豆粒ほどの龍
冷気が、聖域を呑み込んだ。
宙で凍りついた水の帯が砕け、無数の氷晶へ姿を変える。白い霜は氷床を奔り、青く透き通っていた水晶柱を根元から覆っていった。
カイトの吐息さえ、吐き出された瞬間に微細な氷粒へと姿を変え、足元へサラサラと零れ落ちる。
「龍の姿になれないから、何だと言うんだ」
自分の声なのに、まるで他人の肉体から発せられたかのように冷たく、ひどく遠くから響いていた。
「僕は六柱の中でも最大の魔力を持つ。水龍脈を一度だって乱したことはない。この聖域も、三千年間、僕一人で守ってきた」
百を超える氷刃が、僕の背後に生まれる。
「龍化できなくても、僕は守護龍だ!!」
その切っ先はカイトへ向いているはずなのに、氷の表面へ映るのは目の前の少年ではなかった。
炎。光。岩。闇。そして、風。
僕を見下ろしていた、五つの巨大な影。
◇
数百年ほど前。
まだ、六柱龍共有精神域――六龍夢廊が、ときおり開いていた頃のことだ。
上下も遠近も定かでない精神世界の夢廊に、五柱の意識がおぼろげな姿を結んでいた。
紅炎龍ラナ・イグニス。
赤い炎に包まれた巨躯は絶えず揺らぎ、鋭い角と金色の眼だけが、ときおり鮮明に浮かび上がる。
光輝龍クレス・ルミナス。
大きく広げられた白金の翼から光があふれ、頭部も胴も、その眩しさの奥に霞んでいた。
金剛龍ガトス・ログナトス。
黄土色と茶色の巨大な影。輪郭は霞み、その表面で硬質な光だけが微かに瞬いていた。
闇淵龍ノクト・エクリプス。
黒紫の魔力が全身を覆い、輪郭は現れては消える。その奥では、細長い双眸だけが静かに明滅していた。
翠風龍フィウ・ゼフィエルだけは、最後まで姿を結ばなかった。
淡い翠の光を含んだ風が、四柱の龍影と僕の間を絶えず巡っている。
それが、この夢廊に現れたフィウの意識だった。
彼らは全員、僕より古い。
なかでもクレス、ガトス、ノクトの三柱は、ほかの守護龍でさえ過去を尋ねるのを諦めるほど、遥かな昔から存在しているらしい。
その五つの巨影に囲まれ、僕の意識だけが少年ほどの小さな輪郭を結んでいた。
巨大な爪の先へ乗せられたなら、瞬き一つで見失われてしまうほどに。
『相変わらず豆粒のままか、チビ』
ラナの笑い声が夢廊を揺らした。紅の輪郭がこちらへ傾く。顔など見えなくとも、足元の小石を覗き込むように僕を見下ろしていることだけは分かった。
『それほどの魔力を持ちながら、鱗の一枚すら生えぬとはな。いっそ水滴を名乗ってはどうだ?』
『守護龍が完成された龍相を持たないなど、世界の秩序に対する構造的な欠落です』
クレスは笑わなかった。白金の光を少しも揺らさず、欠陥を記録するような冷たい声で続ける。
『あなたは外へ出ず、水龍脈の維持だけに専念なさい。それが最も損失の少ない在り方でしょう』
『形なき水は、器とは呼ばん。六柱の座も、ずいぶん軽くなったものだ』
ガトスの重く鈍い声が、地殻の底から響き渡った。
『豆粒が龍を名乗るか。悪くない余興だ。その小ささなら、我が影へ紛れても誰も気づくまい』
闇の奥で、エクリプスを示す紫紺の光が、笑ったように細く揺れた。
僕は、一つ残らず言い返した。
炎しか取り柄のない短気者。自分の光で物の細部も見えない愚か者。頭の中まで岩でできた石頭。闇へ隠れなければ悪口も言えない臆病者。
言葉なら負けなかった。
夢廊では表情など見えない。それでも僕は顎を上げ、声が震えぬよう、一言返すたびに次の悪口を考えた。
反論をやめた瞬間、自分まで彼らの言葉を認めてしまいそうだったからだ。
ただ一柱、フィウだけは笑わなかった。
けれど、四柱へ「やめろ」と告げることもなかった。翠の風は嘲りの余韻を散らすように、何事もなかったかのような別の話題を運んできた。
『リル君』
柔らかな風の調べが、巨影たちの間へそっと滑り込む。
『今日、北の海で大きな鯨が跳ねていたよ。とても綺麗な声だった。水へ耳を澄ませれば、リル君にも届くんじゃないかい?』
