■ 第八章「独占」
翌朝。日曜日。
文化祭の振替休日で学校は休みだった。
蓮司は午前六時に目が覚めた。目覚ましより三十分も早い。理由は分かっている。分かっているが認めたくない。
天井を見た。昨日のことが全部、夢ではなかったか確認するみたいに記憶をなぞった。
丘の上。雨。泣いている陽和。抱きしめた。手を繋いだ。好きだと言った。好きだと言われた。付き合えと言った。うんと言われた。窓越しにおやすみを言った。
——夢じゃない。
スマホを手に取った。画面にLINEの通知。
陽和からだった。送信時刻は午前一時十二分。
「おやすみって二回言ったのに、まだ起きてた。蓮司のせい。おやすみ三回目」
蓮司はスマホを持ったまま、枕に顔を埋めた。
朝から心臓がうるさい。
返信を打つ。消す。打ち直す。消す。五分かかって送ったのは一言だった。
「おはよう」
三秒で既読がついた。
「おはよう!!早いね、蓮司が先におはようって言うの珍しい」
珍しいだろう。自分でも驚いている。
*「今日どうすんの」*と陽和から来た。
蓮司は指を止めた。休みの日に二人で出かけたことは何度もある。でもそれは全部「幼なじみ」としてだった。今日からは違う。今日からは——
何が変わるんだ。何を変えればいいんだ。
手を繋ぐのか。どこに行くのか。デートというやつをするのか。デートって何をすればいいんだ。
蓮司は人生で初めて「デート 何する」で検索しようとして、自分が情けなくなってスマホを伏せた。
結局、返したのはこれだった。
「特に予定ない」
「じゃあ遊ぼう! 十時に玄関前」
「……おう」
残り三時間半。蓮司は何を着ればいいか分からなくて、クローゼットの前で十五分立ち尽くした。
午前十時。
蓮司は自分の家の前に立っていた。黒いTシャツにデニム。いつもの格好。結局いつもの格好にした。変に気合を入れたら負けだと思った。何に負けるのかは分からない。
隣の家の玄関が開いた。
陽和が出てきた。白いブラウスにベージュのスカート。髪は下ろしていて、小さなピアスが光っている。いつもの制服姿とは違う。
蓮司は一瞬、呼吸を忘れた。
「おはよう、蓮司!」
「……おう」
「……どうしたの、固まって」
「固まってねえ」
「まばたきしてなかったよ、今」
「……してた」
「してなかった」
陽和はくすくす笑って、蓮司の隣に並んだ。
歩き出す。いつもの左右。蓮司が車道側、陽和が内側。
でも今日は——手が、ぶらぶらと隣り合っている。繋ぐのか、繋がないのか。昨日は雨の中で自然に繋いだ。でも今日は晴れていて、日曜日で、人通りもある。
指先が触れた。蓮司の指と陽和の指。偶然のように。
どちらも引っ込めなかった。
蓮司の小指が、陽和の小指にかすかに絡まった。
「……」
「……」
二人とも前を向いたまま、何も言わなかった。
小指一本。たったそれだけの接触。なのに蓮司の耳は沸騰しそうだった。
陽和が小さく笑った。
「蓮司、耳」
「言うな」
「真っ赤」
「黙れ」
「かわいい」
「——朝から勘弁しろ」
陽和は笑いながら、蓮司の小指をぎゅっと握った。蓮司は振りほどかなかった。
駅前のカフェに入った。
陽和が選んだ店だった。蓮司は「どこでもいい」と言ったが、陽和が「じゃあここ」と迷わず入ったのは、窓際の席が広くて向かい合わせではなく横並びで座れる店だった。
蓮司はそういう選び方をする陽和に気づいていた。気づいていて、何も言わなかった。
アイスコーヒーとカフェラテを注文して、窓際の横並びの席に座った。
肩が触れそうな距離。触れてはいない。でも温度は感じる。
「ねえ蓮司」
「ん」
「昨日のこと、まだ夢みたいな感じする」
「……俺もだ。朝起きて確認した」
「何を確認したの」
「……記憶が正しいかどうか」
「正しかったでしょ」
「……まあ」
「ふふ」
陽和はカフェラテのストローに口をつけながら、蓮司の横顔を見つめた。いつもの無愛想な横顔。でも今日は、その無愛想の下に柔らかいものが混ざっている気がした。
「蓮司、ひとつ聞いていい?」
「何」
「いつから好きだったの」
蓮司のアイスコーヒーを持つ手がぴたりと止まった。
「……その質問は」
「だめ?」
「……いつからって言われても、分かんねえ」
「え、分かんないの?」
「分かるわけねえだろ。気づいたら——もうそうだった」
陽和は目を丸くして、それからじわりと笑った。
「……なにニヤニヤしてんだよ」
