■ 第九章「名前を呼んで」
月曜日の朝。
蓮司は七時五十分に家を出た。いつもより十分早い。
隣の家の門の前に立つ。待つ。心臓がうるさい。昨日まで何千回も通った道なのに、今日はまるで知らない場所に立っているみたいだ。
七時五十三分。隣の家の玄関が開いた。
「おはよう、蓮司!」
陽和が出てきた。制服。いつもの鞄。髪はいつも通り。でも中指にリングが光っている。
蓮司は——自分の左手を見た。薬指のリング。ある。ちゃんとある。
「……おはよう」
「迎えに来てくれたんだ。ほんとに」
「言っただろ」
「うん。嬉しい」
陽和が笑った。朝日の中で。くしゃっと目を細めて。蓮司がいちばん好きな笑い方で。
歩き出す。いつもの道。いつもの左右。
蓮司の左手がそっと伸びて、陽和の右手に触れた。指を絡める。自然に。昨日よりずっと自然に。
陽和は何も言わなかった。ただ、繋がれた手をぎゅっと握り返した。
「……学校の近くになったら」
「うん、離す。分かってるよ」
「……」
「蓮司、残念そうな顔してる」
「してねえ」
「してる。口が曲がってる」
「もとからだ」
陽和はくすくす笑って、蓮司の腕にほんの一瞬だけ額をくっつけた。一秒にも満たない動作。でもその一秒で蓮司の体温は二度上がった。
校門の手前で手を離した。
並んで校舎に入る。昇降口。靴を履き替える。いつもの風景。
でも今日は、少しだけ違った。
蓮司が陽和の靴箱のそばに立っている。陽和がローファーに履き替えるのを、ぼんやり待っている。今まではどちらが先に教室に入るかなんて気にしていなかった。それが今日は、自然と足並みが揃っている。
「……行くか」
「うん」
二人で廊下を歩く。肩が触れそうな距離。触れてはいない。
すれ違うクラスメイトが二人をちらちら見ている気がした。気のせいかもしれない。気のせいじゃないかもしれない。
教室に入った。
「おはよー、ひよりん!」
真白がいつも通り声をかけてきた。でも、その目が蓮司と陽和を交互に見て——それから、にやりと笑った。
「……二人で来たね」
「たまたまだよ」と陽和が言った。
「朝霧くんも同じこと言う?」
「……たまたまだ」
「息ぴったりだね。たまたま」
真白はそれ以上追及しなかった。ただ、陽和の中指のリングをちらりと見て、目を丸くした。口パクで「あとで詳しく」と陽和に伝えていた。
蓮司は自分の席に座った。いつもの窓際。隣に陽和が座る。いつもの配置。
でも今日は、二人の間の空気が違った。それは蓮司にも陽和にも分かっていたし——周囲にも、じわじわと伝わり始めていた。
一時間目の休み時間。
真白が陽和を廊下に引っ張り出した。蓮司の耳には聞こえないところまで連れていって、陽和の手を掴んだ。
「リング」
「……うん」
「ペア?」
「……うん」
「朝霧くんも?」
「……左手の薬指」
真白が小さく叫んだ。両手で口を押さえて、足をばたばたさせた。
「いつ!? いつから!? 何があったの!?」
「文化祭の日。夜。色々あって——」
陽和はかいつまんで話した。全部は言わなかった。雨の中のことも、丘の上のことも、本当に大事な言葉は胸の中にしまっておきたかった。
でも真白には十分だったらしい。
「やっぱりね。やっぱりそうだと思った。——ひよりん、よかったね」
真白の目が少し潤んでいた。
「……真白」
「ずっと見てたもん。ひよりんが朝霧くんのこと見てる目。朝霧くんがひよりんのこと見てる目。二人とも全然隠せてなかったよ」
陽和は笑った。泣きそうな笑顔だった。
「ありがとう、真白」
「お礼は詳細レポートで受け付けます」
「……考えとく」
教室に戻ると、蓮司は窓の外を見ていた。イヤホンはしていない。
陽和が席に着くと、蓮司が小さな声で言った。
「……真白に言ったのか」
「うん。大丈夫?」
「……大丈夫。あいつなら」
蓮司は真白を信頼していた。陽和の親友で、口が堅くて、空気が読める。変に騒ぎ立てるタイプじゃない。
「蓮司、真白のこと信頼してるんだね」
「……おまえが大事にしてるやつは、俺も信用する」
