三千年目の不法侵入者(タイトルロゴ挿絵あり)
極北の霊峰、その頂に蒼水龍の聖域はあった。
吹雪に閉ざされた巨大な氷の半球。その内側には、淡い蒼の光と静寂が満ちている。
鏡のような氷床には魔鉱水晶の柱が並び、中央の水鏡から大陸中へ水龍脈が延びていた。
世界へ水を届けながら、外へ通じる門は開かない。
ここは聖域という名の牢獄だった。
その静寂の中で、一人の少年が目を開く。
三千年ものあいだ、ここに響く足音は彼ひとりのものだった。
その日、二人目の足音が迷い込むまでは。
♢
――ピチャン。
氷の天井から雫が落ち、鏡のような水面に小さな輪を作った。
僕はそれを最後まで見届けてから、口を開いた。
「……今ので、今日の始まりとしよう」
厳かに宣言した。
聞いている者は誰もいないが、宣言というのは形が大切なのだ。
そもそも、この聖域に朝はない。
空も、太陽も、影の傾きもない。魔鉱水晶の柱が放つ蒼光は、三千年、一度も強さを変えたことがなかった。
だから僕は、自分で一日を始めることにしている。
天井から雫が落ちた瞬間を、その日の起点とする。
実に合理的な取り決めだ。世界が朝を用意しないなら、こちらで用意すればいい。
ただし、この方式には一つだけ問題がある。
どれほど厳かに宣言しても、それを受け取る者がいない。
――まあ、些細なことだ。
『……始まりとしよう』
水晶に向かって呟いた声が少し遅れて戻ってきた。
「まったく。たまには違う言葉を返してみたらどうだ?」
『……どうだ?』
もちろん、本気で水晶と話しているわけではない。何百年も誰かと話していなければ、声の出し方を忘れてもおかしくない。だから確かめているだけだ。
僕は立ち上がり、白と青の衣についた氷を払った。
足元の水面でも、青色の髪をした少年が同じように立ち上がる。青い瞳に白い肌。額には、透き通った小さな角が二本。
「何だ、その顔は。先に言っておくけれど、僕は退屈などしていない」
そこに映る少年は、三千年を生きた守護龍としては少々幼く見える。
「姿が小さくても、僕の威厳は変わらない」
水面の少年も同時に口を動かした。
当然、異論は返らない。
何も起きない。それは守護者にとって正しい結果のはずだった。昨日と同じ静けさの中で、明日も同じ事を繰り返す。
――返ってくる言葉が、いつか僕と違うものになればいい。
ほんの一度、そんな不合理な考えが浮かんだ。
僕は水面を靴底で乱し、最初から考えなかったことにした。
右手を上げると、一筋の水が床から浮かび上がった。
水は僕の周りをくるりと巡り、水晶柱の間を走る。床、壁、天井。聖域の隅々を確かめ、やがて手元へ戻ってきた。
柱にひびはない。水に濁りもない。今日も、何ひとつ変わっていない。
僕の魂には、《水龍脈の守護者》という役割が刻まれている。この聖域、そして地下を伝って大陸へ広がる水龍脈を守る。それが僕の役目だ。
だから何も起きないのは、良いことのはずだった。
昨日と同じ今日が来て、今日と同じ明日が来る。それを三千年繰り返してきた。
寂しいと思ったことはない。
寂しいというものを知らないのだから、思いようがないだろう?
見回りの終わりに、僕は聖域の端に立つ氷の門へ向かった。
門の向こうを、僕は知らない。
外には、どこまでも続くのに天井ではない世界が広がっているらしい。
別に、見たいわけではない。ただ、僕の知らないものがあることが、少し気に入らないだけだ。
指先を門へ伸ばし、触れる寸前で止める。
「……見回りで来ただけだ。外へ行きたいわけではないからね」
僕の言い訳は、閉ざされた氷の門の前で行き場をなくし、静かに消えた。
身を翻し、僕が背を向けた、そのときだった。
聖域を囲む見えない壁が、低く震えた。
水面に細かな波が走り、水晶柱がかすかに鳴く。
「……何だ?」
外から何かが入ろうとしている。
だが、結界は壊れなかった。まるで最初から壁などなかったように、何かが内側へ滑り込んだのだ。
そんなことはあり得ない。この結界は僕の役割と結びついている。抜け道など、あるはずがない。
――コトッ。
氷を踏む音がした。
――コトッ、コトッ。
一人分の足音が、こちらへ近づいてくる。
三千年、一度も聞いたことのない足音だった。
その音が、胸のいちばん深いところへ、一滴の雫のように落ちる。
心臓が大きく跳ねた。
もう一度。近づいてくる誰かへ、僕の身体が勝手に返事をするように。
三千年ものあいだ凪いでいた胸の内に、名前も知らない感情が波紋となって広がっていった。
警戒しているだけだ。
待ち望んでいたわけでは、断じてない。
僕が指を振り下ろすと、聖域中の水が床を離れ、柱の陰へ身を潜めた。
「さっむ……! 何が『魔鉱水晶を持ち帰れば一生遊んで暮らせる』だ。金持ちになる前に凍って死ぬだろ、これ……!」
聞いたことのない声がした。
僕が何も言っていないのに、僕とは違う言葉が返ってきた。
やがて柱の陰から、黒髪の少年が姿を見せる。擦り切れた黒い服に、泥だらけの頬。背中には、自分の背丈ほどもある大剣。
どう見ても怪しい。
もっとも、外の人間を見るのは初めてだ。あれが普通なら、外の服装には大いに問題がある。
少年も僕に気づき、足を止めた。
その右足が滑る。
「うおっ――」
――スパァン!
