10月の雪〜紅葉と雪の饗宴!10月に降る雪は2人の心をゆっくりと溶かしていった
10月の高山。
季節外れの寒気が近づくなか、
一台のバスが高山濃飛バスセンターから新穂高温泉へ向かいます。
乗客の静流には、どうしてももう一度訪れたい場所がありました。
そこは、亡き妻と見た「雪の露天風呂」。
そしてバスの中で、
静流は紅葉という一人の女性と出会います。
偶然二人が持っていた「さるぼぼ」。
それをきっかけに始まった、ほんの小さな会話。
雨はみぞれへ。
みぞれは、やがて雪へ。
そして二人の心もまた、
奥飛騨へ近づくにつれて少しずつ変わっていきます。
雪に幸せな記憶を持つ人。
雪に悲しい記憶を持つ人。
二つの記憶が出会った、
季節外れの一日。
ヒダテン!ボイスドラマ
『10月の雪』
少し切ない、大人のラブストーリーです。
【ペルソナ】
・静流=シズル(30歳/CV:日比野正裕)妻を亡くした青年。妻との雪の思い出を大切にしている
・紅葉=くれは/(24歳/CV:坂田月菜)恋人を雪の日の事故で亡くした少女。雪はトラウマ
・天気予報アナウンサー=宮ノ下浩一さん
【シーン1/高山濃飛バスセンター】
◾️天気予報(宮ノ下さん)
「続いて、気象情報です。
日本付近には、この時期としては非常に強い寒気が流れ込んでおり、
高山市内でも夕方にかけて急激に気温が下がる見込みです」
▪️SE/高山濃飛バスセンターの雑踏
天気予報の言う通り、10月の空は重い鉛色に閉ざされていた。
まるで季節を飛び越えてしまったかのような、灰色の雲。
高山濃飛バスセンター。
バスを待つ客たちはみな体を丸めている。
5番乗り場のホームは新穂高温泉行き。
エアブレーキの音とともに、ロングデッキの路線バスが滑り込んできた。
私の名前は静流。
静かな流れ、と書く。
30年の人生は、7年前まで、名前のように静かな軌跡をたどってきた。
東京都内に生まれ、大学までずっと実家暮らし。
卒業してからは、都内の小さな設計事務所へ。
古い民家のリノベーションや庭園の設計を仕事にしてきた。
ささやかな私の趣味は、季節を愛でること。
研鑽を兼ねて、全国各地の自然を訪ねた。
奥飛騨へ行ったのは7年前。
大自然の中に悠然と佇む秘湯は、日々の疲れを優しく癒してくれた。
そのとき出会ったのが妻。
当時24歳の彼女は、都会の喧 騒を離れ、温泉宿で働くリゾートバイト。
住み込みで仲居をしながら、奥飛騨の四季を楽しんでいた。
話すようになってわかったのは、彼女がフリーターであること。
自分では”自由人”と言っていたけど・・
住まいは都内。
私のオフィスと目と鼻の先。
偶然は、引力に変わる。
私たちの距離は、自然と近づいていった。
結婚したのは、その次の年。
新婚旅行は、彼女の希望で冬の奥飛騨へ。
雪の降る露天風呂。
彼女の微笑みは湯けむりに溶けていく。
それは、人生で一番幸せなひとときだった。
永遠に続くかと思っていた時間。
あっけなく幕を閉じたのは、コロナが明けた2023年。
逝ってしまう前、妻は何度も口にした。
『あの温泉・・露天風呂にまたいきたいな』
思いは叶わなかった。
結局私はいま、ひとりでバスに乗っている。
あの日と同じ、高山濃飛バスセンター。
10月だというのに急に冷え込んだ空気。
まるで私の心を映しているようだ。
奥飛騨の紅葉は10月上旬から下旬。
そろそろ終わりが近い。
とはいえ、いまはまだハイシーズン。
バスは満席ではないにしろ、そこそこお客さんは多かった。
私の席は一番後ろ。
人間観察が趣味、というわけじゃないけど、
昔からこの場所が好きだった。
私は手元の包み紙からさるぼぼをとりだす。
購入したのは、駅前の土産屋さん。
店員のおばちゃんは確かこう言ってたっけ。
さるぼぼは、安産や子育てのお守り。
女の子が幸せになるようにって願いをこめるんやさ。
そうなんだ。
あのとき、買っておけばよかったかな。
・・なんて、どうしようもないことを考えてしまう。
車内の半分以上は外国人。
残りは高齢者のご夫婦か。
そのとき。
発車直前のバスに、1人の女性が乗り込んできた。
私も含めて
まわりがブルゾンやダウンを着込んでいるというのに、
白い薄手のジャケットにサマーニット。
デニムの裾をまくり、足元は白いスニーカー。
髪は、無造作にまとめられたショートボブ。
通路を挟んだ私の斜め前に、座る。
空いているのはそこだけ。
私と目が合ったとき、彼女は一瞬、小さく会釈をした。
私はそっとうなづいて視線を落とす。
視線の先・・
後ろを向いた彼女のリュックに赤い色が揺れている。
彼女が座るのを待っていたように、案内放送が流れ、バスが動き出した。
【シーン2/バス車内〜国分寺・古い町並口・別院前】
◾️天気予報(宮ノ下さん)
「気象情報です。
現在、奥飛騨の山間部を中心として断続的に雨が降っています。
気温の低下に伴い、標高の高い地域では夕方以降、
雨から一段と冷たい『みぞれ』に変わる見込みです」
▪️SE/バス車内のガヤ
イヤホンから天気予報が流れてくる。
ふうっ。雨か・・・
バスは国分寺から古い町並口へ。
斜め前に座る女性がリュックを網棚に載せる。
そのとき、何かが床に落ちた。
それは・・・
さるぼぼ?
