。
街道の拠点、自由都市リバティ。
聖域を出て初めて訪れる、人の街だ。
遠くから届く声だけで、胸の内側の水が細かく揺れた。
魔物の群れを前にしたときとは違う。
脅威なら凍らせればいい。だが、あの壁の向こうにいるのは、誰も僕を待っていないのに、誰もが勝手に喋り、笑い、歩いている人間たちだ。
どう振る舞えばよいか分からない相手ほど、力では扱いにくいものはない。
もちろん、怖いわけではない。
少し面倒そうだと思っただけだ。
「行くぞ」
カイトが、僕より半歩だけ先へ出る。
すぐに歩調を落とし、僕が隣へ並ぶのを待った。
僕は何も言わず、その横へ立つ。
怖いわけではない。
ただ、あれほど多くの人間の中には、魔物と人間を見分けるより難しいものが待っている――そんな気がした。