「だって——気づいたらもうそうだったって、最高に蓮司じゃん」
「意味分かんねえ」
「褒めてるの」
「全然褒めてる感じしねえけど」
陽和はカフェラテを一口飲んで、ストローの先で氷をくるくる回した。
「私はね、たぶん消しゴムの日。あの数学の授業の日。でもたぶん、種はもっと前からあって——蓮司が屋上でペンキ拭ってくれた時に、芽が出たんだと思う」
「……植物かよ」
「蓮司が水やりしたんだよ。無自覚に」
「……無自覚に水やりなんてしてねえよ」
「蓮司が不器用に優しくするからいけないんでしょ」
蓮司は何も言えなくて、アイスコーヒーを飲んだ。氷が溶けて薄くなっていた。
カフェを出て、商店街を歩いた。
日曜日の商店街は人が多い。家族連れやカップル、友人同士。その中を二人で歩く。
手は——繋いでいなかった。さっきの小指はカフェに入る時に自然と離れて、それきりだった。
蓮司は横目で陽和の手を見た。ぶらぶらと揺れている。繋いでほしいのか、そうでもないのか、分からない。自分から繋ぐべきなのか。でもさっきは陽和から握ってきた。なら待つべきか。待つのは受け身すぎるか。
「蓮司、なに考えてるの」
「……別に」
「嘘。さっきから三回くらい私の手見たでしょ」
「見てねえ」
「見てた。私も蓮司の手見てたから分かる」
「……」
沈黙。
陽和が右手を少しだけ蓮司の方に寄せた。蓮司の左手が少しだけ陽和の方に寄った。
指先が触れた。今度は小指だけじゃなく、四本の指が絡まった。蓮司が最後に親指を陽和の手の甲に添えて、完全に繋がった。
「……蓮司から繋いでくれた」
「……うるせ」
「嬉しい」
「……黙って歩け」
陽和は黙らなかった。嬉しそうに笑って、繋いだ手をぶんぶん揺らした。蓮司は「揺らすな」と言ったが、振りほどかなかった。
商店街の雑貨屋の前で、陽和が足を止めた。
「あ、ここ見てもいい?」
「……好きにしろ」
店に入る。手は離さなかった。狭い店内を繋いだまま歩くのは少し不便だったが、どちらも離す気配がなかった。
陽和がアクセサリーのコーナーで足を止めた。小さなペアリングが並んでいる。
「……かわいい」
「……俺に買えって言ってるのか」
「言ってない! 見てるだけ!」
「……」
蓮司はペアリングの棚を見た。シルバーのシンプルなやつ。華美じゃない。邪魔にならないデザイン。
値段を確認した。バイト代で買えなくはない。
陽和が別の棚に移動した。蓮司は手を離して「先に行ってろ」と言った。
「え、蓮司は?」
「すぐ行く」
陽和は首を傾げたが、奥の棚に歩いていった。
蓮司は店員に声をかけた。小声で。
「……これ、二つください。サイズ——」
自分の薬指のサイズは分かる。問題は陽和のサイズだった。
昨日、手を繋いだ。その感触から推測する。自分の小指と同じくらいだった。つまり——
「サイズ合わなかったら交換できますか」
「はい、レシートがあれば一週間以内なら」
「……じゃあ、これで」
蓮司はリングを二つ買って、小さな袋をポケットにねじ込んだ。
陽和が戻ってきた。
「蓮司、何買ったの」
「何も」
「ポケット膨らんでるけど」
「気のせい」
「絶対気のせいじゃない」
「気のせいだって言ってんだろ。——出るぞ」
蓮司は陽和の手を引いて店を出た。引かれた陽和は少し驚いた顔をして、それからにやにやした。
「蓮司って分かりやすいね」
「うるせ」
昼を過ぎて、公園のベンチに座った。
コンビニで買ったおにぎりを食べる。蓮司は鮭、陽和はツナマヨ。蓮司は自分の鮭を一口食べてから、黙ってもう一個取り出した。卵サンド。コンビニの。
「……卵サンドかぶりだな、うちら」
「は?」
「私もお弁当作ってこようかなって思ったんだけど、コンビニでいいかなって。——で、蓮司の分も卵サンド買おうとしたの。でも蓮司は自分で買うかなって思ってやめた」
「…………」
蓮司は卵サンドのパッケージを開けながら、陽和を見た。
「……おまえ、俺の分も考えてたのかよ」
「彼女だもん。当たり前でしょ」
——彼女。
その単語が蓮司の脳を貫通した。
「……なに固まってんの」
「固まってねえ」
「また固まってるよ。今日二回目」
「……慣れてねえんだよ、そういう単語」
「どの単語?」
「………………彼女」
言った瞬間、耳が発火した。体感温度が五度は上がった。
陽和は嬉しそうに足をぱたぱたさせた。