私のよりひとまわり小さなキーホルダー。
いや、別に驚くことなどないか。
ここは高山だもの。
みんなさるぼぼを持っていたっておかしくない。
そんなことより・・・
「あの・・・」
私は立ち上がってさるぼぼを拾い、声をかける。
「え?」
不安そうな顔でゆっくりと振り返る女性。
私が差し出す手の中に、さるぼぼを見つけると・・・
「あ・・・」
「さるぼぼ・・・落としましたよ」
「ありがとうございます」
彼女はホッとしたように口角を上げて、さるぼぼを受け取る。
その瞬間、彼女の視線が、私のもう一方の手に止まった。
「あ、それ・・・」
「あ、これですか。
お土産屋さんで見てたら、なんとなくほしくなっちゃって。
おかしいですよね」
「いいえ、わかります。
この子もそう。
さるぼぼなんて興味もなかったのに、6年前・・・」
そう言いかけて、彼女は口をつぐんだ。
急にさみしそうな表情が浮かぶ。
「あ、ごめんなさい・・・」
「いえ、こちらこそ急に声をかけてしまってすみません・・
でも、心配ですね。天気」
「天気・・・?」
私は片耳にはめたイヤホンを指差す。
「あ・・・」
「奥飛騨は雨みたいですよ。
どこまで行かれるんですか?
っと、ごめんなさい」
「いえ、大丈夫・・・
あの、新穂高です」
「奥飛騨なんですね。実は僕も・・・
あ、いえ、失礼。関係ないし・・
深い意味はないです」
「奥飛騨は雨・・そうですか・・・
雪だったらよかったのに」
「え・・・」
「いえ、なんでもありません・・・」
そう言って彼女はまた窓の方に顔を向けた。
バスは別院前から長坂辻へ。
北アルプスの山並みに向かって進んでいった。
【シーン3/バス車内〜町方・坊坊公民館前〜スキー場口・ほおのき平】
◾️天気予報(宮ノ下さん)
「天気の状況をお伝えします。
気象庁は先ほど、奥飛騨温泉郷周辺に路面凍結に関する注意を呼びかけました。
標高の高い地域では気温が氷点下近くまで下がっており、
夜間にかけて路面の急激な凍結に警戒が必要です」
▪️SE/バス車内のガヤ
天気予報が不穏な状況を伝える。
バスは町方から坊坊公民館前へ。
窓には小さな雨粒が当たりはじめた・・・
「雨・・・」
彼女がぽつりとつぶやいて振り返る。
「さっきはごめんなさい・・・
私、本当は雪が見たかったんです」
「雪・・?」
「そう。奥飛騨の一番奥まで行けば見られるのかな、って」
「ああ。だから新穂高・・
実は僕も、雪の思い出をたどるためにこのバスに乗ってるんです」
「雪の思い出・・素敵ですね」
「ええ。
思い出すだけで、心があったかくなってきます。
雪の中の露天風呂、っていう氷点下のシーンなのに」
「素敵・・・雪の露天風呂ってまだ入ったことないです」
「最高ですよ。
体は火照ってくるのに、首から上は、痺れるような寒さ。
見上げれば宝石のような雪がゆっくりと降りてくる。
湯船を見ると、湯けむりが雪の結晶を溶かしていくんです」
「見てみたいなあ」
「冬になればいつでも見られるんじゃないですか。
奥飛騨なら・・・」
「そうですね。
でも私、冬より秋が好きなんです」
「はは。難しい相談ですね」
「はい・・・秋に雪が降ればいいのに」
気がつけば彼女は窓側から通路側に移動している。
私も最後列の真ん中よりも彼女側に体をあずけていた。