何でもないことのように言った。でもその一言の重みを、陽和は分かっていた。
昼休み。
いつも通り、陽和の周りに人が集まった。後輩が来て、友人が来て、隣のクラスの女子が来て。
陽和はいつも通り笑って対応した。でも今日は、ひとつだけ違うことがあった。
陽和の視線が、時々蓮司の方に向かう。ちらりと。一瞬だけ。目が合うと、ほんの少し口角が上がる。蓮司はそれに気づいて、目を逸らす。
それだけのやりとり。誰にも気づかれない、二人だけの信号。
蓮司は弁当を食べていた。今日も陽和の母からの差し入れがある。鶏の照り焼きとブロッコリー。弁当箱の隅に、小さなメモが入っていた。
陽和の字ではなかった。陽和の母の字だった。
「蓮司くん、これからもひよりをよろしくね」
蓮司はメモを三秒見つめて、弁当箱の蓋の裏に隠した。
——バレてんのかよ。
七瀬家の母親は勘がいい。たぶん、朝二人で出かけるところを窓から見ていたのだろう。
「ねえ朝霧」
声をかけてきたのは田中だった。弁当を持って蓮司の隣に座る。
「おまえさ、最近なんか変わった?」
「……変わってねえけど」
「いや変わったって。なんていうか——空気が。七瀬さんとの間の空気が」
「…………」
「あと、おまえが七瀬さんの方ちらちら見てる回数、明らかに増えてるぞ」
「見てねえ」
「俺も数えてるわけじゃないけど、今日の昼だけで六回」
「数えてんじゃねえか」
田中がにやっと笑った。
「付き合ってんだろ」
蓮司は田中を見た。田中は茶化す感じではなかった。カウンター班を一緒にやった仲だ。蓮司が心を開いている数少ない男子の一人。
「…………ああ」
「やっぱりな。文化祭の日、七瀬さんがいなくなった時のおまえの顔見て確信したわ」
「……そんな顔してたか」
「してた。生まれて初めて見た、おまえの血の気が引いてる顔。——おめでとう、朝霧」
田中が弁当の唐揚げを蓮司に差し出した。
「祝いの唐揚げ」
「……いらねえよ」
「まあ食え食え」
蓮司は唐揚げを受け取って、口に入れた。
「……ありがとう」
小さな声だった。田中は聞こえないふりをして、自分の弁当を食べ続けた。
放課後。
教室に人が減っていく。部活に行くやつ、帰るやつ、残って喋るやつ。
陽和は帰り支度をしていた。蓮司もだった。今日はバスケ部はオフだ。
「ひよりん、一緒に帰ろー」と真白が声をかけたが、陽和がちらりと蓮司を見た目に気づいて、「あ、やっぱ今日はいいや。用事思い出した」と去っていった。最高の親友だった。
教室を出る。廊下を歩く。二人並んで。
昇降口を出たあたりで、後ろから声がかかった。
「七瀬さん」
桐谷だった。
陽和は足を止めた。蓮司も止まった。
桐谷は蓮司を見て、それから陽和を見た。少し気まずそうにしていたが、すぐにいつもの人当たりのいい顔に戻った。
「文化祭の時はごめん。変な空気にしちゃって」
「ううん、桐谷くんが謝ることないよ。気持ちは嬉しかったから」
「……ありがとう。あとさ、もう聞いたっていうか、なんとなく分かったんだけど——朝霧くんと、そういうこと?」
陽和はちらりと蓮司を見た。蓮司は前を向いたまま、何も言わなかった。でも否定もしなかった。
「……うん」
陽和が頷いた。
桐谷は一瞬だけ目を伏せて、でもすぐに顔を上げて笑った。
「やっぱりな。朝霧くんが飛び出してった時点で分かったよ。——大事にしてやってよ、朝霧くん」
蓮司は桐谷を見た。
桐谷はまっすぐ立っていた。悔しさを飲み込んだ顔だったけど、卑屈さはなかった。
「……ああ」
蓮司が短く答えた。
桐谷は手を上げて去っていった。その背中を見送って、陽和が小さく息を吐いた。
「桐谷くん、いい人だなあ」
「……ああ」
「蓮司、嫉妬してない?」
「……してねえ」
「ちょっとくらいしてほしかったな」
「……してほしいのかよ」
「冗談。——ほんとは蓮司がいてくれるだけで十分」
蓮司は何も言わなかった。ただ、歩き出す時に手を繋いだ。校門を出てから。当然のように。
陽和は繋がれた手を見下ろして、小さく笑った。
帰り道。