「蓮司の口から"彼女"って聞くと破壊力すごいね」
「自分で言わせといてそれかよ……」
「もう一回言って」
「死んでも言わねえ」
「ケチ」
陽和は笑いながらおにぎりを頬張った。蓮司は卵サンドを食べた。コンビニの卵サンド。美味い。でも昨日の手作りの方が美味かった。あのマスキングテープの字が添えてあるだけで、同じ卵サンドが全く別の食べ物になった。
「ねえ蓮司」
「ん」
「学校ではどうするの、私たち」
蓮司の手が止まった。
「……どうするって」
「みんなに言うの? 付き合ってるって」
蓮司は考えた。
言ったらどうなるか。クラスが騒ぐ。「やっぱり!」と言うやつもいるだろう。「お似合い」と言うやつも。桐谷は——気まずいかもしれない。でもあいつはそういうのを引きずるタイプじゃないだろう。真白はたぶんもう気づいている。
問題はそこじゃなかった。
言ったら、陽和に近づいてくる男子が——減るかもしれない。
いや。
減ってほしい。
その感情があまりにも即座に浮かんだことに、蓮司は自分で引いた。
「……おまえはどうしたい」
「蓮司に合わせる」
「俺に振るなよ」
「だって蓮司は気にするでしょ、こういうの。私は別にみんなに知られても平気だけど——蓮司が嫌なら、しばらく内緒でもいいよ」
蓮司は少し黙って、それから言った。
「……内緒にしなくていい」
「え、いいの?」
「別に隠すことでもねえだろ」
本音は違った。
隠したくなかった。おまえが俺のだと知っていてほしかった。全員に。——そんな独占欲まみれの理由を口にするわけにはいかなかったが。
陽和は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、月曜日からは学校で手繋いでもいいの?」
「……学校では自重しろ」
「えー」
「えーじゃねえ」
「じゃあ放課後だけ?」
「…………善処する」
「善処って何」
蓮司は卵サンドの最後の一口を飲み込んで、ペットボトルのお茶を飲んだ。
陽和がベンチの上で少しだけ蓮司の方に寄った。肩が触れる。
「ねえ蓮司」
「……今日だけで何回目だよ、それ」
「何回でも呼ぶよ。蓮司、蓮司、蓮司」
「……やめろ、心臓に悪い」
「蓮司って呼ぶだけで心臓に悪いの?」
「…………おまえが呼ぶと悪い」
陽和はきゅっと唇を噛んで、顔を赤くした。
「……今の、ずるい」
「何が」
「無自覚にそういうこと言うの、ずるい」
「俺は事実を言っただけだけど」
「その事実がずるいって言ってんの……」
二人してベンチの上で赤くなっている。日曜日の公園で。おにぎりとサンドイッチの包装を膝に乗せたまま。端から見たら、ただの初々しい高校生カップルだった。
夕方。
太陽が傾き始めた頃、二人は帰路についた。
商店街を抜けて、住宅街に入る。手は繋いでいる。もう迷わなかった。蓮司から繋いだ。二回目は一回目より自然だった。
「今日、楽しかった」
陽和が言った。
「……ああ」
「蓮司と出かけるの、前と全然違う」
「……そうか?」
「手繋いでるだけで全然違うよ。——あと蓮司がたまにこっち見てくるのも」
「……見てねえ」
「見てた。信号待ちの時と、カフェ出た時と、雑貨屋の中と、公園でおにぎり食べてる時」
「……数えてんのかよ」
「数えてる。今日は十二回」
蓮司はもう何も言えなかった。十二回も見ていたらしい。自覚は四回くらいだった。残りの八回は無意識だ。無意識に陽和を見ている自分が恐ろしかった。
家の前に着いた。夕焼け。いつもの二軒。
手を離す——前に、蓮司は立ち止まった。
「……陽和」
「ん?」
蓮司はポケットに手を入れた。雑貨屋の小さな紙袋を取り出した。
「……これ」
陽和が受け取る。中を覗いて——目を見開いた。
シルバーのリング。シンプルなデザイン。二つ入っている。
「蓮司——これ——」
「サイズ合わなかったら交換する。レシートある」
「え、あ、そうじゃなくて——ペアリング?」
「…………まあ」
「蓮司が——蓮司が、買ってくれたの?」
「……さっき、おまえが見てた時に」
「あの時!? 先に行ってろって言った時!?」
「……ああ」
陽和は袋の中のリングを取り出した。指に嵌めてみる。薬指。少しだけ緩い。
「……中指だな」
蓮司が陽和の手を取って、中指に嵌め直した。ぴったりだった。
「……合った」
「合ったって——蓮司、サイズどうやって——」
「昨日手繋いだ時の感覚で予測した」