バスはいつの間にか鍾乳洞口もすぎてほおのき平へ。
もう少しで五色ヶ原の森、そして奥飛騨温泉郷。
窓の外は灰色の景色と、時折ガラスを濡らす水滴。
街灯や対向車のライトが滲みながら、流れていった。
【シーン4/バス車内〜平湯トンネル・平湯温泉バスターミナル〜栃尾温泉・新穂高温泉口】
◾️天気予報(宮ノ下さん)
「お天気です。
気象庁の最新の発表によりますと、奥飛騨温泉郷の新穂高温泉など、
山間部の地域で先ほどから雪が降り始めました。
上空の寒気はさらに強まる見込みで、夜遅くにかけては降雪が一段と強まり、
10月としてはまとまった雪になる恐れがあります。
水分を多く含んだ重い雪となるため、
ノーマルタイヤの車両によるスリップや立ち往生に厳重な警戒が必要です」
▪️SE/バス車内のガヤ
「降ってきましたね」
「ええ」
平湯トンネルを抜けると、雨は雪に変わっていた。
ヘアピンカーブを通って平湯の町へと下っていく。
車窓に流れる白い糸。
私の方へ振り向いた彼女の表情は、どこか嬉しそうだった。
と同時に瞳の奥に小さな憂いも感じる。
なんだろう?
「あの・・・」
「はい・・・」
「さっきのお話、もう少し伺ってもいいですか?」
「え・・・あ、ああ・・もちろんです。
もし・・・ご迷惑でなければ・・・そちらに移動してもいいですか?
声を抑えて話せるので」
「あ、はい・・・どうぞ」
新穂高線の車内は、通常の路線バスよりゆったりしている。
シートとシートの距離も広い。
背もたれもハイバックと言って、首までもたれることができる。
話すなら、お互いに首や肩が疲れない方がいいだろう。
「雪の露天に行かれたのはいつですか?」
「6年前です」
「2020年・・」
「はい。
その年に結婚したんです」
「まあ。じゃあ、新婚旅行・・・」
「そうですね」
「ひょっとして・・奥様は・・・」
「3年前になくなりました」
「ご、ごめんなさい・・・私ったら」
「いえ、大丈夫ですよ。
妻がね。
もう一度行きたい、ってずっと言ってたんです」
「はい・・・」
「私も心にためたままにしておくより、
誰かに聞いてもらえてよかったです。
ありがとう」
「そんな・・・」
窓の外の雪は勢いを増していくように見える。
バスは洞谷橋を渡って栃尾温泉へ。
ここから先は北アルプスの麓へと突き進む渓谷ルート。
左手は、山肌に張り付くように佇む温泉宿や民宿。
右手には、蒲田川の清流と北アルプスの絶景。
季節外れの雪が、終わりゆく紅葉をうっすらと白く染めていった。
【シーン5/新穂高温泉・旅館の露天風呂】
◾️天気予報(宮ノ下さん)
「交通情報をお伝えします。
雪の影響で、奥飛騨温泉郷周辺では、平年より大幅に早い初雪となっているため、
一部でノーマルタイヤの車両による立ち往生や、坂道でのスリップが発生しています。
これに伴い、周辺の主要道路では部分的に激しい渋滞が見られるほか、
路線バスなどの公共交通機関にも運行の遅れや見合わせなどの影響が出始めています。
詳しい運行状況や迂回路については、各交通機関の最新情報をご確認ください」
▪️SE/露天風呂・掛け流し温泉の音
ああ・・・
まさか10月にこの景色が見られるなんて・・・
これって、君が見せてくれた奇跡かい?
ちゃんと見えてる?