少年は顔から氷床へ落ち、背中の大剣が遅れてガァンと床を叩いた。
三千年続いた静けさは、ずいぶん情けない音で終わった。
「いってぇ……。鼻、残ってるか?」
少年は鼻を押さえたまま、おそるおそる顔を上げた。
痛みで涙の滲んだ黒い瞳が、まっすぐに僕を映す。
「あ。やっと人に会えた」
僕を見つけた途端、痛みに歪んでいた顔が、氷が解けるように明るくなった。
思わず自分の胸元を見下ろす。
どこをどう見れば、誇り高き龍族である僕が、この泥だらけの生き物と同じに見えるのだろう。
「違ったか?」
本気で分かっていないらしい。
少年は不思議そうに首を傾げた。
「少なくとも、君と同じにされるのは不愉快だ」
「初対面で地味に傷つけてくるな」
――返ってきた。
僕の言葉をそっくり真似て返す、冷たい反響ではない。
少し呆れて、少し傷ついて、僕には思いつかない言葉を返してくる。
僕ではない、誰かの声だ。
たったそれだけのことなのに、胸の奥へ雫がひとつ落ちた。
三千年ものあいだ凪いでいた心に、名前も知らない波紋が静かに広がっていく。
返事というものは、ずいぶん勝手だ。
何が返ってくるのか分からない。
だから、その次まで聞きたくなる。
三千年、これを待っていた――わけではない、断じて違う。
ただ、この無礼な侵入者が次に何を口にするのか、もう一言くらいなら聞いてやってもいいと思っただけだ。
少年の視線が、僕の瞳から髪へ、髪から額へとゆっくり上がっていく。
そして、そこに生えた二本の角へ触れたところで、縫い留められたように止まった。
「すげえ。綺麗な角だな。氷でできてるのか?」
「き、綺麗なのは当然だろう」
胸の奥へ落ちたその言葉が、ひどくくすぐったい。
確かめるまでもないはずなのに、指先は勝手に額の角へ伸びていた。
触れる寸前で我に返り、慌てて手を引く。たった一言褒められただけで角を撫でるなど、まるで浮かれた子供ではないか。
僕は行き場を失った手を胸元へ戻し、そのまま腕を組んだ。ことさら尊大に顎を上げ、緩みかけた口元を隠すように唇を引き結ぶ。
「それより、君は誰の許しを得て、ここへ入った?」
「誰の許しも。三日前から道に迷ってたら着いた」
「三日も間違いに気づかなかったのか?」
「氷しかねえんだぞ。どっちを向いても青白く光って、景色の見分けなんかつくかよ」
「自分の失敗を氷のせいにするのは感心しないね」
「正論が冷気より痛い!」
よく喋る。騒がしい。動きもいちいち大きい。
今すぐ追い出してもいい。けれど、彼が黙ると、聖域が先ほどまでより静かに感じられた。
「それで、角の綺麗な坊ちゃん。出口はどっちなんだ?」
角を褒めたところまでは悪くなかった。だが、そのあとに続いた呼び方が聞き捨てならない。
「……坊ちゃん?」
胸の奥に残っていたくすぐったさが、一瞬で凍りつく。
「見たところ、十二……いや、十三くらいか?」
一つ増やせば許されるとでも思ったのだろうか。
三千年を生きた僕を、十数年そこそこの子供と同じに見るとは。どうやらこの男には、言葉より分かりやすい忠告が必要らしい。
僕が何かするより早く、感情に引かれた冷気が床を走った。
ぱきり、と乾いた音が響く。
薄い氷が少年の靴先を包み、そのまま足首へ這い上がろうとする。
少年は凍りついた靴と僕の顔を見比べ、引きつった笑みを浮かべた。
「わ、分かった!年齢の話はやめよう、命が惜しい……」
「最初からそうしたまえ」
僕は満足げに顎を上げた。氷を解いてやるのは、きちんと反省したか見極めてからでいい。
両手を上げた少年の指は、凍えて赤くなっていた。口元は笑っているのに、その指先は震えている。
「君は、僕が怖いのか?」
なぜそんなことを聞いたのか、自分でも分からなかった。
少年はあっさり頷いた。
「怖い。でも、話は通じてる。いきなり斬りかかってくる奴より、ずっといい」
恐れているくせに、目をそらさない。背中の大剣にも触れない。
妙な男だ。
「ここ、お前一人なのか?」
「僕一人で足りる」
「足りるかどうかは聞いてないけどな」
「同じことだ」
思ったより早く答えてしまった。
かわいそうなものを見るような目を向けられた気がして、僕は宙に水の切っ先を作る。
「勝手な想像をするな。僕は望んで一人でいる」