夕方の住宅街。オレンジ色の空。蝉はまだいない。六月の風は湿っているけど、今日は涼しかった。
「蓮司」
「ん」
「学校で——みんなの前で笑ってる時、たまに蓮司のこと見ちゃうの」
「……知ってる」
「気づいてたの?」
「隣の席だぞ。気づくだろ」
「それで蓮司もこっち見てくるから、嬉しくなって——もっと笑っちゃうの」
蓮司は繋いだ手に少しだけ力を込めた。
「……おまえは、みんなの前で笑ってていい」
「え?」
「前に——嫌なこと言ったけど。『誰にでも笑うな』って、思ってたけど。あれは俺が間違ってた」
陽和は蓮司の横顔を見上げた。蓮司は前を向いたまま、ゆっくり言葉を選んでいた。
「おまえが笑うと、周りのやつが嬉しそうにする。それ見て俺は——嫉妬してた。おまえの笑顔を独り占めしたかった。でもそれは違うなって——この土日でちょっと考えた」
「……蓮司」
「おまえの笑顔はおまえのもんだ。誰に向けたっていい。俺がどうこう言うことじゃない。でも——」
蓮司は足を止めた。
陽和も止まった。向かい合う。夕日が蓮司の後ろにある。逆光で表情が見えにくい。でも声は聞こえた。いつもより少し低い、でも柔らかい声。
「でも、おまえが笑えなくなった時——作り笑いしかできなくなった時は、俺のとこに来い。俺の前では笑わなくていい。泣いてもいい。怒ってもいい。全部受け止める」
陽和は息を止めていた。
「おまえが誰に見せる笑顔も、全部本物だって俺は知ってる。でも——俺にだけ見せてくれる顔があるなら、それは俺が世界で一人だけ持ってる特別だと思ってる」
蓮司の声が少しだけ震えた。
「だから——もう、出ていくな。泣いても、怒っても、俺の前にいろ。隣にいろ。どこにも——行くな」
最後の言葉は、祈りに近かった。
陽和の目に涙が浮かんだ。でも今回はこぼさなかった。唇を噛んで、ぐっと堪えて、笑った。
泣きそうな笑顔。でも本物の笑顔。蓮司がいちばん好きな顔。
「……行かないよ」
陽和は繋いだ手を引いて、蓮司に一歩近づいた。
「行かない。どこにも。蓮司の隣にいる」
「……」
「蓮司がいてくれるなら、私はどこでだって笑えるよ。みんなの前でも、二人きりでも。だって——帰る場所があるから。蓮司っていう、帰る場所が」
蓮司は空いている方の手で顔を覆った。
「……やめろ、おまえ——泣かす気かよ」
「泣いてるの?」
「泣いてねえ」
「泣いていいよ。蓮司が言ったんでしょ、俺の前では泣いてもいいって」
「……それはおまえに言ったんだろ」
「同じだよ。——私の前でも、蓮司は蓮司でいて」
蓮司は手を下ろした。目は赤くなかった。赤くなかったけど、潤んでいた。夕日のせいだと言い張ることもできた。でも、もう嘘をつきたくなかった。
「……陽和」
「うん」
「名前、呼んでくれ」
「……え?」
「俺の名前。おまえの声で」
陽和はきょとんとして——それから、ふっと笑った。
「蓮司」
ただの二文字。何百回、何千回と呼んだ名前。
でもこの夕暮れの中で、手を繋いで、向かい合って、呼ばれたその名前は——蓮司の胸の奥深くに落ちて、静かに灯った。
「……もう一回」
「蓮司」
「……もう一回」
「——何回言わせるの」
「……すまん。もういい」
「よくないよ。もっと呼びたい。——蓮司。蓮司。蓮司」
陽和は笑いながら、蓮司の名前を繰り返した。
蓮司は目を閉じた。夕日の赤が瞼の裏に透けている。陽和の声が、名前が、何度も何度も胸に落ちてくる。
「……陽和」
「うん」
「おまえは俺の——」
陽和の息が止まった。
あの日の続きだ。雑貨屋の帰りに言いかけて、逃げた言葉。いつか聞かせてと言った、あの続き。
蓮司は目を開けた。まっすぐ陽和を見た。逃げなかった。
「おまえは俺の、いちばん大事な人間だ」
「ものだ」ではなかった。
独占欲をそのまま叩きつけるのではなく——蓮司が選んだ言葉は、もっと深くて、もっと静かで、もっと温かかった。
陽和の涙が、今度はこぼれた。堪えきれなかった。
「……ずるい」
「ずるくねえよ」
「ずるいよ。そんな言い方——私が勝てるわけないじゃん」
「勝ち負けじゃねえだろ」
