番外編③ 雛鳥は種をまく 前編
87歳。
社会の教科書に載っていた、日本人女性の平均寿命です。
はじめて知った時、あたしの脳裏に、太平洋の真ん中を飛ぶカモメを思い浮かびました。
上は青空で、下は海原。どちらも果てしない。
休むための止まり木が、一切見当たりません。
生まれてすぐに飛び立って、もう羽を動かすだけでも痛いのに……。
——何をやってるの。
後ろから、声が聞こえました。
——もっと早く飛びなさい。
まるで台風の雲みたいに、暗い声。
あたしを産んだ母親だ。
——他の子たちは、立派に羽を広げているのよ。
ごめんなさい。
——なんでこんな簡単なこともできないの? 本当、父親の遺伝子が悪さしているのかしらねぇ。
ごめんなさい。
もっと練習しますから。
——なら、もっとちゃんと飛びなさい。ほら、周囲からも見られてるじゃない。
ねえ、ママ。
なんで目を合わせてくれないの?
なんで外の人ばかりに笑顔を振り撒くの?
——そんなことは考えなくていいのっ! そんなんだから、あなたはダメなのよ!!
ねえ、ママ。
あたしのこと、好きですか?
——いい子のあなたは、大好きよ?
そうですよね。
あたしのママって、こうだ。
——ほら。わかったなら、頑張りなさい。全部終わったら、ご褒美をあげるから。
……あれ?
『頑張りなさい』……?
そっか。
あたしって、まだ頑張れてなかったんだ……。
ゴホービって、なに……?
もらった記憶はないし、知らない言葉。
……はぁ。
なんだか、呼吸も重くなってきました。
海の中って、すごく魅力的ですよね。
キラキラ光っていて、お魚さんたちも自由気ままに泳いでる。
もし。
ほんのひと時でも。
海の中に入れたなら。
ああ。
心臓が止まっちゃうぐらい、気持ちよさそう……。
——ねえ、ナギサちゃん。
ママじゃない、ですね。
誰の声?
——そろそろ、時間だよ。
手招きされてます。
——ほら、起きて。
次の瞬間、唇に感じました。
電気毛布のように熱くて柔らかいもの。
さらには、口を無理矢理広げられたうえ、ドロリとした半固形物を流し込まれはじめて、あたしの足先から脳細胞に至るまでビリビリと痺れだしました。
「おはよう、ナギサちゃん」
目を開けると、女性の顔。
あ、彼女の口元が、青く染まっています。
あたしの記憶を吸い上げた青薔薇を、口移しされた……みたいですね。
「おはようございます。恵巳さん」
「今日もかわいいね」
優しい微笑みを向けられるだけで、あたしの肺がすーっと膨らんでいきます。
なんて、いい朝なんでしょう。
明日、この人と一緒に海に沈むんだ……。
恵巳さん。
あたしのお花畑。
ふふふ。
ずっとずっとお世話になりっぱなしです。
でも、すみません。
最初は信じ切れていなかったんです。
どうせ遊びだって。
よくよく考えると、おかしいじゃないですか。
出会ったばかりの少女に押しかけられても、受け入れて、一緒に死ぬって。
あたしは一目惚れした弱みがありますけど、彼女は違います。
遊びですから、いつか捨てられるのでしょう。
不安で眠れない日が続きましたし、胃袋を掴もうと必死に料理の勉強をしました。
夏休み中に監禁したこともありましたね。
でも、あの日。
ああ……。
ドライフラワーみたいに、記憶は今でも色あせていません。
文化祭直前。
恵巳さんが、学校の屋上から落ちました。
目撃した時、血の気が引いたどころの話ではありません。
自分の体を置いていくと錯覚するほど、全力で走り続けました。
でも、頭の中では「ああ、やっぱり」って声が……。
『死んでいないなら、あたしの手で殺す』なんて考えもありましたよ。
「ナギサちゃんと一緒に死ぬのは、決定事項。だから、ひとりだと死なないって信じてた!」
恵巳さんの叫びで、全部飛んでしまいました。
本当に、本当に……。
どっちもバカですよね。
それでも、いいんです。
生きる理由のすべてをもらったんですから。
文化祭の舞台にて。
大きな青薔薇を咲かせて、寿命を縮めてしまうほどに。
恵巳さん。
恵巳さん。
ふふふ。
魔法みたいですね。
『恵』と『巳』。
たった2文字を思い浮かべるだけでも、口元が緩んじゃいます。
「どうしたの? ナギサちゃん」
不安げな、愛しいお顔。のぞき込んできています。
少し思い出にふけりすぎましたね。
「あ、いえ。ちょっとだけ、ひとりにしてくれませんか?」
彼女は快諾してくれました。
本当、あたしたちは相性ばっちりです。
最期の、孤独な時間。
あたしには成すべきことがあります。
まず、恵巳さんから見えない場所に向かわないと。
砂を踏む音を楽しんでいると、ふいに、意外な光景を目の当たりにしました。
不法投棄された洗濯機の上。
青白い少女が、膝を抱えていました。
番外編④に続きます
次回で番外編も終了です