『……憐れみのつもりか』
『違うよ。ボクはただ、リル君と話がしたかった。それだけだね』
『僕を憐れむな!』
僕は、差し伸べられた風まで苛立ち任せに切り裂いた。
翠の流れがわずかに乱れ、それ以上は近づかずに退いていく。
本当は、鯨の声を聞いてみたかった。
どんな音なのか教えてほしいと、素直に一言頼めばよかったのだ。
けれど、それを口にすれば、五柱に囲まれた豆粒が助けを求めたことになる。そんな考えが喉を塞ぎ、代わりに一番鋭い言葉をフィウへ投げつけた。
夢廊が閉じたあと、僕は聖域の水へ何度も耳を澄ませた。
鯨の声は、届かなかった。
次に会ったら、こちらから尋ねようと思った。
だが、次に夢廊が開いた夜も、僕は結局尋ねられなかった。
フィウは何も問わず、今度は人間の街や食べ物や文化、生涯をかけて一振りの剣を磨いた剣士の話をした。
僕は「くだらないね」と横を向いた。それでも、風が運んでくる言葉は最後まで聞いていた。
そんなやり取りが、夢廊の開くたびに幾度か続いた。
そして、いつからか夢廊は前触れもなく開かなくなった。
あれから数百年。鯨の声がどんなものだったのか、僕はいまだにフィウへ尋ねられずにいる。
♢
「君に、何が分かる」
現在へと引き戻された聖域で、空中に静止した氷刃が僕の感情と呼応するように小刻みに震えていた。
「巨大な龍たちに囲まれて、自分だけが豆粒のように小さいまま、見下ろされ続ける気持ちが君に分かるのか?」
「分からねえ」
あまりに早い返事だった。
怒りで凍りついていた思考に、ほんの小さなひびが入る。
「なら、黙りたまえ……!」
「分からないから、お前に聞く」
カイトは眉尻を困ったように下げながら、静かに頷いた。
かちゃり、と金属の留め具が外れる乾いた音が響く。
僕は反射的に指を向けた。呼応するように周囲の水が凍りつき、鋭い氷晶となって彼の喉元へ狙いを定める。
「力はもう一滴も残っていないのだろう。次は世界の記述を消す間もなく、確実に死ぬぞ」
「そうかもな」
あまりにも軽い返事だった。
身の丈ほどもある無骨な大剣が、背中から外される。
けれど、カイトはそれを構えなかった。切っ先を向けることさえせず、無造作に氷床の上へと横たえたのだ。
重い金属音が聖域に響き、凍りついた静寂の底へ沈んでいった。
カイトは空になった両手を持ち上げる。
武器はない。攻撃する意思もない。
ひび割れ、傷だらけになった掌を晒し、こちらへ向けられる刃など一つもないことを、僕へ見せつけるように。
そして、一歩を踏み出した。
「僕に近づくな!」
ザッ、と靴底が氷を踏み締める音が、やけに鮮明に鼓膜を叩く。
「聞こえないのか!?僕に近づくなと言っているだろう!」
二歩目。
彼は止まらない。
胸の奥で得体の知れない感情が渦を巻き、指先が微かに跳ねた。その迷いを無理やり断ち切るように、僕は氷刃を一筋、撃ち放つ。
カイトは、身じろぎ一つしなかった。
鋭い刃が肩を裂き、継ぎ接ぎだらけの黒い布を赤く染める。
「っ……!」
身体が大きく傾いた。
それでも片膝をつく寸前で踏みとどまり、カイトは再び顔を上げる。
傷口から流れた血が氷床へ落ちた。
赤い雫はこの青白い世界にはひどく不釣り合いで、まるで僕のしたことだけが、消えない印となって残されたようだった。
「っ……今度こそ死ぬぞ!」
「だろうな」
掠れた声だった。
強がっていることくらい、僕にでも分かる。頬からは血の気が引き、呼吸も浅い。膝は寒さと消耗に耐えきれず、みっともないほど震えている。
それなのに、彼はまた一歩、間合いを詰めてくる。
「なら、なぜ進む!」
「お前が今にも、自分ごとこの世界を凍らせちまいそうな顔をしてるからだ」
裂けた肩を庇うように押さえながら、それでもカイトの瞳は僕の視線を一瞬たりとも逃さない。その奥に灯る光が、僕には耐え難い同情のように思えて、胸の奥が悲鳴を上げた。
「僕は泣いていない!」
「泣いてるなんて言ってねえよ」