「勝ち負けだよ。蓮司の言葉はいつもずるい。普段全然喋らないくせに——大事なことだけ、全部持ってく」
陽和は泣きながら笑った。涙と笑顔が混ざった、ぐちゃぐちゃの顔。世界一きれいな顔。
蓮司は手を伸ばした。親指で陽和の涙を拭った。あの日、ペンキを拭った時と同じ指で。
「……泣くなよ」
「蓮司が泣かせてるんでしょ」
「……それもそうだ」
陽和は蓮司の手のひらに頬を押し当てた。目を閉じて、その温度を感じた。
蓮司の手は少し冷たくて、でも触れているところから熱が伝わってくる。大きくて、不器用で、でもいつも大事なところだけ——正確に触れてくれる手だった。
「蓮司」
「ん」
「私も言っていい?」
「……何を」
「蓮司は私の——いちばん大事な人。ずっと前から。これからも。ずっと」
蓮司は親指を陽和の頬に置いたまま、小さく息を吐いた。
「……重いな、おまえ」
「蓮司に言われたくない」
「……それもそうだ」
二人は見つめ合って、同時に小さく笑った。
ぎこちなくて、不格好で、涙の跡が残っていて。でもそれが、二人の精一杯だった。
繋いだ手。向かい合った距離。夕焼け。六月の風。
蓮司が一歩前に出た。陽和との距離がゼロになった。
腕を回して、抱きしめた。二回目。一回目は雨の中だった。今度は夕日の中。
「……帰ったら、窓開けろよ」
「何それ」
「いいから。開けろ」
「……うん」
しばらくそのまま立っていた。
通りすがりの犬の散歩の人に見られた気がしたが、蓮司は離さなかった。
家の前で別れた。今日は「おやすみ」ではなく「また明日」だった。
蓮司は自分の部屋に入って、窓を開けた。
隣の家の窓も開いた。陽和が顔を出す。中指のリングが夕日に光る。
「開けたよ」
「……ああ」
「何? 蓮司から開けろって言ったんでしょ」
蓮司は窓枠に肘をついて、陽和を見た。
「……別に。顔見たかっただけ」
陽和が真っ赤になった。口をぱくぱくさせて、何か言おうとして、言えなくて、両手で頬を押さえた。
「蓮司——そういうことさらっと言わないで——」
「さらっと言ってねえだろ。五分くらい考えた」
「五分考えてそれなの!?」
「……悪いかよ」
「悪くない……悪くないけど……心臓が……」
陽和は窓辺にしゃがみ込んで顔を隠してしまった。蓮司は窓から見下ろして、陽和のつむじだけが見えている状態で、ふっと笑った。
「……おい」
「なに……」
「また明日」
「……うん。また明日」
陽和が少しだけ顔を上げた。目が合った。二人とも赤い顔をしていた。
「蓮司」
「ん」
「大好き」
今日初めての「大好き」だった。「好き」よりもうひとつ重い言葉。
蓮司は三秒固まって、それから窓枠を握りしめて、絞り出すように言った。
「……俺の方が」
「え?」
「俺の方が、好きだ」
陽和がまたしゃがみ込んだ。今度は声が漏れていた。小さな悲鳴みたいな声。
「無理……蓮司無理……好きすぎて無理……」
「……人を無理って言うな」
「好きすぎてって言ったでしょ!」
蓮司は笑った。声には出さなかったけど、口元が緩んだ。陽和には見えていないはずだ。しゃがみ込んでいるから。
でも——見えていなくてもいい。この笑顔は、陽和のために浮かんでいる。それだけで十分だった。
窓を閉める。カーテンを引く。部屋が暗くなる。
ベッドに座って、左手の薬指のリングに触れた。
今日、言えた。
「おまえは俺の、いちばん大事な人間だ」
言えた。逃げなかった。飲み込まなかった。
陽和に届いた。陽和が泣いた。笑った。「私も」と返してくれた。
蓮司は天井を見上げて、深く息を吐いた。
胸の奥が温かい。ずっとこんな気持ちだったのかもしれない。ずっと前から。ただ蓋をしていただけで。
もう蓋はしない。しなくていい。
引き出しを開けた。ペンキのハンカチと、卵サンドのマスキングテープ。その隣に今日のメモ——七瀬家の母の「これからもひよりをよろしくね」を並べた。
引き出しの中の、陽和の欠片たち。
蓮司はそっと引き出しを閉めて、明かりを消した。
明日も迎えに行く。明後日も。その次の日も。
たまたまじゃなく。ずっと。




