威厳のある名乗り
――僕の水が、当たらなかった。
その事実を受け入れるまで、しばらく時間がかかった。
白い粉塵の向こうで、少年は立っている。
少年の足元の氷床には大きな穴が幾つも空き、砕かれた氷が青い破片となってそこら中に散らばっていた。あれだけの威力をまともに受けたのだ。人間の柔らかな身体など、跡形も残らないはずだった。
それなのに、血の一滴どころか、黒い服に穴一つ開いていない。
「これで、話し合いの続き……してもらえるか?」
青ざめた顔へ貼りつけた笑みは、今にも剥がれ落ちそうだった。
生きていた。
胸の奥に張りつめていたものが、ほんの少し緩む。
もちろん、安心などしていない。侵入者から事情を聞けなくなるところだったので、手間が省けたと思っただけだ。
それよりも――僕の水が通じなかった。
そちらのほうが、遥かに重大だった。
「話し合いではない。尋問だよ、盗人」
「盗人はもう呼ぶのやめてくれよ……。俺はカイト。前世は別の世界の高校生で、今は冒険者。役割は――たぶん、元勇者」
知らない言葉が三つほど混じっていたが、それ以上に聞き捨てならない部分がある。
「元と、たぶんが両立する役割を初めて聞いたぞ」
「俺も名乗るたびにそう思う」
「役割が発現した時、魂へ刻まれ、生涯変わる事はない。元になどなるはずがないだろう」
「普通はな」
カイトはそれだけ言って、口元を上げた。
ひどく軽い言い方だった。けれど、その一言だけは氷床へ落ちず、胸の奥へ小さな棘となって残る。
普通なら変わらない。
ならば、この男は何をした?
「次は僕の番だ」
疑問を呑み込み、僕は外套を払った。胸へ片手を当て、顎を上げる。
「六柱の原初龍脈の一つ、水の龍脈を預かり、この聖域と北の領域を任された守護龍。蒼水龍リル・アクエルだ」
「リルか。俺よりずっと立派な自己紹介だな」
リル。
たった二文字が、彼の声に乗って返ってくる。
自分では何度も口にしてきた名だ。それなのに、僕ではない誰かに呼ばれただけで、長く誰の足跡もなかった氷の聖域へ、初めて印をつけられたような妙な感覚がした。
「気安く呼ばないでもらおうか」
「じゃあ、蒼水龍リル・アクエル様」
「長い。リルでいい」
「どっちなんだよ」
「君の理解力に合わせてやったのだ。感謝したまえ」
カイトは何か言いたそうに口を開き、結局、諦めたように閉じた。
どうやら、礼を言うだけの知性は残っていないらしい。
「それでは聞こう、僕の千晶水弾に、何をした?」
「千? どう見ても千どころじゃなかったぞ」
「技名は響きと美しさを優先している。現在の最大同時制御数は、八千四百十六だ」
「ちゃんと数えてるところが怖いんだよ!」
「質問に答えたまえ。避けても、防いでもいなかった。僕の水弾は、確かに君を貫いたはずだ」
床に散った水を浮かべ、カイトの胸元へ近づける。
水は逃げもせず、弾かれもせず、黒い服を濡らした。
常に身体をすり抜けるわけではないらしい。
「いまは普通に触れるのだね」
「濡らしてから確認するなよ。寒いんだから!」
「この程度で凍えるなら、初めから聖域へ盗みに来なければよかったのだよ」
「正論で追い打ちするの、好きだよな……」
カイトは濡れた胸元をつまみ、不満そうに絞った。
その指が、かすかに震えている。
寒さのせいだけではない。呼吸は先ほどより浅く、額には薄く汗が浮かんでいた。水弾を受ける前にはなかった変化だ。
「俺の固有能力、規則破断」
カイトが胸元へ手を当てる。
指の隙間に、黒いものが滲んだ。
影ではない。闇の魔力ですらない。
紙から一行だけ乱暴に切り抜いたような、何も存在しない空白。その小さな裂け目を見た瞬間、僕の龍核が警鐘を鳴らした。
空っぽなのではない。
そこだけ、世界が何も記していない。
「さっき使ったのは、接触否定。平たく言えば、ルール無視だな。水弾が俺に触れた事実だけを、一瞬なかったことにした」
「防いだのではなく、『当たった事実』そのものを消した……?」
「そういうこと」
魔法は、魔力を用いて世界へ働きかけるものだ。
水よ集まれ。凍れ。敵を貫け。
どれほど複雑な術式であろうと、世界へ新たな答えを求めることに変わりはない。
だが、この男は答えを書き足していない。
僕の水が導いた正しい結果を、書かれる直前で一行だけ破り捨てたのだ。
三千年、命じれば必ず従った水。
三千年、同じ答えしか返さなかった世界。