露天の岩の上。
手拭いの上に置いたさるぼぼに私は話しかける。
あのときと同じだね。
顔に当たる雪が冷たすぎる、って君は言ってたけど。
このまま一緒に、この景色を楽しもう。
▪️SE/湯船に誰か入ってくる音
「失礼します・・」
「え・・?」
「あ・・」
「す、すみません。すぐに出ますから」
「いえ。大丈夫ですよ。
だって、ここ、混浴でしょ」
「え、そうなんですか?」
「はい・・入口に描いてありますよ」
「知らなかった・・・」
「よかったら・・少しお話しませんか?」
「え・・こ、ここで?」
「はい・・
さっきバスの中ではあなたの話ばかり聞いて、
私、自分のことなにも言ってなかったから」
「自分のこと・・?」
「私、高山に住んでるんですけど、
奥飛騨は6年ぶりなんです・・」
「え・・じゃあ、私と同じ・・」
「はい・・・
6年前は当時付き合っていた彼ときました。
生まれて初めて入る、紅葉の露天風呂。
それはもうロマンティックで・・最高のひとときでした」
「ひょっとして・・」
「ええ・・彼はその年の12月に亡くなりました。
大雪の日の事故で」
「大雪の日の・・・」
「だから私・・冬も、大雪も、大嫌いなんです」
「ああ・・・」
「でも、あの日の露天の景色だけは忘れられなくて・・
もう一度来たかった・・・」
「そうなんですね・・」
「勇気を出して来て、よかったです・・・ふぅ」
そう言って彼女は小さくため息をついた。
立ち上る湯けむりが私と彼女を隔てている。
冷たい雪が、熱い湯を冷ましていく。
それに抗うように、かすかな湯音が響いた。
優しく、静かに、白いベールが薄れていく。
湯煙の向こうに見える、彼女の瞳。
雪の夜空を見上げる美しい虹彩は
私の中の悲しみを、ゆっくりと癒していった。
◾️天気予報(宮ノ下さん)
「飛騨地方の山間部で一時激しく降っていた雪はピークを過ぎ、各地で小降りになりつつあります。
今夜は次第に風も収まり、山間部を中心にしんしんと雪が積もる静かな夜となるでしょう。
明日の朝にかけては雲が切れ、澄んだ冬の星空が広がる見込みですが、
放射冷却の影響で厳しい冷え込みとなります。
凍結による路面状況の悪化には、引き続き十分ご注意ください」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
静流にとって「雪」は、
亡き妻と過ごした人生で一番幸せな時間を思い出させてくれるもの。
一方、紅葉にとって「雪」は、
大切な恋人を失った悲しい記憶そのものでした。
同じ雪なのに、
一人にとっては幸せの象徴で、
もう一人にとっては悲しみの象徴。
そんな二人が出会った日に、
10月には少し早すぎる雪が奥飛騨に降りました。
この物語で描きたかったのは、
「忘れること」だけが前へ進むことではない、ということなのかもしれません。
大切だった人を忘れなくてもいい。
その人との思い出を胸に残したまま、
また別の誰かと言葉を交わしたり、
同じ景色を見たり、
笑ったりすることはできる。
静流と紅葉が、このあと恋人同士になるのかは分かりません。
もう一度会うのかさえ分かりません。
ただあの夜。
湯けむりの向こうで雪空を見上げる紅葉の瞳が、
静流の中にあった悲しみをほんの少しだけ癒した。
それだけで、この「10月の雪」には、
二人にとって特別な意味があったのではないでしょうか。
そして、紅葉にとっても。
大嫌いだったはずの雪の記憶に、
この日からもうひとつ、
新しい景色が加わったのかもしれません。
この物語はボイスドラマになっています。
「ヒダテン」で検索して公式チャンネルから聴くほか、Spotify、Apple Podcasts、Amazon Musicなどでもお楽しみいただけます。
文字で読む『10月の雪』と、
声、音、音楽で描かれる『10月の雪』。
ぜひそれぞれで、
奥飛騨に降る季節外れの雪を感じていただけましたら幸いです。
最後に、この作品で非常に印象に残ったのは「雪だったらよかったのに」という紅葉の言葉です。 後半になって、彼女が実は大雪の日の事故で恋人を亡くし、「冬も、大雪も、大嫌い」と告白することで、この何気ない一言の意味が完全に変わります。
「雪が好きだから見たい」のではなく、嫌いになってしまった雪の中に、それでも忘れられないほど美しい恋人との記憶が残っているから、もう一度見たい。 ここが紅葉という人物をとても切なくしています。
そしてラストの「白いベール」が薄れていき、湯煙の向こうに紅葉の瞳が見える描写は、単なる風景描写であると同時に、静流と紅葉を隔てていた「過去」というベールが少しだけ晴れたようにも読めます。
その意味でも、先ほど制作した「紅葉が残る露天風呂に季節外れの雪が降り、紅葉が一人で錫杖岳を眺めているサムネイル」は、この作品のテーマをかなり象徴的に表現できていると思います。