「……は? 何その特殊能力」
「特殊じゃねえ。ただの——」
「ただの?」
「……ただの、おまえの手を覚えてただけだ」
陽和は中指のリングを見つめて、唇を震わせた。泣きそうだった。でも今度は泣かなかった。代わりに、今日いちばんの笑顔を見せた。
「ありがとう、蓮司。——大事にする。ずっと」
「……大げさだ」
「大げさじゃないよ。初めてもらったアクセサリーだもん」
「……マジか」
「マジ。蓮司が初めて」
蓮司は自分の分のリングを薬指に嵌めた。少しひんやりする。でも悪くない。
「蓮司のは薬指なんだ」
「……サイズがここだっただけだ」
「薬指って、左手の薬指って——」
「深い意味はねえ」
「絶対あるでしょ」
「ねえよ」
「……蓮司って、こういうとこだけ大胆だよね」
陽和の声は震えていた。嬉しさを抑えきれていない。
蓮司は耳が限界だったので、話題を変えようとした。でも口を開いた瞬間、別の言葉が出た。
自分でも予想しなかった言葉が。
「……おまえは俺の——」
途中で止まった。
口が勝手に動いていた。脳が追いつく前に、喉が音を出していた。
陽和が息を止めた。
「俺の……?」
蓮司は口を閉じた。顔が赤いを通り越して燃えていた。
言いかけたのは——「おまえは俺のものだ」だった。
とんでもない台詞だ。付き合って一日目の人間が言っていい言葉じゃない。重い。重すぎる。引かれる。絶対引かれる。
「……なんでもない」
「なんでもなくない!今すごい大事なこと言いかけたでしょ!」
「言ってない」
「言いかけた! 『おまえは俺の』まで聞こえた!」
「空耳」
「空耳であんな顔で言わないでしょ!蓮司、続き!」
「ない。続きはない」
「ある! 絶対ある!」
蓮司は踵を返して自分の家の門に手をかけた。逃亡だった。完全な逃亡だった。
「蓮司!!」
「おやすみ!」
「まだ五時半だよ!!」
蓮司は玄関のドアを閉めた。靴を脱ぐのももどかしく二階に駆け上がって、自室のドアを閉めて、ベッドに倒れ込んだ。
枕に顔を埋めた。
「…………死ぬ」
心臓が壊れる。いや壊れている。もう壊れた。
おまえは俺のものだ。
本気でそう思っている。そう言いたかった。陽和の中指に嵌まったリングを見た瞬間、どうしようもなく思った。
おまえは俺のだ。その笑顔も、涙も、本物の顔も、全部。
指の間をすり抜けてほしくない。誰にも渡したくない。俺の隣から動くな。俺だけを見ろ。
——重い。自分でも引くほど重い。
スマホが鳴った。陽和からのLINE。
「逃げた」
*「逃げてねえ」*と返す。
「逃げたくせに。——ねえ蓮司、続き、いつか聞かせてね」
「ない」
「あるよ。待ってるから」
蓮司はスマホを伏せた。
天井を見た。左手の薬指にリングが光っている。
いつか言えるだろうか。あの続き。
おまえは俺のものだと。俺はおまえだけのものだと。
蓮司は目を閉じた。
窓の外から夕焼けの光が差し込んでいる。隣の家の窓は——まだ開いていなかった。でもきっと、もうすぐ開く。
その気配を待ちながら、蓮司はリングに触れた。
ひんやりした金属が、少しずつ体温を吸って、温かくなっていった。
夜。
蓮司が窓を開けると、隣の窓はもう開いていた。
カーテンの隙間から陽和が顔を出している。中指にリングが光っている。
「おやすみ、蓮司」
「……おやすみ」
「ねえ」
「ん」
「今日のデート、百点だった」
「……採点すんな」
「百二十点にしようか」
「余計いらねえ」
陽和がくすくす笑う。月明かりが彼女の輪郭を銀色に縁取っている。
「蓮司」
「何」
「好きだよ」
毎回言われると心臓がひっくり返りそうになる。慣れるのだろうか。一生慣れない気がした。
「……俺も」
昨日より少しだけ声が大きかった。
陽和が満足そうに笑って、窓を閉めた。
蓮司は窓辺にしばらく肘をついたまま、夜の空を見ていた。星が見える。昨日は雨だった。今日は晴れている。一日でこうも変わるのかと思った。
リングに触れる。温かい。
左手の薬指。深い意味はないと言った。嘘だ。深い意味しかない。
——おまえは俺の。
続きは、まだ言えない。
でもいつか——いつか必ず、言う。
蓮司は窓を閉めて、明かりを消して、眠りについた。
明日は月曜日。学校がある。隣の席に座る。今度は「ただの幼なじみ」じゃなく。
それが嬉しくて、それが怖くて、それが全部で——蓮司は笑った。
暗い部屋で、一人で、小さく。