そのどちらもが今、目の前の男によって初めて形を崩された。
「……面白い」
言葉が、勝手に零れた。
胸の底から、冷たい泡が次々と浮かび上がってくる。悔しい。腹立たしい。仕組みを知りたい。もう一度見たい。
それらが混ざり合って、じっとしていられない。
知らないということが、これほど心を騒がせるものだとは思わなかった。
「もう一度試そう」
「その結論になると思ったよ!」
「次は速度と角度を変える。八千四百十六発を同時に消せたのなら、一万でも大差はないだろう?」
「ある! あと千五百回分くらい大差がある!」
カイトが後ずさろうとして、右膝をついた。
笑みが消える。
片手を床につき、もう片方で腹を押さえた。喉の奥で息が詰まり、指先が自分のものではないように痙攣している。
それでも僕と目が合うと、彼はすぐに口元を持ち上げた。
「いまので残り魔力はスライム一匹分だ!次は無理無理!」
「魔力量を魔物で数えるな。それに、君の魔力はほとんど空ではないか」
「見ただけで分かるのかよ」
「僕を誰だと思っている」
しゃがみ込み、彼の顔を覗き込む。
近くで見れば、唇からも色が失われていた。先ほどまで騒がしかった声も、少しずつ掠れている。
「代償があるのだな?」
「世界の決まりを破って、何も払わず帰れるほど世の中は甘くないらしい。魔力が空になって、全身が痛む。特に腹の中が、雑巾みたいに絞られる」
「最後だけ妙に具体的だ」
「現在進行形だからな」
「それだけか?」
ほんの一瞬。
返事より先に、カイトの指が外套の内側へ触れた。
そこに何があるのか確かめるように胸元を押さえ、それから、いつもの軽い笑みを作る。
「それだけだ」
嘘だ。
水面のわずかな揺れさえ見逃さない僕に、その一拍を隠せると思っているらしい。
追及してやってもよかった。けれど、今はまだ、この男が隠しているものまで暴く必要はない。
別に、心配したわけではない。
「殺す気で撃ったのに、妙なところで手加減するんだな」
カイトが柱の向こうへ目を向けた。
「手加減?」
「周りの柱は、一本も壊してない。俺の逃げ道は全部潰してたのに、守るべき場所は射線から外してる」
「当然だろう。守護者が、自分の聖域を壊してどうするのだ」
「怒ってても、守るものは間違えないんだな」
カイトは感心したように笑った。
その言葉が、胸の奥へ小さな熱を灯す。
できないことを数える声なら、いくらでも知っている。
けれど僕が壊さなかったものを、誰かに見つけられたのは初めてだった。
「この程度、守護龍なら当然だ」
浮かびかけたものを見透かされないように、ことさら尊大に顎を上げる。
「やっぱり、本当に龍なんだな」
「先ほどから、僕はそう名乗っているだろう」
「いや、それは分かったんだけどさ」
カイトの視線が、僕の角から、肩、細い腕、半ズボンの下の脚へと下りていく。
嫌な予感がした。
先ほどまで胸にあった熱が、急速に冷えていく。
「でも、なんでガキの姿のままなんだ?」
音が、消えた。
落下していた水晶の欠片が、氷床へ触れる寸前で止まる。
「龍なら、もっとでかい姿になったほうが戦いやすいんじゃ――」
違う。
僕は、この姿でいるのではない。
胸の内側へ、細い氷柱を突き込まれた気がした。
痛い、と思うより先に、知られた、という羞恥が全身を駆け上がる。
胸の奥で生まれかけた興味も。
この男へ抱きかけた、ほんの僅かな好意も。
すべて凍りついた。
龍にならないのではない。
――なれないのだ。
三千年、一度だって。
「……黙れ」
「リル?」
「その名を、気安く呼ぶな!」
自分の声が、ひどく遠くから聞こえた。
ぴしり、と。
僕の周囲を漂っていた水が、一滴残らず宙で凍りついた。
しなやかに揺れていた水の帯は、無数の鋭い氷晶へと姿を変え、青白い光を抱いたまま静止する。
遅れて、僕の身体から凄まじい冷気が溢れ出した。
白い霜が氷床を奔り、水晶柱を一息に這い上がっていく。空気さえ凍りついたように重くなり、カイトの吐息が細かな氷粒となって足元へこぼれた。
ぱき、ぱき、と柱が軋む。
聖域のすべてが、僕の怒りに触れることを恐れるように、音を失っていく。
千の水弾を前にしても消えなかったカイトの笑みが、初めて消えた。
凍りついていく聖域とは裏腹に、僕の中で三千年閉じ込められていたものが、いま、音を立てて割れた。




