番外編② 生ぬるい蜜に浸る
上腕に熱さを感じて、目が覚めた。
顔を上げると、カーボンヒーターのように熱い夕日にみつめられている。
視界を横にズラすと、人影のない教室。学校机だけが将棋駒みたいに整列している。その光景をぼんやりとみつめていると、休み時間の騒々しさが鼓膜に蘇った。
頭が冴えてきて、掛け時計を見遣る。
すでに19時を過ぎていて、自然とため息が漏れ出た。
「私、なんで放課後に残ってるんだっけ?」
あれ、私の声にも違和感がある。もっと低くなかったっけ……?
あ、えっと。
記憶が混濁してるのかな。寝起きだから?
どうしよう。胸がザワザワして、お腹が痛くなってきちゃった。
ちょっと整理しようかな。
私の名前は『鳥海 恵巳』……だよね。毎朝制服の着こなしに悩み続けてる、ピカピカの女子高生。
それだけ。アクション映画の主人公みたいに、精神が壊れるほどの境遇にいないし、劇的な出会いや別れを経験したこともない。
あくびしながら学校へ通って、友達と遊び、小テストの点数に一喜一憂しているだけ。
勉強もスポーツも苦手。だけど、家族との関係は良好だ。
お母さんは毎日ご飯を作ってくれて、相談をなんでも聞いてくれる。
お父さんは私に甘くて、飲み会の帰りにコンビニスイーツを買ってきてくれたり。
弟は反抗期で、生意気だ。顔を合わせればケンカに発展するし、一緒にゲームもしてくれない。でも、かわいいの。文句をブツクサ呟きながら誕生日プレゼント渡してくるところなんて、特に。
本当になぁ。
あくびが癖になっちゃうぐらい、穏やかな日々。
……そのはず。
私の記憶、間違ってない……よね?
昨日の夕飯だって思い出せる。カレーライスなのに、福神漬けがついてなかった。
でも、おかしい。
どうしても、これじゃないって違和感が線香みたいにまとわりついてくる。
私、どうしちゃったんだろう……。
変な病気にかかっちゃった?
悩んでいると、足音が聞こえた。
駆け足で、教室に近づいてきている。
誰だろうか。
身構える暇もなく、少女が明るい顔をのぞかせながら、「あ!」と私を指さした。
「恵巳さん、こんなところにいたんですか」
「ナギサちゃん?」
息を整えながら、近寄ってくる同級生――兎本ナギサ。
腰まで伸びた黒髪に、
一挙手一投足が、大河ドラマみたいに雅だ。視線が自然と吸い寄せられ、私の口が半開きになっていく。
あまりの美しさに、足跡から花畑が生えても不思議じゃない。
信じられないよね……。
彼女は学校一のマドンナでありながら、私の恋人なんだ。
「心配したんですよ」
「あれ、何か約束してたっけ?」
「忘れちゃったんですか?」
肩を落とす、お嬢様。その寂しそうな姿を見るだけで胸が締め付けられ、必死に頭を回す。
「あ、そ、そうだったね。一緒に帰ろうって言ってたから」
「あたし、ずっと待ってたんですよ……?」
私、なんで忘れてたんだろう。
普段なら楽しみ過ぎて、落ち着かないはずなのに。
「今日の恵巳さん、ちょっとおかしいですよ? 熱でもあるんじゃないですか?」
向けられる、不安げな瞳。
とりあえず。
ナギサちゃんを安心させるために、いつも通りを取り繕わないと。
「ごめん。いつの間にか寝ちゃってて」
「本当にそれだけ、ですか?」
「ふわぁ~。まだちょっと眠くて……」
「本当ですね。口元によだれの跡、ついてますよ」
「え、うそっ」
慌ててハンカチで拭う。でも、自分の目で確認できない。本当に消えたのか不安だ。
「ちょっとっ、見ないで」
「ふふふ。あたしは気にしませんよ」
「私は恥ずかしいのっ!」
アップルパイが焼けそうなぐらい、ほっぺが熱くなっちゃったじゃん!
「恵巳さんは、本当に照れ屋ですね。かわいらしいです」
「やめて。心臓がバカになっちゃいそう」
もう無理。まじムリっ!
血管から黄色い悲鳴まで聞こえてきちゃったよ!
「せっかくなので、聞いてもいいですか?」
「な、何を?」
「恵巳さんの鼓動を、ですよ」
「え!?」
つまり、私の胸に耳を当てたいってこと!? 直に!?