「なら、その目は何なんだ!」
「ここで放り出したら、俺が一生後悔するって顔だ」
その言葉が、たまらなく癪に障った。
何も知らないくせに。
僕がどれほどの永劫をこの冷たい静寂の中で耐え忍んできたのかも、龍になれない僕が、どれほど歪で不完全な成り損ないなのかも。
僕の痛みの輪郭すら知らないくせに、すべてを理解したような真っ直ぐな光を向けてくる。
「近づくなと言っているだろう!」
氷刃をさらに放つ。
二本目は頬を掠め、細い血の筋を残した。
三本目は脇腹の布だけを裂き、背後の水晶柱へ突き刺さる。
四本目は足を狙い――その寸前で軌道を変え、靴先のすぐそばで氷床を穿った。
ぱきん、と乾いた音が響く。
当てられないのではない。
僕ほどの魔力制御ができれば、急所を貫くことなど造作もないはずだ。
なのに、放つたびに指先が震える。
当たる直前、ほんの僅かに狙いを逸らしてしまう。
殺せると証明したい。
僕は弱くない。欠陥品などではない。人間一人を消し去ることくらい、造作もないのだと。
けれど、身体の奥に潜む何者かが、「本当に殺してしまう」と怯えている。
その臆病者が恐れているのは、彼の死だけではない。
カイトがいなくなったあと、再び誰からも返事のない静寂へ戻ること。
今日までと何一つ変わらない三千年が、明日からも続いてしまうこと。
そこまで気づきかけて、僕は奥歯を噛み締めた。
そんな惨めな本心を、よりにもよってこの男にだけは見抜かれたくなかった。
「僕に近づいて、何をするつもりだ」
「話す」
「そこからでも声は届く」
「……あと少し、近くまで行ってもいいか?」
思いもしなかった問いに、言葉が詰まる。
僕へ向けていた指が、行き場を失ったように宙で震えた。
これまでの三千年間、誰もが僕の居場所を勝手に規定してきた。
ここにいろ。
外へ出るな。
守護者としての役割を全うしろ。
けれど、近づいてよいかと尋ねられたことなど、一度もない。
「……断ったら?」
「ここで止まる」
迷いのない答えだった。
カイトは本当に、その場に縫い止められたように足を止めた。肩から鮮血を滴らせ、全身を白銀の冷気に晒されながら、ただ僕の言葉だけを待っている。
選べと言われることが、これほど恐ろしいとは知らなかった。
拒めば、彼は来ない。
差し出されかけた熱は届かず、この男もいずれ門の向こうへ消えてしまう。この静寂へ二度と足を踏み入れないかもしれない。
けれど、来いと口にするのは、もっと怖かった。
それは、僕自身の手で誰かを求めるということ。役割にも、誰にも命じられていない答えを、自分で選ぶということだから。
薄氷の上へ足を踏み出すような心細さに、胸が震える。
僕はローブの裾を強く握り締めた。
「……好きにしたまえ」
ようやく出た声は、吐息に紛れそうなほど小さかった。
「それは、いいって意味で受け取るぞ」
カイトが再び、ぎこちなく足を前へ運ぶ。
凍てついた濃密な魔力を掻き分けるように、一歩、また一歩と距離を縮めてくる。
一歩ごとに呼吸が荒くなる。頬から血の気は失われ、黒い服の肩には白い霜が積もっていた。傷口から零れる赤だけが、彼がまだ生きていることを示している。
やがて、手を伸ばせば届く場所で立ち止まった。
カイトの右手が、僕の視界へ入る。
僕が拒む時間を残すように、その手はひどくゆっくりと持ち上げられた。
振り払えばいい。
人間の腕など、僅かに魔力を動かせば簡単に吹き飛ばせる。
そう思っているのに、腕は動かなかった。
代わりに、身体の脇へ下ろした指先が小さく震える。
――ポン。
ひどく場違いなほど軽い感触が、頭へ落ちた。
「……何をしている」
「頭を撫でてる」
「見れば分かる! なぜだと聞いているんだ!」
「俺のいた世界だと、こういうときはこれが定番だった」
「僕を子供扱いするな!」
張り上げた声は、情けないほど甲高く上擦っていた。
けれど、カイトは笑わなかった。
傷だらけの掌が、僕の蒼色の髪を、ぎこちなく、けれど慈しむようにゆっくりと撫で下ろしていく。