「……そっか」
慰めも、否定もしない。ただの短い返事が、なぜか耳に残った。
そのとき、少年の腰で小袋がじゃらりと鳴る。
「それは何だ?」
「金。外じゃ飯を食うのにも、寝る場所を借りるのにも要る」
「眠る場所まで借りるのか?」
少年は僕と氷の門を見比べ、目を丸くした。
「お前、まさか外に出たことがないのか?」
「出ないだけだ。僕にはここがある。外なんて知る必要はない」
「ふうん」
その視線から逃げるように、僕は水晶柱の根元を指した。
「それより、『一生遊んで暮らせる』とは何の話だ?」
「ああ。その魔鉱水晶、一欠片でも金貨五十枚相当になるって聞いて――」
「つまり、盗みに来たのだね?」
「命懸けの宝探しと言ってほしい」
「盗みに来たの、だね?」
「……はい」
観念したように、少年の肩が落ちる。
その返事を聞いた途端、胸の内に広がっていた波紋が、すうっと消えた。
ほんの少しだけ。
この男は宝などではなく、僕を訪ねてきたのかもしれない――そんな馬鹿げたことを考えていた。
三千年ものあいだ閉ざされていた聖域へ、初めて自分からやって来た誰か。
僕の存在など知るはずもない。それでも、もしかしたらと期待していたらしい。
結局、この男が求めていたのは僕ではない。
足元に転がる、ただの青い石ころだ。
胸の奥に残っていたわずかな熱が、薄氷を張るように冷えていった。
「事情は分かった」
自分でも驚くほど、平らな声が出た。
「じゃあ、一欠片くらい――」
「誰が持っていっていいと言った?」
指を鳴らす。
乾いた音が聖域へ響いた瞬間、柱の陰や床の窪みに潜ませていた水が、一斉に宙へ躍り上がった。
細い水流は空中で幾つにも分かれ、拳ほどの水球へ形を変えていく。
一つ。十。百――数えることさえ馬鹿らしい。
青白い光を呑み込んだ無数の水球が、逃げ道を塞ぐように少年を取り囲んだ。
少年の黒い瞳が、右へ、左へと忙しなく動く。さすがに状況を理解したらしく、頬からゆっくりと血の気が引いていった。
「……いやあ、綺麗だな。観賞用だよな、それ」
軽口を叩く声の端が、かすかに震えている。
「安心したまえ。氷漬けなら、しばらく形は残る」
「何ひとつ安心できねえ!」
少年の叫びが、水晶柱の間で何度も反響した。
それでも、背中の大剣には手を伸ばさない。
剣を抜けば、敵として迷わず排除できたのに。
彼は空になった両手を僕へ見せ、まだ言葉の届く場所に踏みとどまっていた。
「待て。まずは文明人らしく話し合おう」
「盗人が言う台詞ではない」
僕が手を上げると、水球の一つが群れから離れた。
ゆっくりと少年の眉間へ狙いを定める。
その動きを目で追いながらも、彼は剣を抜かなかった。
なぜだか、それがひどく気に入らない。
「遺言は、それでいいかい?」
わずかな沈黙が落ちる。
少年が何かを言いかけた、その瞬間。
僕は指を振り下ろした。
「千晶水弾」
無数の水弾が空気を引き裂き、すべての逃げ道を奪って少年へ殺到する。
耳を塞ぐような轟音が聖域を揺らした。
氷の床が抉れ、巻き上がった白い粉塵が少年の姿を呑み込んでいく。
やがて轟きが途絶え、痛いほどの静寂が戻ってきた。
僕は振り下ろしたままの手を見つめる。
――やりすぎたかもしれない。
胸の奥へ、今度は冷たい雫が落ちた。
せっかく初めて、僕とは違う言葉を返してくれた相手だったのに。
遅れてそう思った、その直後。
「……危ねえ。今ので残りは、スライム一匹分ってところか」
白い煙の中から、少年の声がした。
「な……」
煙が晴れる。
少年の足元には大きな窪みが出来ていた。
けれど少年は、傷一つ負わず同じ場所に立っている。
避けてはいない。防いでもいない。僕の水弾は、間違いなく彼を貫いた。
なのに、血の一滴どころか、服に穴さえ開いていなかった。
少年は青ざめた顔に、無理やり笑みを浮かべる。
「これで、話し合いの続き……してもらえるか?」
三千年を過ぎた今日。
世界の理に従うはずの僕の水が、初めて僕を裏切った。
以前から書いていた小説を大幅リメイクし、書き直しました。
画像は生成Aiを使用しております。
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