ど、どうしよう。心の準備が出来てない……。
「え、えっと……。ちょっと汗臭いかもだから」
「大丈夫ですよ。あたしのお鼻が気にしないって言ってますから」
なに、そのかわいい言い方。ずるいんだけどっ。
「ほ、ほら。いつ先生が見に来るかわからないから」
「大丈夫ですよ。すぐに終わりますから」
「で、でも……」
「わかりました」
助かったのかな、と安堵する暇もなく、突然聞こえた。
ボタンを外す音。
「な、なにを……?」
返事の代わりと言わんばかりに、制服の上着とブラウスが床に落ちていく。
視線を上に向けると、薔薇色のブラジャーが、夏の雲みたいに輝く上体を彩っていた。
「ふふふ。ほら、恵巳さんも脱いでください」
「……え?」
「早くしないと、あたしの裸、誰かに見られちゃいますよ?」
無意識に、私の足が後ずさる。
おかしい。
ナギサちゃんって、こんなに大胆だったっけ……?
レモン水も一瞬で沸騰するようなおねだりをすることがあっても、同意を求める理性は持っていたような……。
他にも違和感がある。
「ねえ、ナギサちゃん」
新品のキャンバスみたいに、真っ白な肢体。
きっと、彼女は太陽に妬まれている。ずっと目を背けられているから、シミのひとつもついてないんだ。
「ナギサちゃんの肌って、もっと緑色じゃなかったっけ?」
「えっと、まだ眠いんですか? 人間の体が緑になるわけないじゃないですか」
「あれ。そうだっけ……?」
「一体、どんな夢を見たんですか?」
頭を捻っていると突然、視界が歪んだ。
遅れて、まるで頭蓋骨にもうひとつの脳をねじ込まれるような激痛が突き抜けていく。
そして、記憶が流れてきた。
青薔薇病にかかった、ナギサちゃんの姿。
そっか。
私の精神は今、明晰夢を見ているんだ。
はは。
理解しても、頬をつねっても、目が覚めないや。
なんで私の脳は、こんなくだらない夢を見ているんだろう。
……まあ、いいや。考えても仕方ない。
せっかくだから、満喫するしかないよね。
歯が浮くような、この青春を。
「あれ? 恵巳さん、どうしたんですか?」
「ごめんごめん。ちょっとボーッとしちゃって」
「お疲れなんですか?」
「うん。人生に疲れちゃった」
「ふふふ。何を言ってるんですか。あたしたち、まだ高校生ですよ?」
炭酸が弾けたように、涼やかな笑い声が響いた。
「じゃあ、脱ぐね」
夢なら、恥ずかしくない。
夕日がみつめる教室。
指先の震えを抑えながらボタンを外すと、私の肌がさらけだされた。
ナギサちゃんは、無言。
でも、わかる。
蕩けた瞳が、鼻息の荒さが、半開きの唇が、伝えてくれた。
ああ。
今、私たち、おかしくなってる。
寄りかかってくる、ナギサちゃんの頭。
そっと抱きしめて、目を閉じる。
私の耳にも、自分の鼓動がきこえた。
「どう?」
「とってもいいです」
「うん」
「うれしいです」
「ありがとう」
「ふふふ。あたしのセリフですよ」
ふと、頭に冷たさを感じた。
視線を上に向けると、教室の天井が濡れた障子紙みたいに破けていた。
奥に見える風景は、電源の切れたテレビみたいに真っ暗だ。
そっか。
もう、終わりみたい。
「ねえ、ナギサちゃん」
「なんですか?」
「私たちって、いつまで一緒にいられるんだろうね」
幻を相手に、何を訊いているんだろう、私。
「もちろん、ずっとですよ。老いて死ぬまで、手を繋ぎましょう」
ほら。
夢だもん。
「そうだね」
夢なんだよ。
夢なんだから。
「ねえ、いい……よね?」
私の指先が、ナギサちゃんの首筋に触れた。
細い体が、過敏に跳ねる。だけど、終わりじゃない。
左腕が背骨を伝って、下半身へと落ちていく。
「ちょっとだけ」
「……ここで、ですか?」
「いいでしょ?」
「ふふふ。本当に、変態さんですね」
「ナギサちゃんが魅力的過ぎるのが、悪い」
「……あっ」
本当はね。
現実で、何回も想像してたの。
でも、いいや。
我慢した分、ひとしおだ。
頭のてっぺんからつま先まで、パチパチと痺れてる。
いつも、こうだ。
必死に追いかけることを、諦めちゃってる。
でも、仕方ないよね。
手を伸ばせば届く幸せって、コタツみたいに暖かいんだから。