三千年余り、僕へ触れた者はいない。
初めて知る人間の掌は、思っていたより大きく、乾いていて、硬かった。剣を握り続けたらしい皮膚は荒れ、幾つもの傷が重なっている。
聖域は僕の魔力で息をするのも拒むほど凍てついたはずなのに。
凍えきっているはずの手なのに、僕にはひどく熱く感じられた。
何の権能もないくせに。
龍の鱗も、強大な魔力も持たないくせに。
その掌は、三千年凍てついた場所へ、当たり前のように熱を届けてくる。
胸の奥で凝り固まっていた何かが、音もなく輪郭を失っていった。
氷が解けたのだと気づくより先に、そこから溢れたものが胸いっぱいに広がっていく。
その感覚へ名前をつける知識を、僕は持っていなかった。
「俺もさ。前の世界じゃ、勝手に期待されて、勝手に失望された」
髪を撫でる手はそのままに、カイトの声から冗談だけが消えた。
「できるって言われて、もっと頑張れって言われた。言われたとおりに走って、少し転んだら『その程度か』って顔をされた」
淡々とした声だった。
けれど、言葉の一つ一つが、凍った水面の下へ沈む小石のように、僕の胸の深いところへ落ちていく。
「こっちへ来たら、今度は勇者だ。魔王を倒せ。世界を救え。誰も、俺が何をしたいかなんて聞かなかった」
「それで、逃げ出したのか?」
「自由行動中ってことにしてくれ」
「つまり、逃げたのだね」
「細かいなあ」
軽薄な調子が、ほんの少しだけ戻る。
けれど、カイトはすぐに笑みを消し、真っ直ぐ僕を見た。
「だから俺は、守護者をやめろとも、ここを捨てろとも勝手に決めない」
頭から手が離れる。
触れていた場所から急速に熱が失われ、聖域の冷たさが戻ってきた。
惜しいとは思っていない。
ただ、そこにあった温度を身体が覚えてしまっただけだ。
「ただ、お前に聞く」
カイトは僕の名を、今度は壊れ物へ触れるように静かに呼んだ。
「リル。お前は、ここにいたいのか?」
「僕は水龍脈の守護者だ。ここを離れるわけには――」
考えるより先に、三千年繰り返してきた答えが口から滑り出す。
「役割の答えじゃなくて、お前の返事を聞かせてくれ」
返事。
その言葉が胸の奥へ落ち、小さな波紋を広げた。
三千年間、欲しいと願うことすら許されないまま、一度も僕へ向けられなかったもの。
僕は、固く閉ざされた氷の門へ目を向けた。
――外へ行きたいわけではない、見回りをしているだけだ。
――僕は守護者なのだから、ここにいるのが当然だ。
何度も門へ言い聞かせてきた言葉が、今度は喉の奥で凍りついた。
すべて、外へ行きたいと認めないための言い訳だったのではないか。
そう疑った途端、答えの代わりに息だけが震えた。
「……分からない」
絞り出した声は、情けないほど小さかった。
「じゃあ、これから探せばいい」
あまりにも簡単に言う。
行き先も、正しい答えも、約束された結末もない。その不確かさは恐ろしい。
けれどそれは、三千年間一文字も変わらなかった僕の今日に、初めて生まれた空白でもあった。
カイトが、僕の前へ手を差し出す。
凍えて赤くなり、傷だらけで、僕より遥かに脆い手だった。寒さと出血のせいで、指先が微かに震えている。
その手は僕を引きずり出そうとはしない。
掴むことを強いるのでもない。
ただ、僕が選ぶのを待っていた。
ローブを握り締めていた右手から、ゆっくりと力が抜ける。
僕の手が、意志より先に持ち上がった。
けれど、差し出された掌へ触れる寸前で止まる。
指先が震えていた。
冷気のせいではない。
この手を取れば、今日までの僕には戻れない。
閉ざされた門の向こうにある、何一つ知らない明日を、自分自身で選ぶことになる。
カイトは急かさなかった。
僕の震えに気づいているはずなのに、何も言わず、ただ待っている。
やがて彼は、凍えた頬に不器用な笑みを浮かべた。
「外へ行こうぜ、リル」
差し出した手を僅かに持ち上げる。
「相棒として、な」




